通り魔と先輩

とらたぬ

通り魔と先輩

 下駄箱の右から四列目、上から三段目、妙に傷が多いそこから、使い古したぼろぼろのスニーカーを取り出して、地べたに投げる。

 草臥れてふにゃふにゃのそれに足を通して、さーて帰るかー、なんて一人呟いていると、後ろから声をかけられた。

「よう、かなで

 振り返らずともそれが誰かはわかる。私のことを下の名前で呼び、なおかつ、そう呼ばれても嫌悪感を感じないでいられる相手は限られる。それが男性となればもう決まりだ。

「何の用ですか、先輩」

 素っ気なく、人によっては無愛想な上に生意気だと言われてしまいそうな口調。

 だけどこれが私の普通。

 先輩もそれはわかっているから、それで機嫌を損ねたりはしない。

「外、真っ暗だろ、送ってくよ」

 流石に意味がわからなくて、私は後ろを振り返る。

 ニヤニヤと、先輩は何か悪巧みでもしていそうな笑みを浮かべていた。やっぱり意味がわからない。

「いいです、いりません。別に、大丈夫です」

 本音を言えば、暗い夜道を一人で帰るのは怖いし、心細い。先輩がいてくれれば安心ではある。

 けれど、それを言えば絶対に笑われるので、決して言わない。

 しかし、そんな私の本心はお見通しなのか、先輩は意地でも付いてきそうな雰囲気があった。

「まあ、遠慮すんなって、最近は物騒だからな。通り魔が出たって連絡、回ってこなかったか?」

 何となく、朝のホームルームか何かで聞いた気がする。適当に流していたから、あまり覚えてはいないけど。

 というのは建前で、凄く怖い。

 またか、と過去のトラウマを思い出して、身体が震えだす。

 なんとかそれを隠し、私は小さな声を絞り出した。

「なら、まあ、お願いします」

「おうさ」

 軽く頷く先輩の姿が、やけに頼もしい。

 何の脈絡もなくわしゃわしゃと頭を撫でられ、先輩なりに私を勇気づけようとしてくれているのかな、と思う。

 昔からなぜかこういう類いの厄介ごとに縁のある私を、先輩はいつも勝手に巻き込まれに来て、助けてくれる。

 その度に、こうして頭を撫でてくれるからか、先輩に撫でられると、妙に落ち着く。

 微妙に見透かされてるような気もするけど、まあ、いいか。

 点滅する電灯に照らされた道を歩きながら、ふと隣を見上げると、先輩は凄く警戒していて、もしかして何か居るのだろうか、と怖くなる。

 気がつくと、私はほぼ無意識のうちに、先輩の手を握っていた。

 ゴツゴツしていて大きな手。

 何も言わず、優しく握り返されて、少しだけ体の強張りが取れる。

 そのまま、特に何事もなく見慣れた風景が流れていき、家に着いた。

「ありがとうございました。また明日。おやすみなさい」

 言ったものの、名残惜しくてなかなか手が離せない。足もなんだか、地面にくっついてしまったみたいに動かなかった。

「どうした、寂しいのか〜?」

 先輩は揶揄うようにニタリと笑う。だから私は素直に言ってやった。

「寂しいし、やっぱりまだ怖いです」

 先輩を見ると、目を丸くしている。してやったり、という感じだ。

 頭をガシガシと掻いて、少しだけ頬を赤くした先輩は言った。

「そういえば今月は食費がピンチなんだよなー。どこかに夕飯をご馳走してくれる親切な後輩はいないかなー」

 酷い棒読みがあったものだ。

 でも、ありがたく乗っからせてもらう。

「じゃあ、先輩。今晩うちで食べてってくださいよ」

「え、いいの?」

「いいに決まってます」

 お母さんにはまだ聞いていないけど、きっと構わないって言ってくれるはずだ。

 私が先輩にお世話になっていることは、お母さんもよく知っている。そんな風に思っていたら、微妙に開いたドアの隙間から、サムズアップしているお母さんが見えた。恥ずかしいから本当にやめてほしい。

 先輩が苦笑いしているじゃないか。

 二人、家の中に入ると、玄関まで美味しそうな匂いが漂ってきている。

 廊下からキッチンに続くドアが少しだけ開けられている辺り、芸が細かい。

 ダイニングのテーブルには、既に三人分の夕飯の支度がされていた。

 私は先輩と並んで椅子に座る。

 いつもとはちょっと違う食卓に、好物のシチュー。

 先輩を加えての食事だからか、普段より少しだけ美味しく感じる。

 食べ終わる頃には、すっかりと恐怖なんて忘れてしまって、温かい気持ちでいっぱいだった。

 その後、車で送ろうか、という提案を断って、先輩は歩いて帰って行った。

 私は先輩が家に着くだろう頃合いを見計らって、「今日はありがとうございました」とメッセージを送る。

 それからお風呂にゆっくりと浸かって、幸せな気分のまま眠りについた。


 ●


 翌日、学校に行くと先輩は休みだった。

 次の日も、その次の日も、先輩は休みだった。

 メッセージを送っても、一昨々日の夜から既読がつかない。

 もしや、帰り道で通り魔に襲われて、人知れずどこかの路地裏で倒れているのではないか。

 いよいよ不安になってきた私は、先輩が一人暮らししている部屋を訪れた。ピンポーンとインターホンを鳴らしても、ドアが開く様子はない。どんどん不安が強くなっていく。

 私は最近貰ったばかりの合鍵で鍵を開けて、中に入る。期待は裏切られ、中には誰もいない。うっすらと積もった埃から、先輩がしばらく帰ってきていないことがわかる。

 私は居ても立ってもいられなくなって、事情を知っていそうな人に、片っ端から聞いて回った。

 手始めに学校の職員室に突撃した。すると、あっさりと先輩の行方が掴めた。

 先生曰く、先輩は通り魔に襲われ包丁で刺されるも、そのまま通り魔を殴り倒して警察に突き出し、倒れて病院に運ばれ、今はまだ入院しているらしい。

 先輩が通り魔に襲われた原因の一端が私にあることは確実で、心が痛む。

 それでも、生きていてくれてよかった。

 安心していくらか冷静になった私は、先輩が入院した経緯を思い出して首を傾げた。意味がわからない。

 包丁で刺されたまま?? 通り魔を殴り倒して?? 警察に突き出した?? 頭おかしいのでは?? しかしあの先輩ならさもありなん。意味はわからないけど。

 それでもやはり心配なものは心配なわけで。

 次の日、先輩が入院している病室にお見舞いに行くと、どこから手に入れてきたのか、先輩はベッドの上で胡座をかいて、えっちな本を読み耽っていた。

 心配してここ数日眠れていなかった私がバカみたいだ。

 私に気づいた先輩は、凄まじい速度でえっちな本を枕の下に隠した。既にピンピンしているようだ。

「よう、奏」

 そしてあの日と同じように笑いかけてくれるわけだけど、隠しきれていないえっちな本が、枕の横に出ていて、本当にダメだ。

 何はともあれ、先輩が大丈夫そうでよかった。

 そう思い込むことで現実から目を逸らし、私は無言で病室を後にした。

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