バック・パックは風に吹かれて

野宮有

バック・パックは風に吹かれて

 バックパッカー向けの古びたゲスト・ハウス、その八人一組の狭い部屋には、実に様々な人種が集まる。

 人生の意味とやらを探し求める若者、信仰心に急き立てられて旅に出た老人。

 ある者は単純に好奇心から、ある者は深い悲しみから逃れるために。

 果ての無い孤独と対峙しながら、時にゲスト・ハウスで語らいながら、彼ら彼女らはあてのない旅を続けている。


 そして僕も、そんな旅人のひとりだった。

 僕もまた現実に深く絶望し、終着点を心の底から欲し、だから旅に出たのである。


 東京を出て太平洋を渡り、サン・フランシスコを経由してブエノスアイレスへ。目的も無く、明確なゴールも存在しない旅を僕は続けている。


 ここではないどこかを探す旅を。

 自らの内側へと向かう旅を。



   ◆   ◆   ◆   ◆



 リックが旅に出た理由は、殺した相手への贖罪のためだった。

 五日前、隙間風の酷い安宿のロビーで初めて出会ったとき、彼の双眸は哀しい色彩に充たされていた。意気投合ともまた違う。同情心ともまた違う。理由の言語化など出来ないままに、僕達はこの国を共に旅することになった。


「ショータ、日本にもああいう人達はいるのか?」


 少し前を歩くリックの、熊のように大きな背中が問うてきた。

 どうやら彼が言っているのは、市場の外れで物乞いをする浅黒い肌の老人のことだろう。粗末なシャツは土埃に塗れ、地面に頭を付けてブリキの椀を掲げている。


「家が無い人は少なからずいるよ。でもああして真剣に物乞いまでしてる人はそんなにいない」


「そうか。君の国は豊かなんだな」


「そうでもないよ」


 豊かさにも色々定義がある。財産もなく定職にも付かずとも、毎日を笑って過ごしている人がいる。社会的信頼や高い収入があっても、中央線の快速電車に飛び込む人がいる。


 幸せとはなにか。

 人生の目的とはなにか。


 ここまで旅をしてみても、それらの正体はまだ判らない。とにかく、定規で測れるような代物ではないということだろう。


 見ると、リックは何枚かの小銭をブリキの椀に置いているところだった。老人は神が降臨したとでもいうようにリックを大袈裟に崇め、デタラメな言葉で祈りを捧げるのだった。

 僕は慌てて財布を取り出そうとして、やめた。この貧乏な旅を続けるには、残念だが人に分け与えるような余裕はない。


「気にするな。俺はたまたま残金に余裕があったから、彼に少し分けてあげただけだ。自分を殺してまで名前も知らない他人を助ける必要はないよ。咎めてくる誰かがいるのなら、そいつはただの偽善者だ」


 振り返って笑うリックの顔を、僕は直視することができなかった。

 彼は優しい人だ。触れると壊れてしまいそうなほどに。

 だから彼はこうして、あてのない旅を続けているのだろう。


「日本人は神を信じないと聞いた」


「確かに、ほとんどの人がそうだね」


 市場を抜けて、僕たちは路地裏へと進んでいく。

 治安はそこまで悪くないとされるエリアだが、それでもどこか空気が重くなった気がした。道端には泥酔した男が仰向けに寝ていたり、指をくわえた子供たちが物欲しそうな目をどこかに向けていたりしていた。


「基本的に、ほとんどの家庭が仏教徒だよ。かと思えば、クリスマスには盛大にお祝いをして、正月になると神社に参拝する。神の存在を真剣に信じている人はほとんどいないだろうし、まあ、お祭り感覚だ。気楽でいいと僕は思うけどね」


