第55話 それは、蜜のような痛み 4

 *


 ストレッチャーが運ばれていくと、あたりは静かになった。


 とてつもなく、不安だ。


 柚子葉は思いたって、奈苗の病室へ行ってみた。

 昼間、高木しおりや、氷上たちと集まって何をしていたのか、それとなく聞いてみたかった。または、インフルエンザの予防接種を受けたのか、受けたなら、何か異常なことが起こっていないかを。


 階段をのぼって病室に行くと、奈苗は部屋にいた。電気もつけずに、ベッドの上で半身を起こしている。何かをしてるふうじゃない。じっと、前を見ている。


 怖い……。

 異様な空気を感じた。でも、ここで逃げだしたら、けっきょく、何が起こっているのか、わからないままだ。

 思いきって、柚子葉は声をかけた。


「住谷さん。わたし、木下だけど。電気つけていい? ちょっと話したいんだけど」


 返事はない。


「ねえ、住谷さん?」


 何度めか呼びかけたあと、柚子葉は待ちきれなくなって、電気のスイッチを入れた。


 病室が明るくなる。そして——


 柚子葉は悲鳴をあげた。

 ベッドの上に、奈苗はすわっていた。すわっていたけど、それはもう、あたりまえの奈苗じゃなかった。高木と同じだ。緑色になって、かたまっている。まるで人形みたいだ。


「住谷さん……」


 柚子葉は奈苗の肩に手をかけた。

 まだ息があるのなら、ナースコールを押して、助けを呼ばないと。でも、その体は氷のように冷たい。それに、固い。木か金属でできているみたい。かるくたたくと、コツコツと音がする。息も完全に止まっているようだ。


(あの注射のせいだ。この病院でインフルの注射されたから、それで……)


 柚子葉は這うようにして、奈苗の病室を出た。


 ここから逃げないと……。


 一階までおりた。階段をかけおり、ろうかにとびだそうとしたところで、話し声を聞いた。


「大変よ。109の患者が逃げたわ」

「ほんと?」

「部屋に食事を残したまま、姿を消したの」

「……感づかれたのね。夕食に睡眠薬、入れたこと」

「そうかもね。昼間も一人で地下へ行ってたみたいだし。氷上くんに頼んで、ごまかしてもらったけど」

「ムダになったのね。早く、つかまえましょう。シータは女王でしょ? どうしても成功させたいものね」


 こっちに足音が向かってくる。


 柚子葉は、とっさに下に続く階段へおり、身をかくした。地下へと続く、階段に……。


 階段の前をナースが二人、通りすぎていく。


 それを確認して、階段をあがろうとした。が、別の足音が、またすぐ近づいてきた。どうやら、病院じゅうの看護師が、柚子葉をさがしているらしい。


 柚子葉は地下へとおりていった。

 昼間のエレベーターを使おう。エレベーターの昇降口は病院の表玄関のすぐそばだ。あそこからなら、すきを見計らって外へ逃げだせる。


 そっと、足音を殺して、地下へとおりたった。

 地下は暗い。ろうかの照明が消されている。遠くのほうに明かりが見えた。あの研究室のようだ。人影は見あたらない。


(やっぱり、変だ。この病院。睡眠薬とかなんとか、ふつうじゃないよ)


 暗闇をさまよいながら、涙がこみあげてくる。


 氷上くんも……氷上くんも、あいつらの仲間だった。ウソついて、わたしをだましたんだ。


 悲しくて、何も考えられない。

 必死で涙をこらえながら歩いていった。


 光は思ったとおり、あの研究室だった。窓からのぞいても、なかに人の姿がない。無人だ。もちろん、それだけのことなら、すぐに通りすぎて逃げだしてしまっていた。


 だが、前方から足音が近づいてきた。あの感じは、ナースサンダルをはいた看護師だ。音はもう、まがりかどの向こうにまで来ている。


 柚子葉は思わず、研究室のドアノブをまわした。無意識にだったがドアはひらいた。


(あいてる——)


 なかへ入り、机の下に入りこむ。


 カツカツカツと足音がやってくる。ドアの前で一瞬、止まった。が、そのまま、また歩きだし、通りすぎていく。


 ほっとして、柚子葉は机の下から、はいだした。


 目の前に試験管のならんだ棚があった。試験管のなかには液体が入っていて、そこに虫が泳いでいた。二センチくらいの細長いヒモみたいな虫が、試験管のなかでクネクネしている。

 そんなのが、何百、何千とならんでいる。


 棚は何段かにわかれている。棚ごとに変なマークが描かれていた。Ωとか、βとか。θとか。

 でも、αを見たときに、ドキンとした。それは、さすがにスマホでなじみの文字。アルファって読むんじゃないのか?


