第9話

8


店を出ると雨が降っていた。



面の喧騒に比べて人通りの少ない裏路地は水が浮いた地面に柔らかい店の灯りが映り込み、味気ないアスファルトの下に華やいだ別の世界が広がっているように見える。


表通りで配られているチラシが濡れて張り付き、楽しかったお祭りが終わってしまったようで何だか寂しい。


投げて壊した看板はプラスチックのカバーが割れて内蔵されている電球が見えたままだ。


「代わりに弁償してくれるって意味じゃなかったんだ……」


どうやら謝っただけらしい、先進的な都会の街でも裏に一筋潜っただけで下町の風習が残ってる。


今日の飲み食いにもまた一円も払ってない。


「もう関係ないからいいけどね…」


これで水嶋ともごく普通の先輩後輩に戻れる。


……本来あるべき姿。

普通に仕事をしてたまに飲んだりする。

「アホ」とか「死ね」と言われつつ蹴られたり殴られたり走り回って粉まみれ。生命保険に勧誘されて唐辛子の量で大喧嘩。


……これは普通なのか?


「うん、普通じゃない。これで良かった。」


毎週末の家飲みと自炊のおかげで懐が暖かい、ちょっと贅沢だがタクシーを拾ってアパートの住所を告げた。


パタンとドアが閉まると街の喧騒が遠い。

フロントガラスを打ち付ける雨は激しさを増しワイパーがフル稼働している。


気が抜けて滲んではクリアになる景色を眺めていると嫌でも目に入る赤い文字が気になった。


三千円を超えるな、とジリジリしながらメーターを見つめ、もうアパートが見えた所で無情にも3090円になってしまった。

それなら濡れる必要もない。行き止まりになってるアパートの真ん前までタクシー付けると部屋には灯りが付いている。


ドキンと胸が波打った。


電気を消し忘れたのか……まさか……とドアに手をかけるとやっぱり鍵は掛かってない、しかも何だかいい匂いが漂ってる。


「うそ、水嶋さん?」


急いで靴を脱いでいるとドアの音に気付いたのかお玉を持った水嶋が部屋から顔を出した。


「おかえり」


「何でいるんですか、もう佐倉が押しかけてくる心配は無いと思いますよ、それに鍵は…」


そう言いかけて、先週鍵を渡したまま返してもらうのを忘れ、合鍵で間に合わせていた事を思い出した。


「お前が俺の料理を食わなかったからリベンジしてたんだ、今日のは真っ当だぞ」


「はあ……何を作ったんですか?」


「鳥の煮込み、酢を入れた」


「鳥……」


どこで付けたのか……水嶋の髪、スーツ至る所にくっついてヒラヒラしている白い綿毛は鳥の羽根に見える。

その鳥は買ってきんだよな……


まさかとは思うが、ゴミ箱を開けたら悲鳴をあげる羽目になったりして……


それに……


クソ佐倉。一度詫びたがやっぱり殺す。



…………水嶋の睫毛に羽根が付いてる。


やりたく無いし言いたく無いし知らん顔したいのに……試してみたくいのは何でだ。手がモジモジする。

味見するか?と、上機嫌に笑われたらモジモジがムズムズに変わった。


「みずしみゃさん……」


噛んだ。


コホンっと咳払いで仕切りした。

瞼でヒラヒラする白い羽根は視界に入ってボヤけてる筈、躊躇う方が変なのだ、これは水嶋の為だと自分に言い聞かせた。


「顔に何か付いてますよ」


「何かって何だ」

「目に羽根みたいなもんが付いてます」


「どこ?」


佐倉の言ったことは本当だった。

水嶋は目を閉じ、素直に顔を差し出して待ってる。


何を意識してるんだか……かなり佐倉に毒され、何でもない事なのに妙に恥ずかしい。そろそろと出した指先がチョンと睫毛に触れると水嶋の体がビクっと跳ねた。


「何してんだ、くすぐったいから早くしろよ」