「だが、心の支えがどこか遠いところにないと、辛いときもあるだろう」


「信じる者は救われる、だね。僕たちにはあまり理解できない感覚だ」


 ここまでの旅で、僕はさまざまな価値観に出会った。それらは文化の違いによって、または環境や経済状況によって形成されてきたものだ。そうした幾つもの差異に触れて初めて、僕たちは自分のほんとうの姿を知る。


 自己との対話なんかでは鏡の在処を見つけることはできない。空を飛び、海を渡り、大地を歩いたその先に自分自身があったのだ。不器用な僕たちは、遠回りをしなければその場所に辿り着くことができない。

 そんな当然に気付けただけでも、この旅は意味のあるものなのかもしれない。


「もしも神が実在するとして、その神とやらは本当に、慈悲を持った存在だと思うか?」


 聖職者だった彼の口からそんな質問が出たことに、僕は少なからず驚いた。答えを紡げずにいる僕に、リックは意地悪く微笑んで見せた。


「あの事件があってから、俺は初めて神の実在を疑ったよ。あれだけ彼に殉じてきた神父に対して、こんな仕打ちはあんまりだってね。もしいたとしても、神は気まぐれに試練を与えるような性悪だと。でも少しして、罪の意識が俺を襲った。そいつは竜巻のように荒れ狂い、俺からすべてを奪っていく」


「出会ったばかりの僕が言うのもあれだけど、リック。君は何も悪くない。君が苦しむ理由なんてないんだ」


 数年前のクリスマス、リックは家族とともに食卓を囲んでいた。神へのお祈りを済ませ、ナイフとフォークで七面鳥の丸焼きを子供たちに取り分けている時だ。

 銃声とともに窓ガラスが割られ、出目帽を被った男が家の中に踏み込んできたのだ。


 それからの数分間に起きたことを、リックはほとんど覚えていないという。


 気が付いたら警察の事情聴取を受けている自分がおり、軽傷を負い怯えきっている妻と子供、そして滅多刺しにされた強盗の死体が目に入ってきた。

 窓ガラスに反射する、ナイフを握りしめ大量の返り血を浴びた自分の姿を目視したとき、彼の中で何かが壊れた。

 長期に渡るカウンセリングの末に彼が自分を取り戻したとき、彼の家族は皆どこかへと離れて行ってしまっていた。


「ああ、確かにあれは正当防衛だ。強盗殺人犯を仕留めたとして、市警から表彰されもしたよ。でも、駄目なんだ。俺は人の命の軽さに気付いてしまった。あんなに簡単に人を殺めてしまえることが、そんなこの世界の真実が怖くてたまらなかった。離婚届を突き付けてきた妻は正しいよ。でなきゃ、あのまま愛する家族を壊してしまっていたかもしれない」


「だけど」


 それに続く言葉を、僕は言えなかった。言えるはずがない。命の質感に、その生暖かさに触れたことがない人間の言葉は、悲しいくらいに脆い。


 居心地が悪くなって周りをきょろきょろと見渡してみると、「仕事をください」と書かれたプラカードを掲げる若者たちの姿が見えた。深刻な状況に立たされた失業者たちは、口を揃えて「どんな仕事でもやります」と言う。

 何故なら、自分に選択肢などないと知っているからだ。どんな仕事でもしがみつかないと、生きていけないという現実があるからだ。


 一方で、憧れていた大企業に就職しても、山のように積まれた仕事に縛り付けられ、親の死に目に会えなかった男がいる。

 葬式にも参列できず、電話越しで号泣する妹に「人でなし」と罵られた男がいる。


 それはいったい、どんな皮肉なのだろう。

 それはいったい、どんな喜劇なのだろう。


 哀しみや疑問を、誰かと共有することなどできはしない。人は人に触れられることが怖くて、心の部屋に鍵を掛けるのだ。いつしか鍵穴も錆びついて、封じた本人にすら開けられない場所になる。

