第六章 ツミ  ―真崎定理―

 九月十四日 午前八時


 カザナミデパートでの火災は、朝から大きく報道されていた。

 被害状況は、まず建物がほぼ全焼。火の勢いが強すぎた上、パニックによる通報の遅れのため、消火活動が間に合わなかったそうだ。

 特に一階部分から出火したのが大きく、建物を支える主要な柱などが根元から焼けてしまったため、消火活動中に上階が崩れてきたらしい。


 カザナミデパートは当然営業停止。僕の起こした事件は、間違いなくこの街にダメージを与えた。

 そして次に、人間の被害だ。軽症六十一名、重傷十五名。そして死者が、一名。

 あの混乱した状況の中で、死者が一人と言うのが凄い事だと、ニュースキャスターは褒め称えていた。でも、そんな事は僕にはどうでもよかった。


 ――大事な事は、僕が人を一人殺してしまった事だ。

 ただでさえ、何十人もの人間に怪我を負わせてしまったのだけど、僕の中ではやはり「一人、死んだ」と言う事実が心に突き刺さっている。

 あの後、火事のことが気になって落ち着かない僕を少しでも励まそうと、彩女は方々へ僕を連れまわしてくれた。

 おかげで少し気は楽になったのだが、今朝一番のニュースを見て再び沈んでしまい、そのまま学校に向かっているのが現状だ。


 でも、それでも僕は、ルールを作らなければならない。

 せめてこれからは、何も考えずに実験感覚でルールを作るんじゃなく、作る内容を良く考えてからやるべきだ。人を傷つけるような事は、絶対にしちゃいけない。

 あんなふざけた実験なんてもうやらないべきだ。これからは、実際に作るルールを前提に色々やってみよう。


 そこまで考えたところで、僕は学校に着いた。校門を抜け、教室に着くまでは、どんなルールを作ろうか真面目にあれこれ考えていた。

 しかし、教室のドアを開けたところで、僕は異様な光景を目にする事になる。


 正確に言うと、ドアを開けた段階では気づかなかった。なんとなく違和感があった程度だ。

 教室に入り、自分の席についたところで、ようやくその違和感の正体に気づいた。

 相原が――あの、喋らないと死んでしまうのではないかと思うほど無駄に良く喋る相原が。

 自分の席で、下を向きながら大人しく座っていた。


 前述したとおり、相原には「黙る」という選択肢は基本的に無いはずだ。

 ならばルールを作り間違えたのだろうか、と携帯を確認してみたが、最後に神様に送ったメールは間違いなく『一日一善』だった。

 さすがの僕も心配になり、珍しく僕から相原に話しかけてみた。


「相原、おはよう。どうしたんだ今日は?」


「……テーリか。おはよう」


 挨拶は辛うじて返してくれたが、すぐにまた黙ってしまった。

 ――明らかに様子がおかしい。

 しかしそこでもう一度同じ質問をするのが嫌だった僕は、メールで訊いてみる事にした。


『相原、なにかあったのか?』


 そう携帯に打ち込んで、送信。直後に相原の携帯が震え出す。

 相原はポケットから携帯を取り出して、メール画面を確認してくれた。

 おお、こんな状況でもメールを見てくれるのかコイツは。

 改めて相原はいいヤツだと思い知らされた。


「…………昨日さ」


 ボソリ、と小さい声で相原は話し始めた。


「昨日、とんでもないもの見ちまった……」


「とんでもないもの?」


 僕は首を傾げた。

 しかし、すぐに『昨日』という言葉の重要性を思い出し、僕は青ざめた。

 昨日の出来事と言えば、僕が、カザナミデパートで、事件を起こしていた事じゃないだろうか。

 まさか、それがコイツに、見られたのか?


「昨日、例のジョンの記事を追求するって言っただろ?」


「……え?」


 あれ? カザナミデパートの火災の話じゃないのか?