「すぐですよ、ちょっとジッとしててください」


……自分で目を擦るとかすればいいのに…水嶋はまだ待ってる。引いてしまった指をもう一度持ち直し、睫毛に乗った小さな綿毛を摘むと変な事に気付いてしまった。


水嶋は睫毛が長い。意外と長い。


下向きに生えているせいであまり目立たなかったが天井の灯りが涙袋の上にギザギザの影を作ってる。


離れて見ていればどう見ても男なのに近くで見ると性別がブレる。


「取れたか?何してんだ」

「あ……ああ……はい、取れました。完了しました。何でもないです。俺は大丈夫」


危ない………佐倉のせいで目が変になってる。

ゲイの巣窟heaven規格に偏って男を……よりにもよって水嶋を「有り」か「無し」だけしか目盛りの無い定規で測ろうとしている。


目線が完全にゲイ寄りになってるなんてこれだけでもう訴訟。責任取ってもらう。


マッハで離れ、なるべく硬い物を探したが、何も無いから冷蔵庫の角に頭を打ち付けた。


上に乗せた古いレンジが衝撃に揺れて勝手にドアを開けてる。


「おい……何してんだ、血が出てるじゃないか」


「何でも無いって言ってるでしょう、ほっといてください。それより夕方に別れた後どこに行ってたんですか?色んな所に羽根が付いてますよ」


「ん?ああ、羽根?カルシウムラインで出た原料の残りカスを養鶏場に引き取って貰ったんだ、ちょっとだが売り上げになるし廃棄料金も抑えられる」

「あの時間から?養鶏場ってどこにあるんです、水嶋さんは車の運転出来ないんでしょう」


営業は基本電車だが場所によっては社用車を使う。水嶋が一人で回っていた数年はどうしていたのか知らないがハンドルを握る事は無い。


「今日は関口さんに頼んだ」

「またトラックを出してもらったんですか?そんな大量にあったかな」

「いや?超デカいゴミ袋2個、運転席の裏に乗った」

「それは……」


気の毒に……金曜日の夜に突然呼び出されても黙って付き合うなんて関口もよくやる。


「まだ仕事が残ってるなら俺に言ってくださいよ、関口さんが可哀想でしょう、車くらい俺が出します」


それなら言い訳が出来て佐倉と会わずに済んだ。


「いいんだよ、配送部と揉めた時に関口さんが「これからは全部俺に言え」って請け負ってくれたんだよ」

「え?それってまさか伝説の反乱事件ですか?」


営業職に就いた時に運送部と研究室は別の会社だと思えと注意を受けた。特に独立した労働組合を持つ運送部は、緊急搬送に振り回された末にストを仕掛けたと聞いた。


配送部で花見を催す為に予定を前倒して早朝から働き、業務を終えて片付けているところに大型トラックを出せと乗り込んできた営業と乱闘に発展したらしい。


犯人は水嶋だろうなとは思っていたが、その配送部反乱事件は工場3日徹夜事件と共に、伝説として語り継がれている奥田の逸話だ。


「伝説って何だ、よくある話だろ」


局地的にはよくあるが、世間一般ではあんまりない。


「関口さんはいい人なんですね」

「仕事だろ」


あんたのな。


……何だか落ち着いた。


仕事をしている水嶋が頭の中で盛り返し、佐倉に盛られた毒が抜けた。いつもと同じ顔に見える。


「飯食うだろ?」

「はい、頂きます」


店で結構食べたがせっかく作ってくれたのだから無理にでも食べる。どんな味でも食べてみせる。


待ち構えていたのか水嶋はいそいそと料理を盛ってくれたが散らかった台所を見てゲンナリした。

ひと月の間週末を一緒に過ごしたが腑抜けバージョンの水嶋はだらし無いを通り越して幼児化する。

鼻をかんだティッシュはゴミ箱に向かって投げる事すらしない。うだうだ寝転ぶその場に捨てる。

(本人は置いただけ、と弁明)

