第6話 家守 その八
落日。
まるで昼を見守る神々が目をとじたかのように、太陽が山の端に姿を隠すと同時に、場の空気が変わった。
悪魔だ。
冷気をまとい、悪魔が現れる。
藍色の空に刻一刻と星のまたたきが鮮明になるころ、それが立ちあがった。
遊園地の中央あたりから、黒い卵のようなものが、みるみるふくらんできたかと思うと、ものの数秒で観覧車よりも高くなる。そして、上半身を起こす。
その姿を見て、龍郎は吐き気をもよおした。
この不快感に覚えがある。
すべての地球上の生き物に対する、とんでもなく冒涜的な形体。
頭部はヒキガエルに似ているが、全身を黒く短い獣毛がおおっている。腹部が異様に膨張して、風船を飲みこんだ醜い
ユーモラスなはずのフォルムなのに、それを補ってあまりあるほどの生理的不快感をあおるのは、胴体のほとんどの部分を覆うイボのようなもののせいだろうか?
よく見れば、ただのイボではない。ヒキガエルのような怪獣が口をあけ、奇声を発するたびに、イボがひらいて、その一つ一つから小さなヒキガエルが顔を出す。大きな蝦蟇に小さな蝦蟇が無数に埋没している。小さな蝦蟇は顔をのぞかせるたびに、赤く長いカメレオンのような舌を伸ばして、ヒラヒラと炎のようにひらめかせた。
「——ツァトゥグァ!」
青蘭の叫びが、龍郎の不安な予測を断定した。
まちがいない。この視線の端でながめることさえ、正気を奪いかねない、全身のあわだつおぞましさ。
古きものだ。
かつて、忌魔島で見た邪神。
その仲間である。
「なんで、こんなところに邪神が? さっきまで気配を感じなかったのに……」
悪魔を前にして、青蘭が戸惑うことなど初めてだった。
それほど強い相手なのだろうか?
「どうするんだ? 青蘭」
「アンドロマリウスを呼ぶしかない……とは思う。けど……」
なぜかはわからないが、青蘭はためらっている。
怪物はギャーギャーと耳の奥を尖ったガラスの破片でひっかいていくような不快な音波を発し、こっちへむかってくる。
ドスン、ドスンと短い脚が地面をふむたびに大地が揺れる。イボから蝦蟇が押しだされて、今にもこぼれおちそうだ。振動にゆられてブラブラするさまが、無様なのに吐きそうなほど気持ち悪い。
あっ、乱舞してると思って、龍郎はとうとつに爆笑しそうになった。怖くてしかたないのに笑いだしたいって、なんなのだろうか? ちょっと正気を失いかけてるのかもしれないと、自分で自分が心配になった。
「龍郎さん! 逃げましょう」
見かねたのか、青蘭が龍郎の手をにぎって走りだす。
「えっ? 逃げるの? いいの?」
「だって……アンドロマリウスが起きてこない」
龍郎が青蘭にひっぱられて走りだした瞬間に、化け物が怒り狂ったように見えた。さらに甲高い奇声をあげる。耳がつぶれそうだ。
「あっ! 清美さん——」
そうだった。今は龍郎と青蘭の二人だけじゃない。清美もいるのだった。
清美は完全に放心して立ちつくしている。
「青蘭。待って。清美さんもつれていかないと」
「そんなヒマないよ!」
青蘭は強い力で龍郎の手をひく。
ツァトゥグァは清美に目をつけたようだ。まっすぐ清美にむかい、太く短いブヨブヨの前足を伸ばしていく。吸盤のある三本指の手の平から、ボコンとイボがふくれて、大きめのヒキガエルが口をあけた。長い舌が波打ちながら清美に迫る。舌の先端から液体がしたたりおちた。強い酸の匂いがして、地面が黒く焼ける。
「ツァトゥグァは獲物の血管に硫酸を流しこむことができるんだ。やられた相手は全身が溶けくずれて、悶え苦しむ」
青蘭の言葉を聞いた瞬間、龍郎は走りだしていた。
自分に魔神を倒せるとは思えない。
星流から継承した力で能力をコントロールすることはできるようになった。低級悪魔くらいなら自分で浄化できる。しかし、魔王クラスの化け物では話が別だ。青蘭でさえ、賢者の石の力を用い、アンドロマリウスを使役することで初めてできることだ。龍郎一人で、どうにかなるような相手ではない。
わかってはいるが、体は意識に関係なく動いていた。
「清美さん!」
清美の手をとって、きびすを返そうとした。清美はそのまま足をもつれさせて倒れる。
「清美さん。がんばろう。走って!」
引き起こしてつれていこうとするが、清美は泣きだしてしまった。
「龍郎さん、危ない! うしろ!」
青蘭の声が聞こえて、ふりかえったときには、赤い舌が目の前にあった。ジュワジュワと強烈な酸っぱい匂いのする液がにじみだし、ボタリと落ちる。
(もうダメだ。ここで終わりだ……)
右手をかかげはしたが、邪神にわずかでも傷をつけられるかどうかすら怪しい。
龍郎が絶望的な諦観を受け入れかけたとき、急に、それが止まった。
見るに耐えない醜悪な怪物が、おとなしい飼い犬のように龍郎の右手の前で“待て”をしている。
(な…………?)
やがて、化け物は現れたときと同様に、急速に小さく縮んでいった。その姿も淡い光のなかで変容していく。
いつしか、それは清美の父と母の姿になっていた。
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