 よっぽどの事があったのか、そんな僕の不審な態度に気にも留めず、相原は話を続けた。


「北蔵倉庫で――とんでもない物を見た」


「ああ、そっちの方か……」


 という事は僕の行動がばれたとか、そういう事じゃないらしい。僕はひとまず安心したが、それ以外にも相原を黙らせる程の出来事があったという事が気になり、話を促した。


「一体何を見たんだ?」


「……誰にも言うなよ」


 相原はそう言ってから、僕の耳元まで顔を近づけて、ただでさえボソボソ喋っていた声をさらに小声にして言った。


「……ヤクザみたいな奴らが、白い粉と現金を交換してた」


 ――は?

 ――今、こいつ何て言った?


「……ごめん、聞き間違えたかもしれない。もう一度言ってくれ」


「そう思ったなら、それは聞き間違いじゃない」


 聞き間違いじゃないって? そんなわけが無いだろう。聞き間違いじゃなければ、こいつは麻薬取引を目撃した事になる。……マジで?


「……何とか、写真も撮ってきた」


 そう言って相原はポケットからデジカメを取り出して、周囲から隠すように手で覆いながら僕に見せた。

 その写真には、人相の悪い、カラフルなスーツを着こなした男たちが十数名写っていた。

 左側の集団の、偉そうな男の横に居るガッチリした体格の男――その手に抱えられたスーツケースには、現金がびっしり詰まっていた。

 また別の写真では、右側の集団も同様にスーツケースを見せていて、そこに詰まっていたのは袋詰めにされた白い小麦粉のような物体だった。


「うっわ……マジかよこれ」


「マジだから俺も焦ってるんだよ……。なぁ、テーリ……俺はどうすればいい?」


「いや、それは……」


 そんなもの、僕に分かるはずが無いじゃないか。

 ただでさえ神様だのルールだの訳のわからない事に首を突っ込んでる最中だと言うのに、こんな自分とは違う世界の話をもう一つ抱え込むなんて……僕には無理だ。

 僕は無難に、ともすれば投げやりに聞こえる様なアドバイスをするしかなかった。


「……警察に言うしか、無いんじゃないか?」


「警察か……。……だよな、そうだよな」


 そんな僕の当たり前のアドバイスに、相原は納得したかのように頷いた。

 こんな誰でも思いつくような判断が出来ないほど、相原の衝撃は大きかったという事だろう。

 それはそうだろう。そのヤクザの集団の中の誰かに、下手をすれば顔を見られているかもしれないんだ。

 もしそうだとすれば奴等は血眼になって相原を探すだろう。

 そしてそうなれば当然、命の保障など無いに等しいのだ。

 この時の相原は、いつ殺されるか分からない巨大な力に怯えているという点で、限りなく今の僕に近い存在だった。


 いや、もしかしたら僕の方がマシかもしれない。僕は「ルールを作れば助かる」という条件がはっきりしているのに対し、相原は本当にいつ殺されるか分からないのだ。

 普段とは打って変わって小動物のように震える相原に、僕はかける言葉が見つからなかった。


「ホームルームやんぞー。着席しろー」


 その時、教室に柴山先生が入ってきてホームルームのの時間になってしまった。

 どちらにしろまともに声をかけられない状況なのだが、こんな状態の友人を放って席に戻るのもなんだか後味が悪い。

 そう思って相原の方を見遣ると、「席戻れよ。気遣いサンキュな」と言われてしまった。

 僕も「じゃあ、また後で」とだけ告げてとりあえず席に戻った。




 その日は一日中、相原は何か考え事をしているようだった。

 授業で当てられても完全に上の空で、英語の先生に酷く怒られていたし、体育の時間にやっていたサッカーでは、パスされたボールをまともに受けられずにチームメイトの反感を買っていた。

