第2話 橘:青いクジラ

藤井はその日の授業中はずっと橘のことを考えていた。


窓の外を見ると、初夏のギラギラした風景だ。でも藤井の心は全く対照的に冷え込んでいた。


橘の死の原因が全く分からなかった。


2年になってからクラスになじめなかったのだろうか?


1年の時はすぐにクラスに馴染んで、人付き合いが苦手そうには見えなかった。


自殺の理由は何だろう?


隣に座ってる子に聞いてもそこまでは分からないだろう。


橘はいじめられるというキャラではない。明るいし、ちょっとお調子もので目立ちたがり屋だった。


もう一度、橘の最後のLINEを読み直してみた。全く切羽詰った感は感じられなかった。


その時、藤井は、もしかしたら自分がすぐに会わなかったから、それが原因で死んだのかもしれないと、急に罪悪感を感じ始めた。


僕が会っていれば、橘の死を防げたかもしれない。


自分の心の支えとしていた親友があっさりとこの世からいなくなってしまい、信じていた社会というか世の中が意外と脆いと実感した。まるで自分の足場がガタガタと音を立てて崩れていく感じだった。


放課後、昇降口から出たところで、父に電話しようと立ち止まった。


いつも夜、父から電話がかかってくるので、今日は葬式で、電話に出れないかもしれないと伝えるためだ。

でも、止めた。

留守電でも良いし、そんなに葬式に長居するつもりはなかったからだ。


藤井の父は、単身赴任中で月末のみ家に帰ってきた。

毎月最終週の金曜の夜遅くに帰宅し、翌週の月曜、朝早く出勤する。


それ以外の日はずっと、赴任先の他県の職場の近くに借りた住居から職場へ通っていた。


だから、藤井は毎日自炊していた。掃除、洗濯、日用品の買い物なども全部自分で行った。


母は、藤井が小学3年の時に、家を出ていった。


今も理由は不明だ。父に聞けば分かるかもしれないが、とても聞く勇気はない。


当時小学生だった藤井は、普通の子供らしく、普通に母にわがままを言っていた。

そしてある日突然母がいなくなったから、自分がわがままを言い、それに母が耐えなれなくなって出ていったと理解した。


高校生になった今では、もっと別の事情、または理由があったのかもしれないと頭では分かっている。


でも、漠然と、女性は自分からは離れていくもの、縁がないものと思っていた。クラスでも女子とは出来るだけ関わりを持たないようにしていた。


自転車に乗り、葬式が行われると聞いた住所に向かった。


葬式は大通り沿いの葬儀会館だった。

自転車を会館の裏の置き場所に停めた。


建物に入ると、複数の葬式を行っているようで、何々家、何々家と入り口に表示が出ていた。


橘家の案内表示にしたがって、階段を上って2階へ行った。

そこにも紙に筆字で書かれた案内があり、廊下の奥の部屋に入った。


畳の部屋で、入り口より一段高くなっていた。入り口で靴を脱いで畳の間へ上がった。


先に大人3人、同じ年くらいの知らない子が1人がいた。多分同じクラスの友だちだろう。

制服の上着を着ていなくて、シャツブラウスだけなので、学校が分からなかった。


大人の方は、多分橘の両親の知り合いだろう。橘の両親と思われる人と話していた。


藤井は記帳して遺影を前に焼香した。


棺の顔の部分が開いていた。

恐る恐る覗くと、橘がすました顔で目をつぶっていた。

顔色も良く、とても亡くなっているとは思えなかった。


何、話したかったんだよ?話す前に死ぬなよ。


声には出さなかったが、藤井は心の中ではっきりと、橘の顔に話しかけた。


チーンと鳴らして、合掌して、しばらく黙祷を捧げた後、部屋を出た。


すると、廊下で後ろから女性が追いかけてきて、声をかけた。

「藤井くん?」


振り返ると、涙目の中年女性がいた。


何で僕の名前、知ってるんだろう?

不思議だった。


「はい」

「来て下さってありがとね」

多分橘の母親だろう。


「いえ、こちらこそ」

彼女はいろいろ話しだした。

橘が陸橋から下の鉄道の線路に飛び降りたこと。遺書は無かったこと。彼女には全く原因に心当たりが無いこと。


藤井は聞いていて、だんだん自分が責められている気がした。

自分があまりにも最近の橘について知らなかったので、友達だったのに薄情に思えてきたからだ。


「藤井君、1年のとき家遊びに来てくれたでしょ」

橘の母親が藤井の名前を知っていた理由が分かった。


「2年になっても、よく藤井君の話してたの。何か連絡とか取ってなかったかしら?」

母親として、我が子の死の理由を知りたい気持ちは痛いほど分かった。


橘の死の直前に、橘からLINEがあったことを一瞬話そうかと思った。

けれど、結局何も知らないことには変わりないわけで、変に期待を持たせてしまうのも悪い気がして、言うのを止めた。


何で最初に話さなかったのか、と詰問されるかもしれないという不安も少しあった。


「いえ、特に」

「そう、ごめんね」

橘の母親の顔を見ていて、気の毒になった。


橘の母親はそれから少し間をおいて、ちょっとためらいがちに、聞き慣れない単語を口にした。

「青いクジラって、何か分かるかしら?」

「青いクジラ?」


前後の会話と噛み合わない単語に、藤井は思わず聞き返した。

「ええ、幹夫、最近急にその話ばっかりしていたから。藤井君なら何か知ってるかな、と思ったんだけど」

幹夫とは、橘の名前だ。


「さあ、ちょっと聞いたこと無いです」

「そう、今日は本当にありがとね」


藤井は軽くお辞儀して部屋を後にした。


自転車で自宅に向かいながら、いまいち橘の死の実感がなかった。

明日も普通に学校に来るように気がしたし、また突然LINEを送ってくるような気もした。


泣けない僕は、薄情なのかな?


親友だったのに、涙が出ない自分が汚れている気がして、そんな自分が嫌になった。

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