牛乳はパックのまま飲むしトイレに立つ事まで面倒くさがる。

髪は洗ったままのバサバサ、ブカブカのスエットトレーナーを捲り上げてボリボリ腹を掻く。


この駄目バージョンの水嶋を惚れた色ボケで架空の脚色をしている佐倉に見せたら何て言うか見ものだ。


「何見てんだよ、まずいか?」

「いえ、美味しいですよ」


お世辞や気遣いではなく、鳥の煮込みは立ったお酢の刺激も無くサッパリしていて本当に美味しかった。

掃除意外の家事は手伝ってくれていたから全く料理が出来ない訳じゃないって知っていたが肉が旨い。妙に旨い。体の芯が冷たくなるほど旨い。


「あの……水嶋さん、この鳥は……」

「養鶏場で貰ったんだ、温ったかい生肉って気色悪いな」

「え……」


やっぱり潰したんだ。

潰したてのホヤホヤ。


そりゃスーパーで売ってる各種のお肉が数時間前まで息をして、「お腹空いた」とか呑気に考えていたかもしれないって頭ではわかっているが敢えてそこには目を瞑りたい。


「見てたんですか?」

「ああ、ぽいっと機械に放り込んだら肉になってた。ほら、生肉って冷蔵のイメージが強いから生温いと腐ってないか心配になるよな」


そこだけか。

獣医学部でさえ屠殺を見て肉が食えなくなる生徒が出るって話なのに肉の温度しか気にならないなんて意外と神経が図太い。


「水嶋さんって医者に向いてるんじゃないですか?俺だったら多分この肉食えませんよ」

「向いてないって気付いたから学校を辞めたんだ」

「は?」


辞めた?


今とんでもない告白を聞いた?空耳?勘違い?


「は?って何だ、何か文句あんのか、何でそんなに驚くんだ」

「辞めたって……大学?まさか医学部?」

「そうだよ、俺ん家病院だからな、一応継ぐって前提で育ってきた」


「水嶋さんが……医者…」


ご両親がそのつもりで育てて来たなら融通の効かない真面目な水嶋の事だ、そう思い込んで前しか見えてなかったとは思うが……医者を振って中小企業に?

どこの大学か知らないが恐らく1期目の授業料だけで新入社員の年収は軽く超える。


「勿体ない……」

「無理だとわかったんだからしょうがないだろ」

「水嶋さんってお坊ちゃんだったんですね」

「アホ、病院つったって色々なんだよ、うちみたいな零細は両親共働きでもカツカツで一緒に飯も食えなかった」


「それならどうして…」


水嶋は何でも、掃除以外は何でも完璧を目指す。

優しくは無いだろうがきっといい医者になった。どうして向いてないと思ったのか聞こうとしたら水嶋は食べ終わった皿を置いてさっさと風呂場に行ってしまった。


……ってか何故泊まろうとしている。


「別にいいけど」


決まった事を(決まってないけど)当たり前に受け止めてクソ真面目にこなす。

そしてあくまで片付けだけはしない。


水嶋を知れば知る程定規で線を引いたような人だった。




土曜から降り始めた雨は日和った弱さで降り続き、溜め込んだ洗濯物が乾かない。

何故水嶋のパンツまで混ざっているのか不満に思いつつ、部屋の出っ張り全てにハンガーを掛けて干して回っていると床に転がっている水嶋を踏んだ。


腑抜けの水嶋は水の入ったゴム風船みたい。フギュっと変な音を口から漏らしただけで怒りもしない。


毛布を被ってごろごろするもふもふの塊は邪魔。

掃除機のヘッドでドシドシ突くと脇を攻撃したらしくクネクネ捩れて面白いからわざと狙ってやった。


昼は焼きそばと冷や飯。


気にはなるのは………段々滞在時間が伸びている。


もう来なくていいと言ったのに勝手に上がり込んでご飯を作っていた金曜から、土曜、日曜、日曜の夕方、とうとう夜……自分の部屋に帰ろうとしない。


「来ちゃった」とか言って女子が訪ねてくる訳じゃないから別にいいけど月曜の朝ルンルン同伴出勤なんてキモい。


「あの……水嶋さん……」

「なあ、こいつ殺されるよな」

「はあ……」


水嶋がリモコンで指したのはテレビドラマの冒頭、コツコツとヒールの音を響かせ、夜道を歩く女を影から伺っている男の手がアップになってる。


「殺されますね」

「殺されるよな」

「珍しいですね、いつもチャンネルをプチプチ変えまくってるのに…これ見るんですか?」


このドラマは9時枠……見終われば10時……帰る気なし。


「死ぬまで見ようかなって……わ……速攻…」


携帯を持った女の手がアップになったと思ったら顔が映るより先に口を塞がれ画面から消えた。


場面が変わって主役のイケメン俳優が手袋をしながら川を見つめてる。そして視線誘導。遺体にかけられたビニールシートが捲れ、水に濡れた女の首に付いた痣がアップになった。