(昼間のお医者さんとナース。アルファがなんとかって言ってたよね? アルファのアンプルが、どうのこうのって)


 まさか、この変な虫のこと?


 ゾッとした。

 アンプルっていうのは、この虫のことだろうか。この虫を注射して……。


 よろめいて、机にぶつかった。

 研究資料なのか、書類みたいなものが散乱している。書かれていることは、さっぱり理解できなかった。でも、たびたび出てくる文字は、どこかで見たことがあるような気がした。



“広東住血線虫”——



 線の虫?

 文字から言って、あの試験管のなかの虫のことのようだ。


(ああっ、頭よかったら、きっと、ここに書いてあることの意味、わかるんだろうな!)


 なげいても、しょうがない。とにかく、捕まったらダメだ。今すぐ逃げないと。


 しかし、もう遅かったようだ。


「こんなところにいたのね」


 背後に看護服をきた女が立っていた。さっき、通りすぎていった看護師だ。柚子葉が物音をたてたから、引きかえしてきたのだろう。


「いけない子ね。さ、病室に帰りましょう?」


 アルカイックな笑みをうかべながら、近づいてくる。


「いやッ! 来ないで!」


 柚子葉は机の上のものを手あたりしだいにつかみ、看護師になげつけた。物のこわれる音がひびく。さわぎを聞きつけて、次々に医師や看護師が、かけつけてくる。そのなかには、氷上の姿もあった。


「氷上くん……」

「木下。ガッカリだよ。なんで抵抗するんだ? 君だって、かしこくなりたいだろ?」

「こんな変な虫、注射されてまで、かしこくなりたくないよ!」

「へえ」


 氷上は感心の声をあげる。


「よく、それを注射されるってわかったね? 君にしては上出来だよ。広東住血線虫なんて、君、知らないだろ?」

「知らなくても、これが異常なことだってことくらい、わかるよ!」


広東住血線虫かんとんじゅうけっせんちゅうはね。寄生虫だよ。カタツムリなんかを媒体ばいたいにして、幼虫が人間の口から体内に侵入する。幼虫は血液などから、脳や髄液に到達する。そこで人間に激しい頭痛や顔面まひ、けいれんなどの症状を起こさせる。でもね。幼虫はけっきょく、成虫にならずに死ぬんだよ」

「えっ?」


 じゃあ、なんで、そんなものをわざわざ注射するんだろう? 何がしたいのか、さっぱり、わからない。


 すると、氷上は、ニヤッと笑った。看護師たちと同じ、いやらしい笑いかた。


「ただし、そこで培養されてるやつは、ゲノム編集された改良型なんだ。ヤドリバチの遺伝情報をもった血線虫」


「ヤドリ……バチ?」


「おやおや。ほんとに何も知らないんだね。ヤドリバチは虫に卵を生みつける。幼虫は宿主の肉を食べながら、体内で成長する。やがて、時期が来ると、サナギになり……」


 サナギ? さっきの、あの死体のように冷たくなっていた、奈苗。かたい人形のように、コツコツと音がした……。


「サナギになって、どうなるの?」

「それは今に、君にも、わかるよ」


 氷上が近づいてくる。看護師たちも。はりついたような、気味の悪い笑顔で。その手には、注射器がにぎられている。


 ブーン、ブーンと、どこかで虫の羽音のようなものが聞こえた。




 *


「ねえ、柚子葉。いっしょに帰ろ? ひさびさに、いつもの店でクレープ食べようよ」


 放課後。

 叶美が声をかけると、柚子葉がかえりみる。でも、なんだか、冷たい目をしている。まるで、自分とは違う生き物を見るような目で。


 蜂巣病院から退院したあと、柚子葉は変わった。以前から、ちょっと可愛い子ではあったけど、今じゃ、まるで女王さまみたい。誰もが、ふりかえるほどキレイになった。それに、この前の期末テストでは、いきなり学年一位だ。どの教科も満点。以前なら奇跡だって、さわぐとこだけど、本人はあたりまえの顔をしている。

 おまけに、最近ますますカッコよくなった氷上くんとも、いいふんいき。


 やっぱり、あの都市伝説は、ほんとなんだ。


 蜂巣病院でインフルエンザの予防接種をすると、理想の自分に生まれ変われる——


 今では、そんなウワサで持ちきりになっている。


 わたしも注射してもらおう……。

 叶美は、心に決めた。

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