花より綺麗なストーカー

@ichinose_enen

0.ヒガンバナに見習いぼくたちはどうあるべきか

カップラーメンを食べているお兄ちゃんの横で、ぼくはお父さんがわざと溜めているゴミを食べていた。

「アイナ、そんなことはやめてこれを食べなよ」

と縮れた麺を、裏返した蓋の上に置いた。

「いらない」

微笑んだお兄ちゃんはあおぐろい。目の前で汁と共にうじゃうじゃと動く麺を美味しそうとは思えなかったから、ぼくは拒否した。決して、視界に入るお兄ちゃんの顔が気持ち悪いからとかじゃない。お兄ちゃんが少しでもお父さんに破壊されないよう、ぼくはゴミを食べ続けなければいけない。味はない、無機質な感触だけ。でもたまに、食べたあとシンクに放たらかしにされてたであろうカップラーメンの容器は、汁が染み込んでて美味しいんだ。なぜぼくがゴミを食べるかって。理由はお兄ちゃんを助けるため。よくお兄ちゃんがくれた縮れたラーメンのようなぼくの脳みそが、お兄ちゃんを助けろと言い縛り付けてくる。いつまでもいつまでも泣き散らしていたときがあった。お父さんはぼくをベビーベッドに縛り付けていた。目線の下でもお兄ちゃんが泣いている。相当五月蝿かっただろう。これが日常。でも、全く気づかなかった事があった。ある日、急に泣きたい衝動が収まったから、試しにうるむ眼球を直接擦った。いつものように下を見ると、柵を握ってお兄ちゃんも泣いていた。あおぐろい口が動いたと思えば、聞こえてきた。

「アイナ、助けて。助けて。」

ぼくの泣き声でお兄ちゃんの悲鳴が、全てから遮断されていたんだ。「助けて」ぼくの縮れた脳みそに吸い込まれてゆく。頭の中で鳴り止まないお兄ちゃんの悲鳴は、ぼくの生き甲斐にもなった。悲しまないよう、痛がらないように。泣くのを意図的にやめたぼくは少しだけお父さんに優しくしてもらえるようになった。拘束は解け、床に足をつかせてもらった。初めての地上に困惑して、立つことは出来なかったけれど、細い足を折って座り込むぼくを抱きしめてくれた。

「アイナ、助けにきてくれたの?」

そう言って泣くことをやめてお礼をしてきた。その晩、初めてのぬくもりに感動して、ふたりで抱き締め合いたくさん眠った。過剰な兄弟愛に目覚めたぼくたちだけど、お父さんは次のステップを踏む。リビングに帰ってくることはかなり減り、週に一度だけ帰ってきて、床に散乱したゴミと、シンクに溜まったゴミを大容量袋に放り込み、口を縛り、壁際に置いて行く。何も知らないぼくたちは駐車場にあるゴミ捨て場にこれらを捨てればいいことなんて分からない。ゴミ袋の前で立ち竦み悩むお兄ちゃんを見てぼくは思った。「助けなければいけない」。

「アイナ、これどうしよっか」

口を尖らせぼくに聞いて来た顔、また悲鳴をあげるんじゃないかと思って怖くなった。お兄ちゃんを突き飛ばして、食らいついた。ビニールを噛んで、ゴミも噛む。一口大に千切って、咀嚼し、飲み込む。やめろ!と身体を抑えてくる。ぼくは過呼吸を起こしながらも、たくさん飲み込んだ。


ゴミを食べてもお兄ちゃんをお父さんから助け出すことは出来なかった。数年経っても、ぼくの縮んだ脳みそではそれ以外どうすればいいのか分からなかった。脳みそを捨てたくなった。