「あれ?この死体役って先週の雨の日に婚約したって指輪かざしてた女優じゃないですか?」


ビルの壁面に張り付いた大型ビジョンに映り、幸せそうでどこか痛い記者会見していた。聞いた事も見た事も無い女優だったが婚約した相手が有名な金持ちでニュースになっていた。


「女優か?ほぼエキストラだろ、顔が映ったのは死んでから3秒だしな……」

「それでもこのドラマはゴールデン枠でしょう、婚約特需かな?急にぶっこんだ感ありますね」


「どうなんだろうな」


ふんっと鼻を鳴らし「あの首についた絞め痕……場所が違うだろ」と医学を齧った片鱗を見せた水嶋はチャンネルを変えてしまった。


ドラマを見るつもりは無いらしいが帰るつもりもない。ゴロンと寝返りを打っていつものチャンネルクルーズに戻ってる。


好きにしてくれと布団を敷いた。




週が明けても空の不機嫌は回復していなかった。

降り続く雨は季節を真冬に連れ戻し、コートにマフラーや手袋も欲しいくらい寒い。


そして寒いのは気温だけじゃなくて背中も寒い。

水嶋とルンルン同伴出勤が現実になった。


トイレや洗面所を取り合い、バタバタと簡単な朝食を突っ込んで出勤の用意をする。

それだけならいいのだが朝起きた瞬間から水嶋は超絶不機嫌だった。


多分だが原因は寝不足だと思う。

床に敷いた布団から魘される声が聞こえてた。


「夢に魘されている」と聞けば、大概の人は「何か悩みがあるのか?」と聞いてみたくもなるだろうが水嶋の場合は聞かなくてもわかる。

何故なら全部喋っているから。


それはメンタリティな深い悩みなどではなく、ただ単に夢の中でも仕事をしているだけだ。


案件は様々、多種多様にある。実際に関わっている取引の事だったり架空だったりするが何の事かわからない時もある。


昨夜は「今度は大丈夫なのか」を繰り返し、途中からは他のストーリーが混ざってる。

「江越」は上映プログラムにインストール済みなようでちょくちょく夢の中の架空取引に登場していた。何回も話しかけられてこっちまで寝不足になってしまう……


結果、水嶋だけでなくこっちも不機嫌だった。



殆ど会話らしい会話もなく会社に着くと、社内にもピリついた鋭角な空気が流れている。


日頃から言葉の荒い職場だがいつもと少し違うのは期末決算の尻尾が見えてきたからだ。

入社して初めて経験する年次決算は月末とは色が全然違う、特に経理はピリピリと言うよりザラザラして短卒の二十代女子が高圧的になっていた。


どこで学んだのか(奥田だけどね)ドスの効いた声で威圧の気を放ってる。


水嶋の実態を知らない矢田は、出来高が直に給料アップになる奥田製薬で実績を上げよう……なんて甘い考えで燃え上がっている。


水嶋に付いたお陰で"江越は売り上げが伸びた"と思っているのかもしれないがそれはちょっとニュアンスが違う。


それだけ働いているのだ。


朝も早いし夜は遅いし休日の肉体労働付きサービス出勤。ホモと友達になって怪しい性具の知識注入、人生初の「殺してやる」との遭遇2回。数え上げると時間外の方がブラックだ。


「俺の裁量でいいんですね?部長」


「う〜ん、裁量って程でも無いよね?水嶋くん」


「はい、まあそんな事を頼んだりしませんよ」


新たな発注を受けたとしてもそれは水嶋の売り上げになるだけ。数千万、時に億が見える取引に関われる……と、矢田は考えてるのかもしれないが問題は仕事の難易度では無い。


「殺してやる」と突き飛ばされたあの時程極端な例は一回きりだが、すれ違いざまに嫌味を言われたり睨まれたりする事は結構ある。


強引にシェアを広げた新参者の会社が妬まれるのはわかるが精神的に追い込まれるのだ。水嶋が人目を避け、裏の裏路地に潜む目立たない店で飲む事情がよくわかった。


(ただし飲む店は選べと言いたい)


