第32話 わたしの彼は、完璧(後編)


 *


 ある日、わたしは切りだした。


 そのとき、那月は仕事部屋にいた。

 黒い表紙の本を見ていた。


「なに? その本」

「なんでもないよ」


 わたしが声をかけると、那月は急いで本をとじた。まるで、わたしに見られたくないようだ。

 少し、気になる。

 ふりかえったときには、いつもの完ぺきな微笑をうかべていたけど。


「なに? 沙織」


 つかのま、那月のおもてを見つめる。

 やっぱり、好き。この人のことが、たまらなく好き。でも……。


「……わたし、あなたには、ふさわしくないのかもしれない」


 ふさわしくないのは最初から、わかってた。

 それでも、できることなら、いっしょにいたかった。

 愛しているから——

 ずっと、ずっと、あなたのそばに……。


 那月は少し怒ったような目をした。


「なぜ、そんなこと言うんだ?」

「なぜって……」

「君も僕から離れていくのか? 僕のこと、嫌いになったのか?」

「そうじゃない。わたしは、あなたが好きよ。好きだけど……」


 愛しているからこそ、悲しくなるんだと、那月には理解できないようだった。


 那月にとって、わたしが、ほんとはいらない存在だと、痛いほど感じる。だから、悲しいんだと……。


 この痛みに、もう耐えられない。


「那月のことは愛してる。一生、忘れない」

「でも、離れていくんだな?」


 那月のおもてが、能面のように冷たくなる。

 那月は、つぶやく。


「みんな、同じだ。みんな、あいつと——母と同じ!」

「那月。落ちついて。お母さんは亡くなったんでしょ? 悲しいことだけど、お母さんだって、那月を残して逝きたくなかったはず。お母さんを責めないで」


 那月は、わたしをよこ目で流しみて、笑った。

 美しい……でも、どこかに狂気をはらんだ笑み。


 ゾクリとした。


「那月……?」

「あいつは死んだんじゃない。おれをすてたんだ。男を作って、おれと父を置いていこうとした。だから、おれは——」

「那月!」


 怖くなって、わたしは、あとずさった。

 那月が立ちあがり、わたしの肩を両手でつかむ。


「どこにも行かせないよ。君に、おれのコレクションを見せてあげよう」

「なに言ってるの? おねがい。ゆるして。あやまるから」

「もう遅い。母も、さんざん、謝ってたけどね。母は、おれがバケモノだと知ってたから。ほんとは、おれが怖くて逃げだそうとしたんだ」


 那月が正気と思えない。


 お母さんが、ほんとは死んだんじゃなく、逃げだしたから?

 そのときのショックで、自分をバケモノだなんて考えるようになったの?


 母にすてられたのは、自分がバケモノだからだと思えば、救われる。理由もなく嫌われるより、そのほうが、きっと、心が軽くなる。


 かわいそうに。

 この人の心が、こんなに深い傷をかかえてたなんて。

 知ってたら、別れたいなんて言わなかった。


「那月。もう二度と言わないから、ゆるして」


 でも、もう那月は聞いてない。


「これを見ろ」


 さっきの本だ。ごうかな黒い表紙。

 よく見れば、それは本じゃない。アルバムだ。


「見たいんだろ? 見ろよ」


 言われるままに、ひらく。


 なかには、たくさんの写真。

 みんな、女の人だ。


 わたしは気づいた。

 髪の長い人。短い人。

 オシャレな人。飾らない人。

 スタイル抜群の人——

 いろんな人がいるけど、全員、似ている。

 那月のお母さんに、どこか少し……似てる。


「この人たちは……」

「みんな、約束したんだ。ずっと、いっしょにいてくれるって。なのに、おれを置いていこうとしたから」

「まさか……殺したの?」


 那月は笑う。

 妖しい、悪魔の笑み。


「なんで、こんなことできるのか、自分でも、わからない。生まれつきなんだ。だから、母は、おれをバケモノだと、ののしった」


 こんなこと? 何?何をしようとしてるの?


 わたしの耳元で、那月がささやく。


「よく見てごらん。この写真たちを。みんな、とても生き生きしてる。まるで、生きてるみたいだろ?」


 生きてる? それって、どういう……?


 わたしには、もう、それをたずねることができなかった。


 那月がパチンと指をならすと——

 すっと、わたしの体は、どこかへ引きよせられ、ぬいつけられた。指一本、動かない。

 那月が巨人みたいに大きく見える。


「これで君も、いっしょだよ」


 那月が、わたしの体をアルバムに貼りつけた。


「僕の愛しい人たち。僕は君たちを愛し続けるよ。永遠にね」


 永遠に……そう。

 永遠に、あなたと……。


    

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