主よ、憐れみ給うな

瀬川月菜

 おおお、おおおと風の鳴く声が聞こえる。大地の裂け目から噴き上げて、村人の怯える声が掻き消されていた。深淵と闇と狂気の象徴だろう。小さな地方を囲おうとする悪意の音。

 色褪せたスカートの裾を巻き上げる。細い髪もばさばさと。手は縛られていなかったが、髪を押さえる気はなかった。不用意に動いて殴られる気はなかったので。手が自由なのはエヴァリの覚悟を知っての事ではなく、華奢な足首に巻き付けた縄に安心しての事だった。遠くへは行けまいと。逃げられはしないと。

 崖下に横たわる自分を呑み込もうとするすぐ足元の死を見つめながら、エヴァリは空虚を感じていた。足首の縄も脅威には感じない。ただただぽっかりとした空間があるだけ。祈りの形に手を組み、近付くその時を感じてはいたものの、エヴァリの目は自らと自らを囲う狭い世界に向けられていた。

 何もない地だ。荒れ果て、茶色く灰色な土と石ころだけの死んだ大地。芽吹くものは僅かで、得られるものは少なく、閉じられている。生きていくには辛い。大地が水を望むように、救いを求めるのは当然だった。

 エヴァリがこの役目を与えられる事になったのは、お前にはそれしか生きている理由がないと言われ、確かにそうだと思ったからだ。悲しむ家族も知り合いもいない。引き止めるものは外にも内にもなかった。それを悲しいと思う心すらも。

 死への旅路。生に残すものは何もないエヴァリに、ぼんやりと温かいものが触れた。顔を上げる。朝陽が手を差し伸べ始めた。いっそう荒野を荒れ果てたものとして照らす。暗闇の中で曖昧だった痩せ衰えた病人を目の前に晒す。

 ああ、とエヴァリは静かに息を吐いた。白い大きな鳥が一羽、飛んでいる。くっきりと羽ばたきが見えるほどの翼。その鳥の白さは不吉なほどだった。それはエヴァリの心を優しく撫でるように映る。神の遣い、死告げ鳥だとすぐに思った。

「……時間だ」

 重々しく村長が告げる。与えられた時間は終わった。白い鳥から目を外し、少しだけ振り返った。

 あの小さな村人全員が集まり、エヴァリの動向を見張っている。大人たちの苦い顔は命を奪われる悲しみからではなくて、儀式と信仰に対する後ろめたさによるものだろう。

「エヴァリ。この娘が我らの救い手とならんことを……」

 村人たちが手を組む。エヴァリも正面を向いて手を組み直す。

 何もない地だ。

 生贄を捧げて、心を慰められはしても誰も真実救われる事はない。

 知っていた。

 だから地面を蹴った時、笑った。

 浮遊する身体。

 風の音が自分を呑み込む。

 思ったより衝撃は早く、そして軽かった。

 痛みはない。手足がばらばらになるような感覚もない。

 近付こうとした暗闇が元の位置に戻る。まるで自分が飛んでいるような感覚があった。上空を羽ばたく鳥のような夢みたいな錯覚をした。先程までの立ち位置に戻され、それを行った神のような力が――現実にあった二本の腕が離れて、エヴァリは座り込む。

 目の前にさあっと優しい風が吹き付けて――次の瞬間には言葉を失った。

 薄汚れていると罵られた茶色の瞳いっぱいに映る、白く柔らかな光。聖なる輝き。朝陽を受けて白銀に輝く――翼。

 白い布を順序よく巻き付けた上に、神言の縫い取りをした布を肩に掛けているのは、天に準ずる者の証。厳しい横顔に流れる、青銀の髪。前を見据える紺碧の瞳。背の高い、男性の姿。

「……この所行はいかなるものか、お尋ねします」

 愕然として呆然として、ありとあらゆる思考が停止しかけたが、彼が誰なのかはもう分かっていた。

 ――天使。

 エヴァリの心臓が大きく打った。

 村人はこの時はっとして膝を折った。

「て、天使様……っ!」

 村長の怯えた声を聞いて、ようやく目の前の存在が現実に在るものだと分かった。男の背にある翼は本物で、彼は天使であり天界の住人、天の主の御遣いなのだ。

「彼女の祈りが天に届き、天の主は私をここへ遣わしました」

 祈ってなどいなかったエヴァリは、ただ天使に目を奪われてその言葉を聞いていた。重く上等の布のような声が反響し続け、翼は疑いようもなく清廉な光を投げかけている。膝元に落ちた羽根は透き通るように繊細で、触れる事はしなかったが柔らかな触り心地を思わせた。そして何よりも美しい横顔……。

 彼が振り返ってエヴァリを見下ろした。にこりと微笑んだので、思わず身動ぎする。自分が目を奪われていた事を自覚し、名のある彫像が笑ったように思って戸惑ったのだ。天使は穏やかにエヴァリに向けて言葉を紡ぐ。

「安心なさい。あなたが犠牲になる必要はどこにもないのですよ」

「ああ、天使様!」

 天使は大仰に伏せた村長を見た。

「どうか! わたくしたちをお救い下さい! 土地は痩せ衰え、伝染病が流行り、わたくしたちは天の意志に縋るしか……!」

 天使は深い色の瞳でじっと聞いていたが、やがて笑顔を見せた。

「天の意志はこの地を救う事にあります。私は此処に留まり、あなた方の救い手となりましょう」

 沸き起こった感動の声は敬意によってすぐに抑えられ、村人たちは深く頭を垂れた。エヴァリは人々の敬意と信仰を甘んじて受け入れる天使の横顔に魅入られていた。

 なんて、美しい。繊細だが弱々しい感じはせず、寧ろしっかりと男性を感じさせる。僅かに下がった目尻は優しく、顎はすっきりとして、鼻が高く、慎ましく上がった口角が穏やかで神聖なものに見えた。毎日祈る天の主の像よりも、ずっと美しい。青銀の髪と夜色の瞳に、純白の聖衣がなんと似合うことだろう。自分のものにしたくなるような美しさを持つ天使は瞳に焼き付いて、眼を閉じても浮かび上がった。

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