「回る順番を守れよ」…から始まった水嶋の指示は後輩を指導する気なんてまるでない。


完璧に段取りを組んで覚えている所は相変わらず凄いが早口で多過ぎる取引先を並べ立てて、矢のように飛び出して行った。


俺は慣れてるからボイスレコーダーで録音したけどね。


「俺半分も覚えてない……」


「俺は録音してた、書き出すぞ」


「え?…お、おお」


目を丸くした矢田と二人で22件もの外回りを分け、夕方に落ち合う約束をしてから別れた。


久し振りの単独行動は不安感と開放感に溢れている。


一人で回ると言っても水嶋に顔を通して貰ってる、どこに言ってもスムーズで予定より早く終わってしまった。


水嶋は何をやらしても完璧。しかしそれは仕事に限る……と注釈が付くのはもう定番。


矢田と待ち合わせた本社に近い蕎麦屋で一時間も待つ羽目になった。


腹はぐるぐる煩いし隣のテーブルから聞こえる美味しいって台詞には殺意が湧く。


今はやりたくないがどうせやらなければならない。


一日分のボイスレコーダーを整理しているとカラカラと駒の回る音がして矢田が入って来た。


「疲れた、大企業怖え」


「ご苦労様」


「おお、江越もな、これ貰っていいか?」


矢田は店に入るなりネクタイを背中に回して飲みかけていたビールを奪い一気飲みした。


「遅かったな、何か困った事でもあったか?」


「いや?小さな商店と違って大きな会社は場所がわかりやすいし、何より水嶋さんから連絡が入ってて問題なんか無かったけどさ、数字が大きくて一桁間違ったらと思うと何回も聞き直して在庫確認に時間を食った。」