 僕はそんな現状を見ながら、やはりかける言葉も見当たらずに遠巻きに眺めている事しか出来なかった。


 ――そんな事があって、放課後。

 いくら僕でもそんな怯えた様子の相原の「一緒に警察に行ってくれ」の言葉を無視する事は出来なかった。

 相原と一緒に校舎から出て、必要以上に回りを警戒しながら歩く。

 その場を和ませようと、「こんな挙動不審じゃあ、僕たちの方が逮捕されちゃうかもな」などと冗談を言ってみたが、相原の返答は得られなかった。

 そりゃあそうだよな。現状だとわりと洒落にならない話だ。


 校門を出て左に曲がる。交番に行こうにも結構な距離があるため、その間心が休まる事がない。

 ――しかし、僕らのそんな警戒はやはり何の意味もなく、事態は急激に悪化した。


 校舎からはちょうど見えない角度で、人目につかない様に止まっていた黒塗りの車から、相原に見せてもらった写真に良く似たスキンヘッドの男が降りてきたのだ。

 更に、在ろう事か男はそのままこっちに近づいてきた。

 いや、自分を誤魔化すのはよそう。あれは間違いなく写真に写っていたヤクザだった。


「……テーリ、あれってまさか」


「実際に見たお前がまさかと思うなら……、その通りなんだろうな」


 少し強がって答えてみたが、この状況ではさすがに笑えない。


「逃げよう!」


 相原が僕の腕を掴み、反対側に逃げようとした。……が、遅かった。

 既に反対側にも仲間と思わしきヤクザが数人いて、道を塞いでいたのだ。

 その間にあちこちに隠れていたお仲間さん達がぞろぞろと出てくる。ああ、やっぱり相原絡みの事件はろくな結末にならない。

 僕達はあっという間に囲まれてしまった。

 その中のリーダーの様な男が、一歩前に出てきて喋り出した。


「天月高校一年三組、相原勇次クンだよね? 落し物には気をつけた方がいいよ?」


 男が相原の生徒手帳を突き出しながら言うと、取り巻き達がぎゃはは、と下品に笑い出す。一体何が可笑しいと言うんだ。こっちは命に関わる問題だっていうのに。

 あ、そうか。それが可笑しいのか。僕らの命はお前らにとってお笑いネタでしかないってか。


「……はい。忠告……、ありがとうございます」


 相原が何とか声を絞り出して言った。そのまま黙っていればさらに機嫌を損ねるという事を本能的に理解したのだろう。

 しかし、その後に続いた相原の言葉は、僕にとって予想外の言葉だった。

「でも、こいつは、テーリは関係無いんです。ただ今日一緒に帰ってただけで、こいつは何も知りません!」


 お前……、こんな状況で僕を庇おうとしているのか。

 でもその台詞は意味が無いぞ。その言い方では、自分のした事を認めてしまっている。こんな状況でそんな事を言ったら――


「うるせぇ! そんな事関係ねぇんだよ!」


 後ろに構えていた男が急に激昂し、相原の頭を鉄パイプで殴りつけた。殴りつけられた相原は、前のめりに地面に倒れこむ。


「相原!」


 僕は倒れた相原に近寄ろうとした。

 無駄なのは分かってる。意味の無い行動でも、その時はそうする事しか出来なかった。

 ――その瞬間、鈍い音と鋭い痛みが頭に響き、僕は意識を失った。



 次に目を覚ました時、僕は薄暗い空間に寝転がされていた。

 どうやら僕は、後ろ手に手を拘束されて転がされているらしい。

 今度こそ「目が覚めると、そこには不思議な世界が広がっていた」状態だな、なんて場違いな事を考えて、まずは少し自分を落ち着かせた。


 そして周囲を見渡す。

 ぼんやりと把握できたのは、ここが箱型の室内で、何やらダンボールのような物や紙袋が乱雑に置かれている場所だという事だ。

 そしてもう一つ、隣に寝ている相原を見つけた。

 まだ寝ているのか全く動かないが……、まさか死んでるなんて事はないよな?


