憂鬱な渡し

エリー.ファー

憂鬱な渡し

 人を斬った。

 斬ってしまった。

 体が重くて、何とも何とも。

 疲れだけが残る。

 感情を突き動かして斬ったはずであるにも関わらず、心が救われたような感覚は全くない。まだ渦を巻いている動機は、むしろ、斬ってきた者たちがまた動き出して近づいてくれることを望んでいる。

 決して。

 決して。

 辻斬りのようなものではない。

 そういうことではなく。

 そういうあれではなく。

 しっかりとした動機の上に、いや、ただの理由の上に成り立つ殺人である。殺したくて殺したので、決して殺すという行為自体を一つの趣味のように見たたてている訳ではない。

 正直。

 あれは理解ができない。

 人を斬りたくて斬るものがいるのか。

 本当に。

 これが楽しくなる人間の感覚が理解できない。

 指先の感覚がない。ただ夜に紛れて足を引きずるように歩くと、その感覚すら不要に思える。手にはりついた日本刀がとれずに、地面に線が引かれて行ってしまう。

 これはいけない。

 地面に、申し訳がない。血で濡らし、あまつさえ傷までつける私の生き方が申し訳ない。

 口から吐き出された、斬った者の鼻が地面に転がる。鼻糞がこびりついていて、塩っ辛かった。

「言ったそばから。」

 誰かの声が聞こえる。

 嫌になる。

 腕に力を入れて日本刀を持ち上げようとするが、そのまま静かになってしまう。

 先ほどの言葉。

 自分の口からだった。

 漏れた。

 笑い声が漏れた。

 ここは、どこなのか。

 日ノ本か。

 日本か。

 日本なのか、本当にここは。

 日本にいることができているのか。

 私は。

 本当は日本によく似た別のところなのではないだろうか。見れば見るほど、日本に似ている。私の生きている空気によく似ている。

 何もかも似せている、まるっきり全く違う別のところではないのか。

 斬ってから浴びた煙が着物に付いている。あれを嗅いでから少しばかりおかしい。

 自分の考えていることがまるで、筒抜けのような感覚になる。近くにいる、もしくは遠くにいる、視界に入る人間の全てが、こちらの全てを知っているような感覚になってしまう。

 つらい。

 つらいのに、生きようと思ってしまう。

 森を抜ける。

 木々の隙間から見えていた景色が広がる。

 光。

 水面を動く光。

 そして、しっかりと丁寧に斑を残した群青と藍色の合いの子のような品のある空。

 時間が途切れてしまう。

 これは、夜、か。

 店がある。

 向こうには人がいる。

 階段がある。

 しかし。

 しかし。

 誰も斬られていない。

 おかしいではないか。おかしいではないか。

 私がこんなに必死になって、こんなに躍起になって、斬った斬られた斬ってしまった斬りそうになったと、頭の中で渦を巻いているにも関わらず。

 ここにいる人間は同じように悩んでいない。

 私と同じように。

 不幸になっていない。

 これは。

 これはいけない。

 これはいけない。

 正さねばならない。

 正して皆も楽にならねばならない。億劫だ。こんな正義感を持ち合わせてしまったからこそ、ここからまた行動せねばならないと思ってしまう。自分の、もうらる、を理解していただかねばなるまいよ。

 あぁ、してあげなければ。

「お嬢さん、お嬢さん。」

 言葉が漏れた。

 前を歩く女はこちらを振り向かない。

 気づいていない。

 足がはやくなるわけでもない。

「お嬢さん、お嬢さん。」

 すう。

 さぱり、しゃ。

 さぱり、しゃっしゃっ。

「あれまぁ、お嬢さん、お嬢さん。」

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