第18話

 弓削は、それを悟られぬようにわざと難しい顔をして記事に目を通しはじめた。ところが目は活字を追っているのだが、一向に頭の中でまとまることはなかった。

 朝食をすませて家を出るとき、「きょうも遅くなりそうだから……」と玄関先で見送る妻にいい残したが、妻は「そうお」と短くいっただけで何時ごろになるのかは訊かなかった。

 弓削は午前中に外廻りを口実に会社を脱け出し、宝くじ売り場に行って換金をしようとした。ところが、その中のひとつに五万円を超えるのが一組あった。ひとつの籤で五万円以上の当選金がある場合は、そこらにある宝くじ売り場では換金することができなくて、直接みずほ銀行の窓口まで行かないといけない。仕方なくその場で換金できる分だけを現金にし、売り場の人に銀行の場所を教えてもらいすぐその足で向かうことにした。

 昼近くになって、弓削のデスクに承認印をもらいに来た部下が、

「部長、何かいいことでもあったんですか? 朝から顔がどことなく愉しそうですよ」

 と、書類を差し出しながら訊いた。

「いや……そうか?」弓削は右手で頬を擦った。

「そろそろ昼飯だな、いま事務所に残っているのは何人だ」

 弓削は書類に目を落としたままで訊いた。

「四人です」

 部下は首を巡らせて確認をしつつ答えた。

「よし、昼飯に鰻を奢ってやるから、みんなにそう伝えてくれるか。それと、店が混むといけないから『石波志』に予約の電話を入れておいてくれ」

「わかりました」

 鰻屋の座敷で部下が口々に弓削のご馳走してくれる理由を聞きたがった。

「部長、このままじゃあ気持がわるいですから話して下さいよ、ご馳走していただけるわけを……」

「おう、わかった。まあ食べながら話すから、冷めないうちにやろう」

 弓削は部下の顔を見廻してから、おもむろに椀の蓋を外し、お重の蓋を取ると、湯気と一緒に食欲をそそる香ばしい香りが鼻先に立った。

「……じつはな、ここだけの話なんだけど、宝くじが当たったんだ。まあ、たいした金額じゃないけど、こういったあぶく銭はみんなに還元しないといけない。だからこうやって君たちを誘ったんだ」

「ありがとうございます。……ところで、いくら当たったんです?」

 部下のひとりが場を繕うかのように訊ねた。

「まあ、いいじゃないか、そんなこと」と笑いながらはぐらかした。

「でも気になるじゃないですか」

「三万だよ。そうたいした金額じゃない。ほんの小遣い程度さ」

 湯気は本当のことをいわなかった。占い師との約束もあったが、あまり詳しく話す必要もないと思ったからだ。

 女子社員がお互いに顔を見合わせて、小さく感嘆の声を洩らしている。

「いやあ、三万でもいいですよ。僕のひと月分の小遣いに相当しますよ。僕も買ってみようかなァ。部長、どうやって数字を決めたらいいんでしょう?」

「うーん、まあ自分の勘で買うしかないんじゃないか。だって、気が遠くなるほどの組み合わせがあるんだからどうしようもないだろ」

「まあそうなんですけどね。何か秘訣でもあれば教えて頂こうと思いまして……」

「そんなもんあるわけないだろ」

 弓削にはそう答えるよりなかった。秘訣がないことはないが、そんなこと口に出していえるはずがなかった。

 部下にしてみたら弓削が思うほど真剣に耳を傾けてはいない。おいしいうな重をご馳走してもらうための迎合に過ぎなかった。正直なところ、プロセスなんてどうでもいいに違いない。それは弓削にも薄々感じるところがないではなかったが、わざわざそれを持ち出してとやかくいうつもりもなかった。

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