「相原、起きてくれ」


 近くに見張りがいる可能性を検討して、小声で相原に話しかけた。

 そのあたりでようやく意識がはっきりしてきて、ここがどんな場所なのかなんとなくわかってきた。

 僕の小声は、低く唸るような騒音と振動でかき消されてしまったのだ。


 この音は聞き覚えがある。というか聞き覚えの無い人なんて居ないだろう、車のエンジン音だった。

 いや、もしかしたら勘違いである可能性も無い事は無いが、さっきから不定期で体に伝わる振動は、おそらくこの車の走行によるものだ。

 だとすれば、ここはトラックの荷台で、僕達を閉じ込めた奴等は運転席に居るに違いない。それならば多少声を出しても気づかれないはずだ。


「おい、相原。起きてくれ」


 今度は少し大きめの声で話しかけてみた。

 しかし、なんの反応も無い。代わりにこんな音が聞こえた。


「ぐぉー……くかー……」


 こいつ寝てるな。心配して損した。

 むかついたので蹴飛ばしてやる事にした。足は縛られていないので自由が利くのだ。


「痛てっ。なにすんだ! ……って、どこだここは?」


「静かにしろ。どうやら僕達は今、トラックの中に居るらしい。このままだと出荷されちまう。なんと行き先は北海道だぞ」


「……笑えないな、その冗談」


 ダメ出しされてしまった。そりゃあ、こんな状況で冗談なんていうものじゃないからな。


「……ぷっ」


 かと思ったら突然相原が吹き出した。こんな状況で笑えるなんて肝の座った奴だ。まぁ、僕も大概だけど。


「なんだ、笑ってるじゃないか」


「いや、冗談は笑えなかったけど――テーリ、いつもならこういう冗談はわざわざメールで言うんだよなー、なんて考えておかしくなっちまった」


「なんだ、最近突っ込まなくなったから僕のメールトークにも慣れたのかと思ってたけど」


「慣れたっつーか、やめる気配が無いから諦めただけだよ。最初は正直『なんだコイツ』って思った」


「今更そんな事言われてもな……」


 しかし、こんな状況で思い出話なんてやめて欲しいもんだ。これじゃあ僕達は本当にこれから死ぬみたいじゃないか。なんて、実際に死ぬんだろうけど。

 メールか。自分で言うのもなんだが、僕は人生で、誰よりもメールを使ってきた。

 皆がスマホを持ち、メッセージアプリを使っていても、意地でも僕はガラケーでメールを使い続けた。


 スマホを使わない理由は、親の方針もあるけど何よりブラインドタッチが出来ないから、という理由だ。ガラケーは感触だけでボタンの位置が分かるから、見なくても打てるのだ。

 反面、メールを使う事で悪い事もあったけど。迷惑メールが多いのなんのって……。……そういえば、神様のルール作りもなぜかメールなんだよな

 ――ルール、だって?