「お前さえ生まれて来なければ」

「お父さ、ん、やめて」

「…お父さん」

悲鳴を上げながら頬を抑え倒れるお兄ちゃん。週に一度帰ってきたかと思えば、お父さんはお兄ちゃんを殴り続けた。声をあげようと口を開くたび、痛々しく端の傷が開いていった。でもぼくは、大柄なお父さんを抑えて、止めることは出来なかった。だってぼくは、一度も殴られていないのだから。もしここで手を出したらぼくも殴られてしまう、そう思った。ぼくなりに考えた。終わるまで待とう。終わったらお兄ちゃんをたっくさん慰めてあげよう。助け出すと決めたけれど、成長して分かった。お父さんから助け出すのは無理だって。

「お兄ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい。」

まるで、永遠に終わらぬ地獄だと感じた。お母さんと呼べる人物は何処にもいないし、ぼくはただただ真顔で壁に背を凭れさせ座っていることしかできなかった。近くにあったゴミを食べながら。なんだか、美味しかったよ。その様子を見たお父さんが、殴る手を止めてこちらにやってきた。お兄ちゃんに向ける顔とは違って、表情はとっても優しかった。お兄ちゃんは泣いていた。

「アイナ、何してるんだ?」

「お、お父さん、これ、おいしいの」

殴られないように正直に答えた。

「そうか。お父さんな、アイナに読んでほしいものがあるんだ。」

「な、に?」

手に持っていたゴミを奪い取って、ゴミ袋の中へと戻した。目の前の人物からお兄ちゃんを助け出すはずなのに、ぼくは心を許してしまった。お父さんはテレビの反対側にある棚から本を取り出した。

「これな、あに?」

「せいしんさんびうたって言うの。」

「どう、して、お父さんは、アイナには優しくするの!俺はなにが、ダメなんだよ…」

お兄ちゃんの悲痛な叫びを無視して、お父さんはぼくにせいしんさんびうたという本の説明を始めた。お兄ちゃんにごめんなさいと謝って、説明を聞いた。

「これは、漫画になっている。お兄ちゃんは身体がいたいいたいだろ?」

「うん」

「でもこれは、人の中身がいたいいたい!ってなってる人たちの漫画なんだ。」

ぼくはよく分からなかった。人の中身がいたいいたい?例えば、ぼくの硬いお腹の下がいたいいたい?お父さんはぼくの頭を撫でると、せいしんさんびうたを抱かせた。また、お兄ちゃんの叫び声が聞こえてきた。ぼくはページをパラパラめくった。

「わかんない」

じーっと見ても分からなかったから、本を閉じて、床に置いた。すると、お父さんが怒鳴ってきた。

「おい!アイナ!それを読め、全部だ!分からなくても読め!」

「ごめんなさい!」

初めて向けられた怒りだったので、ぼくは怯えて、本を持ち直して、ページをめくり続けた。

「アイナ、助けて、助けて!」

「ごめんなさい、ごめんなさいお兄ちゃん。」

お兄ちゃんの助けを求める声は止まなかった。目をギロりと剥いて、ぼくに向けて手を伸ばしていた。

「アイナには無理だろう。」

「助けてくれるんじゃなかっ、ゔっ」

ぼくには無理と断言したお父さんは、お兄ちゃんをひたすらに痛めつけた。あまりにも残酷な光景に見ていられなくなって、本を目線の先に持って行ってページを見続けた。たまたまめくったページにも、親が子を虐待する様子が描かれていた。口元の痙攣が止まらず、逆に目を閉じれなくなったぼくは、ヨダレを垂らしながら、耐えていた。

夕方に差し掛かっただろうか。お父さんはお兄ちゃんを捨てるように床に投げて、出かけて行った。

「お兄ちゃん…!」

「アイナ、痛いよ」

「ごめんね、ぼく、怖いの」

「分かってるよ…でも、俺の方が怖い」

「そうだよね。お兄ちゃん、ごめんね、ごめん。」

お兄ちゃんを抱きしめた。強く抱きしめると呻き声を上げたので、優しく抱きしめた。お兄ちゃんの方が怖いことは分かっている。少しでも傷が癒えるように、ぼくなりに方法を考えた。

