後輩 夕立の軒下
とらたぬ
夕立
夏休み。
後輩と二人、ぶらりと遊びに行った帰り、急な夕立に襲われたため自販機のある軒下にお邪魔して、俺は彼女に管を巻いていた。
蝉どもはよっぽど求愛行動に忙しいらしく、最近は朝早くから夕方日が暮れるまで、あるいはその後もずっとミンミンと鳴いている。
どうせ長続きしないのはわかりきっているのに、なぜああも必死になれるのか、不思議で仕方がない。
当人たちは恋なんてものに熱を上げ、他が見えなくなっているから気づかないだけで、おおよそその恋に意味などないというのに。
聞けば三カ月以内に別れるものがほとんどだという。それ以上続いたとして、そのほとんども、卒業を期に別れるらしい。
ならばそこに意味などないことは明白だ。
学生である。その本文は勉学に励むことであり、決して恋にうつつを抜かすことではないのだ。
頭の中が空っぽなやつらほど、恋人がいるかどうか、夏休みを恋人と過ごせるかどうか、そんなことをステータスだと信じて疑わないが、そういうやつに限って勉学を疎かにし、将来途方にくれる羽目になる。
転落人生の始まりだ。
やつらは我々のような独り身を蔑み、負け組だと宣うが本当にそうだろうか。むしろ、恋などというものに時間を割かれず、勉学に集中できる我々の方がよっぽど勝ち組の人生を歩んでいると言えるのではないか。
「そうは思わないか、
同意を得られるだろうと思って見下ろした先では、彼女が不思議そうに首を傾げていた。
「なんの話をし始めたのかと思えば、そんなことですか」
「そんなこととは何か。これはとても大事なことだぞ、深澄くん」
「その喋り方うざいのでやめてくれませんか?」
「あ、はい」
まるでなんでもないことのように言われてしまったので、抗議の意を込めて軽く睨みつけたのだが、怖気がするほどの冷たい目で睨み返されてしまった。
「だいたい、そんなこと言えてしまうのはせんぱいに一度も恋人がいなかったからですよね。もしいたなら、きっとそんな風には思えませんよ」
「いたが? 普通にいたが?」
俺の強がりは一瞬で見抜かれて、ないない、と笑われてしまった。
「というかあれだな、まるで自分は恋人がいたことあるかのような口ぶりだな」
このまま笑われるのは気にくわないので話を変える。どうせ後輩にもそのような存在はいないだろう。いたら俺なんかとこんな場所にはいまい。
「いたことはありません」
「はっ、やはりお前も同類か」
鼻で笑った俺を透明な目で見つめ、深澄は「でも、」と続けた。
「今、好きな人ならいますよ」
「ひょぇ」
驚きのあまり、変な声が出た。
もしかすると変な顔もしているかもしれない。
しかし彼女はそんな俺には気づいていないのか、地面を向いて話し続けた。
「好きな人がいるから、毎日が楽しいです。なんでもないいつも通りの光景が輝いて見えるし、好きな人のことを想うと、もっと頑張ろうという気になれます。好きな人と会えた日には、夜ベッドの中で眠るまでドキドキが止まりません」
愛おしいそうに語る彼女の頬が赤い。まるで、恋する乙女のようだ。いや、実際そうなのだが。
というのも、この深澄、普段から何を言われようと赤面などしないし、だいたい意地の悪そうな顔をしている。その彼女が頬を染め、とても優しい表情をしているものだから、驚きと珍しさで少し混乱してしまったようだ。
混乱ついでに、俺はこんなことを口走った。
「なら、お前、俺なんかといないで、その好きな人のとこ行ったほうがいいんじゃないか。俺はほら、他にも友達はいるし」
彼女は友人の少ない俺を気遣って、夏休みにまで付き合ってくれているというのに、その厚意を無下にするようなことを言ってしまった。
だが本心でもあった。
深澄に好きな人がいるというのなら、俺なんかのために時間を無駄にしないで、彼女自身の幸せのために時間を使って欲しいと思う。
そんな俺の内心を察してか、彼女は小さくため息を吐いた。
「せんぱいは、なんていうか、ほんとアレですね。異性から好意を寄せられたこととか、まったくなさそうですね」
「そんなことどうでもいいだろ」
何故そんな話になるのか、意味がわからない。この後輩はそんなに俺を貶めたいのだろうか。
「あのですね、せんぱい。夏休みに入ってから私とせんぱいが会った回数、覚えてますか?」
唐突になんだ、とは思ったが素直に思い返す。
昨日は、会った。一昨日も、その前も。更にその前の日も、彼女と会っていた気がする。
ふと顔を上げると、いつの間にか目の前に彼女の顔があった。
「いいですか、毎日です」
彼女は俺に詰め寄る。
「私、夏休みに入ってから毎日せんぱいと会ってます。わざわざ電車に乗って、せんぱいに会いに来ています」
拍動の音が聞こえるくらいの距離。
バクバクと破裂しそうな勢いで、うるさいくらいに心臓が大きな音を立てる。
「好きじゃなかったら、こんなことしませんよ」
彼女は俺の胸に額を当てた。
どう答えればいいのかわからなくて、息が詰まりそうになる。
顔が熱い。
今ばかりは濡れた服の水気が心地よく感じてしまう。
「俺も、」
答えようとした瞬間、ぱっと離れた彼女は空を見上げ、いつも通りの表情で言った。
「あ、雨上がりましたよ、せんぱい」
「え、」
まさか、からかわれただけ?
唐突に梯子を外された。足に力が入らなくなる。
「あれあれ〜? まさかせんぱい、本気にしちゃいました?」
視界が真っ暗になって、深い穴の底に落ちていくような気分だった。
完全に騙された。
いっそ殺してくれ。
羞恥心と馬鹿正直に信じた自分への怒りが、激しく燃え上がる。
そんな俺に向け、彼女はぽつりと言った。
「なんて、冗談です」
え、と擦れた声を漏らし顔を上げた俺を尻目に彼女は、駅の方へ駆けて行った。
「今日は恥ずかしいのでここまでです! 返事はまた今度、聞かせてください!」
夕立の後の冷たい空気を浴びてなお、顔が熱い。
今度からどんな顔して会えばいいのか。
今夜は眠れそうになかった。
後輩 夕立の軒下 とらたぬ @tora_ta_nuuun
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