こちらです、と村長が天使の滞在場所として通した教会は、丁寧に掃除されているものの、古ぼけて薄暗かった。天使は穏やかな声音で司教の所在を尋ねたが、村長は恥じたようにこのような地方の小村には派遣されてこないのだと答えた。天使は気を遣っているのか、そうですかと何度か頷いた後は、黙って鈍い色の十字架を見上げていた。

 村長、天使、村人の順で最後尾に付くよう言われたエヴァリは、村長が天使を部屋に通している間、村人に天使様のお世話をするように、失礼のないようにと言い聞かせられた。分かっているなと恐い顔で凄む村人からさっさと粗相をして罰せられてしまえと嗤う色を見て取ったが気にしなかった。果たして天使は食事や睡眠を獲るのか、またその為の部屋が必要なのか疑問だったが、尋ねるような愚は犯さず、当然エヴァリは従順に頷いた。出て来た村長に村人と同じ目の色を向けられながら、入れ替わりに部屋に入った。

「失礼致します」

 天使は部屋を見分しており、入ってきたエヴァリに気付いて振り返った。

 細めた目が険しかった。

「行ったか?」

 エヴァリは目を瞬かせた。明らかに、天使の口調に乱雑な調子が混じっている。

「あいつらは出て行ったかと訊いたんだ」

 苛立ち。荒々しい態度に疑問符を浮かべながらも頷いた。

「はい、出て行ったと思います」

 その答えを聞くや、天使は神言の肩布を肩から外して放り、聖衣の前を緩めて、椅子にどさりと座った。

「酒」

 命じられるまでもなく肩布を拾っていたエヴァリは鋭い眼を向け、顎で示す天使に一瞬たじろいだものの、布をたたんで机の上に置くと、部屋を出て酒を持ってきた。

 身体を椅子に預けて深く座っている天使は、酒を注ぐエヴァリの一挙一動を見ていた。視線を感じながら、エヴァリは落ち着いた動作で丁寧を心掛けた。

「どうぞ」

 杯を差し出すと天使は一口飲んで顔をしかめた。

「不味い。もっと良い酒はないのか? ……こんな場所じゃ無理だな」

 答えを待たずに天使は皮肉げに笑った。

「食い物も期待するだけ無駄か。まあ、食わんでも良いんだが」

 そうしてまた酒を飲む。

「それで?」

 天使は首を傾けた。組んだ足に肘を立て顎を支える。開いた胸元と首筋の肌が白く、薄く色付いていた。

「お前はいつまでここにいるつもりだ」

「お世話をするよう長から言い付かりましたので、ご用がある限りはここにおります」

 エヴァリは答えた。平然と。がらりと変わった天使の態度はエヴァリには驚くようなものではない。信心深い村人が、鞭を持って人を打って愉悦を感じるような事は、ざらにあるのだから。

 天使は遠回しに出て行けと言っているようなので、エヴァリが紡ぐ次の言葉は「他にご用はございませんか」だった。

 天使は仏頂面になった。それもまた名のある彫像のようで美しかったのだが、何か気に入らない事でもあるのかと身構える。

「お前、あの男の言う事を聞くのか」

 不意に言った。エヴァリは意味を取れず、訝しげに首を傾げた。

「どうせあの男に命じられたんだろう。人身御供なんぞ古い慣習を持ち出した奴に。誰も彼もそれで救われると信じているのだから、おめでたい話だ」

 俺に寄越されたのもそうだな、と天使は言った。

「お前は崖下に落とされる代わりに、俺の前に生贄として差し出されたんだ」

 嘲笑うかのような口調と微笑。人々が語る天使とはかけ離れ、まるで悪魔と言われそうなほど、その微笑は艶やかだった。

 エヴァリは自分が静かな感動を持っている事に驚きながら、彼を見つめ、口を開いた。

「否定は致しません。いえ、寧ろ肯定致します」

 例え目の前の存在が慈悲深い天使に見えなくても、エヴァリは正直に頷いた。こうはっきり言ってもらえるからこそ、エヴァリは確信として思う事が出来た。

 天使の目にも、自分は生贄に見えるのだ。

 それを口にする事を厭わない天使に好感を抱いた。彼は自分の心に正直なのだ。こんな天使は、きっと彼だけなのだろう。感動を感じている自分がくすぐったく、また全く天使らしくない彼に思わず頬を緩めると天使は表情を消した。

「何故笑う」

「申し訳ありません。なんだか嬉しいのです」

「嬉しい?」

 天使は形の良い眉を上げた。

「『お前に慈悲を与えてやっている』と心の内で思い、またそれを隠そうとしない人々より、はっきりと意見を述べるあなた様の方が慕わしいと思ったのでございます、天使様」

 天使はエヴァリを見た。初めて見るもののように全身を眺める。瞳が痩せぎすで色褪せた衣服を身に纏った娘を映し、ふと骨のような足首に止まる。

 きつかった縄の感触を思い出しさぞ見苦しい跡になっているだろうと気付いたエヴァリは膝を折って、彼の目に自分の笑みが映るようにした。

「天使様。どうか、人々の行いを悪意に満ちたものだと信じる事をお許し下さい。私には何もないのです。私の内に、確かなものは何もないように思うのです」

 祈り、頭を僅かに垂れるエヴァリに視線を注いでいた天使は、目を逸らすと苦々しげに呟いた。

「俺に懺悔をするな。俺は神父でも司教でもない」

「申し訳ありません」

 子供のように見えなくもない不機嫌な表情に密かに微笑むと、立ち上がってもう一度、ご用はございませんかと尋ねた。

「何もない。今日はもう良い」

「では失礼致します」

 優雅を心掛けて頭を下げ、部屋を出る。

 扉を閉めてしばらく歩く。廊下を行き、扉を開く動作が次第に激しくなり、ついには走り出した。

 天使! この何もない地に天使が舞い降りた! あの夜の色の瞳。けれど天使らしくない乱暴な言葉。男性らしい美しさ。

 思い出すと何だかふわふわとする気持ちがあって、エヴァリは踊りたい気分になった。

 痛みは全て忘れてしまった。けれど目に見える足首の事を思い出して、確かめてみた。くっきりと縄目が赤黒く残っていた。

 明日は靴下を穿くか包帯を巻いてから、あの人の元へ行こうと思った。

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