「アイナ?」

「なんか、これすれば治るかなって」

口の端、切れている部分に口付けをした。ぼくはこれが愛している人同士がやることなんて知らなかった。逆に、親が子を殴る行為が異常なことだと理解していた。お兄ちゃんは全て分かってたみたいだけど、ぼくを突き飛ばさなかった。

「唾がしみてさらに痛くなっちゃうよ?」

「ほんとだ」

「ほら、アイナ。なんにもないところにやると痛くないの」

すると、お兄ちゃんはぼくの綺麗な口の端に口付けをした。冷めた硬い唇だったけれど、あったかい気持ちになった。見つめ合ったぼくたちは恥ずかしくなって、照れ笑いをした。この部屋では有り得ないくらい、幸せそうな笑い声だっただろう。お父さんが居なくなると、ぼくたちはふたりで歌った。社会から遮断され、当然音楽なんか触れたことなかったのに、たった一つ、歌える曲があった。「sister」。音楽は誰かが作っていることすら知らなかったから、ぼくたちはただひたすら感覚で歌うのみだった。

「ねえ、この歌って、どうやって作られたの?」

「俺な、テレビで見たことあるんだ。ピアノをぽんぽんって別々に押して、繋げていくんだ」

「ぼくやってみたいよ!」

「えっ、でも、ここにピアノないぞ」

「じゃあ、紙に書いてやる」

ぼくは絵本で見た覚えがあるピアノの鍵盤を、床に捨てられていた紙切れに書いてみた。そして、指でぽんぽんって、まばらに鍵盤を押しながら、声に出してみた。

「すげえよ、アイナ!お前天才じゃない!?」

「天才って、何?」

「ものすごいことができるってこと!アイナすごいよ!」

お兄ちゃんはぼくの肩を持ってぴょんぴょんと跳ねた。こんなにも喜んでいるお兄ちゃん初めてみた。ぼくはもっと喜んでもらいたくて、たくさん歌った。お兄ちゃんは嬉しそうな顔をしながら、最終的にぼくの膝の上で眠って行った。頭を打たないように膝をゆっくりと引いた。ベビーベッドから、掛け布団を取ると、お兄ちゃんの上に掛けてあげた。ぼくは四つん這いで壁際に戻ると、「せいしんさんびうた」を手に取り、開いた。必死に読んだ。分からない文字も多かったけれど、印象的だったのは、女の人が口の中に指を突っ込んで、便器に吐いているページだった。

「この女の人、なにしてるんだろう」

よく見ると、たくさんの食べ物を食べたあとにやっている。女の人は吐いたあと、幸せそうな顔をしていたから、真似してみることにした。ぼくは食べ物が食べられないから、ゴミを手にとって、口に放り込み、咀嚼し、飲み込んだ。全く気持ち悪くならないけど、女の人はどうやっているの?まさか、無理矢理吐いているの?一応、ぼくもトイレに駆け込み、口の中に指を突っ込んでみた。キューと喉元が苦しくなったから、すぐやめた。

「うゔっ、女の人、変な人だな」

変な、では済ませていけない人たちが載っている本だが、ぼくは当然理解できず、モヤモヤを残したまま、なんとか読み終えた。数分経つと、急激に気持ち悪くなった。喉元を抑えて、トイレに駆け込み、オエッと吐いた。

「はぁはぁ、なにこれ、黄色の液?」

目の前に広がったのは真っ黄色のドロドロした液でとても臭かった。すぐ流した。吐いたあとも気持ち悪さが持続したのでぼくは絶対にやらないと決めた。お兄ちゃんのもとに戻って、サラサラな黒髪を撫でた。