「なんだよ、黙るなよテーリ。最後くらい――」


「いや……」


 もしかしたらこれは、いけるかもしれない。


「最後にはならない」


「え? なんだって?」


 薄暗くて見えにくいが、相原は僕の言っている事が分からず首を傾げている気がする。だけど僕は思わず顔がにやけていた。

 この場にいる僕と相原が確実に助かる展開……そんな都合のいい展開が、起こり得るかもしれない。

 僕のメールスキルと、相原の協力があれば……いける。


「相原、よく効いてくれ。助かる方法を見つけたかもしれない」


「……冗談だったら許さねぇぞ?」


「冗談じゃない。相原の協力があれば……、この場を百パーセント切り抜けられる」


「…………。テーリ、俺はお前と付き合って日が浅いけど、お前がどんな人間かはよく分かってるつもりだ」


 やはり、信じられないのだろうか。

 そこで相原は、深呼吸のように深く息を吸って、やはり顔は良く見えないがニヤついた声ででこう言った。


「お前は慎重な人間だぜ。危ない賭けは滅多にしない。そのお前が百パーセントと言うんだったら、それは本当の意味で確実って事だ。協力するぜ」


 ……やっぱり相原はいいヤツだ。内容も聞かず、『この状況かを切り抜けられる』なんて普通なら妄言としか思わないだろう言葉を信じてくれる。

 改めていい友人に巡り会えたことに感謝しながら、僕は相原に指示を出した。

 たった一つ、この状況では少し難しいけど、誰にでも出来るような簡単な支持を。



「オラ、てめぇら降りろ!」


 そう言いながらヤクザたちに乱暴に引きずり降ろされた僕達が見たのは、港のような場所だった。っていうか港だった。

 しかし誰も人がいなく、おそらく使われていないであろう雰囲気の寂れた港だった。


「さて――長い間トラックに揺られて暇だったであろうお前達に、クイズを出してやる」


 ヤクザたちの中でリーダーの様に振舞っているその男は、さっき僕達に最初に声をかけたヤツだった。


「どうしても始末したい人間がいて、でも証拠は残したくない。そんな時、どうすればいいと思う?」


 なんて簡単なクイズなんだろうか。目の前に答えを用意されて、分からない人間が居るはずないだろう。

 相原は僕の作戦を信じてくれているのか、余計な事をしないように口をつぐんでいる。一応答えておくか。


「海に沈めるってことですか?」


「ご名答! よくわかったねぇ、ぼっちゃん!」


 ぎゃははは、と耳障りな声で取り巻きたちが笑い出す。

 馬鹿にしやがって。今に見てろ。すぐにその顔から、笑顔を消し去ってやる。

 僕はそのタイミングで、わざとこんな事を言った。


「いや、目の前に答えが用意されてるのに分からない人間が居るはず無いだろ」


「あぁん?」


 スキンヘッドの男はその言葉で急激に不機嫌になり、怒気を孕んだ声を上げた。

 そりゃそうだ。人間は格下だと思っている相手に舐めた態度を取られると激昂する生き物だ。


「お前、自分の立場わかってんのかコラァ!」


 そう言いながら、そいつは僕の顔面を思い切り殴った。当然の如く僕の体は軽く飛ばされて、地面に叩きつけられた。

 でも、ここまで計算どおりだ。


「テーリ! ――うわっ! やめろ!」


 さすがに心配になった相原が、僕に駆け寄ろうとして取り押さえられていた。大丈夫だ相原。そこで大人しく見ててくれ。


「そぉだ。沈める前にその生意気な舌を切り落としてやろう。あの世で閻魔様にそんな口を聞いたら、地獄に落とされちまうもんなぁ」


 そう言って男は、僕の髪の毛を掴んで頭を持ち上げ、ナイフを取り出した。


「……あいにく僕は神様に気に入られているみたいでね。それは無いよ」


 そう言いながら、後ろ手に縛られていた僕の手は、最後の文字を打ち終わって『送信』ボタンに指をかけていた。



 ――そう、僕の手には携帯が握られている。

 これは、さっきトラックの中で相原に出した指示によるものだ。

 相原には、「僕のズボンの右ポケットに入っている携帯を、僕の右手に握らせてくれ」とだけ頼んだのだ。

 それはもちろん後ろ手で携帯を操る為だが、当然相原も縛られているため、この作業にはとても苦労した。なにせ終わったのはついさっきの話だ。間に合わなかったらやばかったが、相原はなんとかやり遂げてくれた。