 そこに他人が踏み込むことは勇気でも、まして優しさなんかでは断じてない。

 僕たちは口をつぐみ、扉が朽ちて崩れ落ちるまで待つしかないのだろう。

 気まずい沈黙に耐え切れず、僕は切り出した。


「さっきはごめん。何もしらないくせに僕は」


「いや、こちらこそこんな話をして悪かった。そうだ、話を変えよう。これから見に行く、とある絵についての話だ」


 リックが言っているのは、世界中のバックパッカーたちが通過儀礼のように訪れる、とある「落書き」のことである。

 ガイドブックにも載っていない。ウェブサイトを漁っても見つからない。スラム街に片足を突っ込んだような場所にあるその落書きは、旅人たちの間だけで語り継がれている。それを見に行くためだけに、ヨーロッパから訪れる物好きもいるそうだ。


「いったい、どんな素晴らしい絵なんだろうね」


「さあ? 案外、拍子抜けしちゃうようなものかもしれないけど」


「でも、それを見て人生が変わったって人もいるんだろ?」


「まあ、話には尾ひれがつくものだ。あまり期待せずにいこう」


 確かにそうだ。そんなに素晴らしい絵ならば、とっくにテレビ局が特集を組んで世界中に広めているだろう。

 もともと大して期待もしていなかったが、リックとともに貧しい坂道の街を進むのは悪くないと思えた。

 僕の旅には、どうせ目的などはない。

 ならば、そんな小さな光に縋ってみるのもいいかもしれない。


 照り付ける強い日差しが、肌を焼いているのがわかる。後ろを振り返ると、高層ビルの群れや雑多な街並みを見渡すことができた。知らぬ間に、随分遠くまで歩いてきていたみたいだ。


 リックの太い声に呼ばれて、僕は息を切らしながら坂を駆け上る。彼は天井に穴が開いた空き家の内部を指していた。促されるまま、朽ちかけの木製扉を開けて中に入る。

 瓦礫が散乱した床の向こうに、それはあった。


「これがその絵か」


 リックはなんとも言えない顔をしていた。どうやら、彼の心にはこの絵は響かなかったのだろう。

 たしかに落書きにしてはよく描かれた絵だが、人の人生を一変させてしまうほど、そんなルーベンスの絵のごとき神々しさなどはまるで感じられなかった。


 しばらく絵を眺めてから、リックは肩を竦めながら「もう帰るか」と言った。

 僕は首を振り、「もう少しだけ」と応えた。


 いたってシンプルな落書きだった。

 黒一色で陰影まで表現されたバックパッカーが、一輪の花を掲げている小さな絵。

 黒と鮮やかな青とのコントラストは確かに綺麗だが、花自体はどこにでもあるようなものだ。


 絵の横には、書き殴ったような書体のメッセージがあった。


 その短い文を読み終わったとき、僕の唇からは小さな声が漏れていた。

 それはまさしく微笑みだった。

 久しく感じたことのない、心地よい感覚だった。

 無重力空間にでもいるような、心が軽くなる一瞬だった。


『探し物は見つかったか? 俺はもう見つけたよ』


 どこにでもあるような青い花を掲げながら、バックパッカーは笑っている。

 よく見るとそれは、世界の真理を探し当てたかのような達成感に満ちた表情だった。


 実際、これはくだらない絵なのかもしれない。くだらない絵に、くだらないメッセージだ。だけどそれでも僕は、ヨーロッパからはるばる訪れる旅人の気持ちを理解してしまった。理解して、涙すら流していた。

 不思議そうに顔を覗き込んでくるリックに、僕は云う。


「こんなもんでいいんだ。答えなんて、こんなもんでいいんだよ」


 僕を救ってくれる劇的な何かなど、あるわけがなかった。

 だけど、そんなものは必要ないと知ることができた。

 こんなものが、全ての問いへの解答だった。


 このくだらない落書きと出会うために。

 探していた答えなど、そこらじゅうに転がっているのだと知るために。

 僕は、だから旅に出たのだ。


〈了〉

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