「お兄ちゃん。だーいすき」

「んっ、アイナ?」

「あ、起きちゃった」

お兄ちゃんはぼくの小声でも起きてしまうほど過敏になっていたのに、なぜか、血ではなくほんわりしたあかいろとぴんくいろのシミが頬を覆っていた。

「アイナ。俺もな、だーいすきだぞ」

「やったー!」

「いや、愛してる、かな?」

「愛してるってなあに?」

「世界で一番好きってことだよ」

兄弟は深い愛に落ちていることが当然だと思うようになった。抱きしめあい、口付けをして、愛の言葉を言い合って。今思えば、そんなの。有り得ないのに。

「テレビ見ようぜ」

「うん!」

テレビと本だけは許されていた。ぼくたちはイチャつくと同等なくらい楽しみだった。お兄ちゃんがリモコンでテレビを付けた。ビシッとした大人の人たちが難しいことを話している。ぼくたちは内容自体理解が出来なくても、言葉は順調に覚えていった。ニュースからドラマへとチャンネルを変えた。男の人が包丁を持って、女の人を脅していた。

「この男の人、なにして?お兄ちゃん?」

「アイナ、変えてっ…」

そのシーンを見た途端、お兄ちゃんはぼくの背に隠れて泣き始めた。ぼくは従って、花達を紹介している番組へと変えた。

「お兄ちゃんどうしたの?」

「ごめん、ありがとう」

番組を変えるとお兄ちゃんはすっかりと表情を戻して、お花の紹介を楽しんでいた。

「お兄ちゃん、変な人」

「変ってアイナもだよ」

「ぼくは変じゃないよ」

お兄ちゃんの綺麗な横顔を見つめていると、不思議な気持ちが湧き上がってきた。ボーッと見つめていると、お兄ちゃんはテレビの画面を指さして、ぼくに話しかけた。

「アイナ、知ってるか?花ってな、種を土に植えて、お水をやると、おっきく育つんだ」

「そうなの?お花って種からできてるんだね」

「そうだよ。アイナ、水、やって見るか?」

「え?お外に行くの?」

「違うよ。寝室に花が植えてあるんだ」

そう言うと、お兄ちゃんは手を伸ばしてカーテンの中に入り込んでいたジョウロを取り出した。シンクでジョウロに水を入れると、ぼくに持たせてきた。

「こぼすなよ」

寝室の襖を開けてくれたので、ぼくはこぼさないようにゆっくりと歩いた。ああ、そういえば、赤い花が植えてあったな。あまり意識してなかった。

「アイナ、これは、ヒガンバナって言うんだ」

「カッコイイね」

「ほら、水やってみろ」

「うん!」

ゆっくりとベッドに上り、跪いたぼくは、ヒガンバナに水をやってみた。土が黒く変色していき、花弁に雫がついた。

「綺麗だねお兄ちゃん!」

「だろ?」

とっても幸せだった。こんな時間がいつまでも続けばいいのにと思った。


この日を境にお父さんは完全に帰ってこなくなった。お兄ちゃんとぼくはお父さんという悪魔から解放され、常に気分が高揚していた。

「ねえ、アイナ!何しよっか!」

「うーん。お外に出てみようよ!」

「...それは無理だ」

「そうなの?」

ぼくは、誰にも縛られなくなった、自由の身となったお兄ちゃんを見て、さらに愛おしくなった。ヒガンバナを見つめていたお兄ちゃんに後ろから抱きついた。

「アイナ?なにしてんの!?」

「お兄ちゃん、ねえ。裸見せてよ」

ぼくは「せいしんさんびうた」で「近親相姦」のページを読んだ。お兄ちゃんとぼくのような家族同士で、セックスをする。そのページはたまたま、愛し合っている絵だった。ぼくは見惚れてしまった。とっても魅力的に感じて、求めていたものはこれだと感じ取った。縮んだ脳みそが久しぶりに蠢いた。早速、実行した。丁寧にやり方まで書いてあったから、ぼくは頑張ってやった。お兄ちゃんは辛そうな顔していた。

「どうしてお兄ちゃん、泣いているの?」

「アイナなんて、大っ嫌い…」

「どうして?」

突然、ぼくのことを嫌いだなんて言うもんだから驚いた。でもぼくは、そんなはずないと思い込んで、続けた。初めて得る快感に強く感動した。気持ちよくて仕方なかった。強い月光に照らされ、お兄ちゃんの顔にヒガンバナが映った。それは、ヒガンバナより綺麗だった。

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