 そしてトラックから出た後、自分の後ろ側がトラックの車体で隠れているのを確認してから、僕は携帯を開いてメール作成画面を起動していた。

 さっき殴られた時も、仰向けに倒れる様に姿勢に気を付けていた。実際に、何とか仰向けに倒れる事で、ヤクザたちの視界から携帯を完全に隠していた。

 後ろに回された手で、しかも画面を見ないで打ち込んだからいつもより時間がかかってしまった。だけど慎重にやったおかげで、確実に目的の文章を打ち込む事が出来た。

 内容はこうだ。


『人間は暴力をふるってはいけない』


 僕の言葉に激昂した男は、まずはその怒りを発散させる事の方が優先とばかりに、僕の顔を再び殴ろうと拳を振り上げた。

 だが、もう遅い。

 送信はとっくに――終わっている。

 その時、僕の耳に耳鳴りが鳴り響く。


「――痛っ」


 この耳の痛みはまだ慣れてない。しかし、その瞬間に間違いなくルールは適用される事だけは間違い無い。

 見てみると、男は拳を途中で止め、顔面蒼白になって冷や汗をかいていた。

 それは目の前の男だけではなかった。周りにいたヤクザたちも、揃ってそんな顔をしていた。


 そりゃそうだ。僕がそうなるように仕組んだのだから。

 僕が相手を挑発して殴らせたのも、このためだったのだ。

 そこで僕は畳み掛けるように目の前の男にこう言った。


「あーあ、暴力ふるっちゃったね。あんた――もう人間じゃねぇよ」


「う、うぁあ!」


 まるで小動物のように怯えきってしまった男は、その言葉だけで尻餅をついてしまった。

 そうりゃそうだ。世間で言う「常識」なんかとはレベルが違う。これは【ルール】なんだ。


 具体的に説明すると、このルールの中では、「人間である限り」絶対に暴力を振るう事が出来ないのだ。

 つまり、それを行なってしまった者はもう人間じゃない。

 分かりやすく喩えると……、そうだな。「人間が人間を食っている」光景を目撃したようなものだろう。

 こいつは、自分が食った肉を後から人間だと知ったような、そんな感覚に襲われているはずだ。

 そのくらい、非常識――いや、ありえない事をこの男はやったのだ。いや、「やった事になった」のだ。


 男は周りの取り巻き達に助けを求めるような素振りをしたが、そんな事をしても全く意味は無い事は明白だった。


「なにやってんだアンタぁ!」


「アイツやばいぞ! おい、逃げよう!」


「うわああああああ!」


 取り巻きたちは男を口々に罵り、恐怖しながら、あっという間に解散していった。


「お……、お前ら……そんな…………」


 すっかり怯えきった男に、僕は当然同情なんてしない。こいつは僕の大切な友達を、自分にとって都合が悪いからと言って殺そうとしたのだ。

 相原も、あり得ないものを見る目で男を見ている。さすがにこれをスクープだと言ったりはしないらしい。

 僕は立ち上がり、とどめと言わんばかりに男にこう言った。


「どうやって償うつもりだ?」


「う……、うわああああああああああああああ!」


 錯乱した様に叫んだ後、男は懐からナイフを取り出した。

 僕は驚いて逃げようとするが、どうも男がこちらに近づいてくる様子は無い。

 不思議に思っていると、男はナイフを両手で掴んでその鋭い切っ先を自分の喉もとに突き刺した。


「ぐ……、くぁ…………ごぶっ」


 喉に負った傷により、男はまともに発声も出来ずに酷い声を出している。


「な……、なにやって……」


 目の前のグロテスクな光景に、さっきまでの激情が吹き飛んでしまった。

 しかし、惨劇はそれだけでは終わらなかった。


「っぁ……、ぅが……」


 潰れた喉で訳のわからない音を発しながら、男は僕達に背を向けて歩き出した。

 相原は、こいつが何をしようとしているのか、いち早く気づいたらしい。なんとか男を止めようと、叫んだ。


「……っ! やめろ!」

 


 ――しかし、その叫びも虚しく、男はそのまま海に飛び込んでしまった。



 さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返った港で、波の音を聞きながら僕と相原はただ呆然とする事しか出来なかった。


 その時には辺りはすっかり暗くなり、街灯が照らし出す光が、この悲惨な光景をさらに不気味に装飾していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る