「あの人はきっちりしてるからな、何か……誰かに何か言われたとかは?」


矢田は声がデカい、今は水嶋の名前は出さざるを得ないが必要以上に誇示するとトラブルを呼び込む可能性がある。


「何も無いけどな」


ニヤリと笑った矢田には何か収穫があったらしい。水嶋の代わりが出来るならそれに越した事は無いがちょっと危なっかしくもある。


「あんまり余計な事すると水嶋さんに殴られるぞ」


「余計な事なんかしてねえよ」


「ならいいけどな……それより腹減った、セットメニューでいいか?」


「ああ、それでいい」


定食二つとビールを注文していると矢田はテーブルに広げたメモ帳を見て馬鹿にしたようにフンッと鼻で笑った。


「マメだな」


「ああ…一応な」


笑ってろ。「あれはどうなった?」と聞かれた時、水嶋が答えを待ってくれないなんて矢田は知らないから笑ってられる……まあ大人く殴られとけ……。


「それにしても水嶋さんってやっぱり凄えな、今日江越と二人で分けた件数を一人でこなしてんだろ」


「……まあ…そうだな」


一人でって言い方……一応二人で回ってるんだけど……矢田の中で「江越」は完全に水嶋の添え物になってる。


その通りだから反論はしないけど「水嶋が凄い」って本当の意味をわかってないからそんな言い方になる。


売り上げ命と言っても微妙にニュアンスが違うのにこればっかりは実際に見なきゃわからない。


教える気は無いし見せてやる気もない。あの奇跡のような馬鹿さ加減は独占させてもらう。


「おい江越、何を笑ってんだ?」


「え?俺笑ってた?」


「笑ってたよ、女子のパンツでも覗き見してるみたいだぞ」


失礼な。


「こんな顔なんだよほっとけ。飯を食えるのが嬉しいだけだ、こんな時間に食べれる事ってあんまり無いからな」


「いっつも遅いのか?」


「水嶋さんによる、ほら、蕎麦が来たぞ、食おうぜ」


矢田には何にも教えない。


箸を割って数種盛り合わさってる天婦羅を一つ摘まみ取った。


サクッと齧るとちょっと苦い。


何を食べたのかわからなくて店員さんに聞いてみるとふきのとうだと教えてくれた。


夜定食の値段は1580円、鴨せいろと天婦羅、小鉢の煮物、結構豪華。ちょっとだけいけ好かない矢田とゾーゾーと蕎麦を啜りながら水嶋への報告を纏めている時だった。


いきり立った声の水嶋から「矢田を知らないか?」と電話が入った。


答えは


「知ってます。」


金土日と軟体と化した水嶋に浸り、リセットしないままだったから…ついふざけ気味の答えが出た。


同然だが思い付く限りの罵声を並べられ最後は携帯が口から離れているのか聞き取れない。聞いているとは思えないが「蕎麦屋にいる」とだけ一応伝えておいた。



「え?何?今の電話って水嶋さん?矢田って聞こえたけど水嶋さんは俺に怒ってんの?」

「いや?それはわからないけどあの人のテンションはいつもこんな感じだし大丈夫だろ」


ただの業務報告だってこの調子だ。

つい揶揄いたくなる悪い癖がヒートアップに一役買ってる。


「お前怖くねえの?」

「慣れた」


「江越は尻尾振んの上手いからな」


チクっと刺さる嫌味の連投。

変わってやろうかと言いかけたがそれは絶対言わない。その代わりに不定期に発生するトラブル処理には呼んでやる。ありがたく思え。


俺も「大人」になったなあと遠い目をしつつ数字の確認と簡単な報告書の作成にタブレットを開くと……ガラスの入った店の格子戸が跳ね返る勢いで開いた。


「え?!水嶋さん……」


すぐ近所からの電話だったらしい、走って来たのか雨に濡れて肩で息をしていた。


水嶋は飛び込んで来ていきなり怒鳴り始めたが、頭を突っ込み外れてしまった店の暖簾を頭に被ってる。どんな時でも笑かすの上手。


このマニアックなツボを共有できるのは佐倉だけってのが虚しくもある。


「「矢田!!お前何してくれてんだ!説明しろ、すぐしろ!今すぐここで」

「どうしたんですか?俺が何か?」

「どうしたかじゃないだろ!嶋田工業に何をしたって聞いてる!」

「ああ……あそこの取引分こっちに纏めさせて貰いました」


「は?」

「年間で1000万も無いですが売り上げは俺に付けさしてもらいます」


「誰がそんな事頼んだ!このアホンダラッ!!」


ボリュームマックスの怒鳴り声にギョッとした。

水嶋がバァーッと薙ぎ払った腕がテーブルに乗っていたトレイを吹っ飛ばし、皿や蒸籠が落ちて砕けてる。呑気に笑ってる場合じゃなかった。飛び散った残り汁に隣の席に座っていたOLが悲鳴を上げて立ち上がってる。


「水嶋さん!ここは会社のフロアじゃ無いんですよ!暴れないでください!」

「江越は黙ってろ!矢田!お前な!何も知らず勝手な真似すんな!!今すぐ取り消してこい!土下座して来い!床を舐めて来やがれこのどアホ!!」

「え?!ちょっ……水嶋さん!」

「いいから来い!」


矢田の襟元を掴み、出入り口の方に押しやったがどう見ても矢田の方が体重が重い。


「離してください!」


バッと腕を振り払われた水嶋の背中が飛んできた。

もっとしっかり水嶋を抑えれば良かったのに胸を押し返され手を離してしまった。


「ちょ……水嶋さん!矢田もやめろよ!店に迷惑だろ!」

「離せ!」

「ちょっと!」


矢田の手が引っ掻いたのか水嶋の顎から血が出てる。拭った手に付いた赤い筋を見た水嶋はギロリと睨みムンズと矢田のネクタイを引いた。


これは駄目だ。駄目なやつだ。

水嶋は周りが見えてないし矢田には水嶋の表面しか見えてない。

肩を抑えようとすると「触るな」と振り払われた。

「あの二人共……ここは…」

「うるせえ!矢田!何でもいいから来い!」

「嫌です!何で駄目なんですか!水嶋さんだってそうやって売り上げを伸ばしたんでしょう?!あんな小取引を続けるよりうちに纏めた方が助かるって向こうの担当者も喜んでましたよ」

「ふざけんな!俺がどんだけ苦労して嶋田さんが切られたりしないよう頼んできたと思ってんだ!」


何かと思えば……要するに矢田は奥田と同業の小口取引を奪って来たらしい、それは嶋田の言う通り「殺される」心配が付き纏う程、あちこちで水嶋がやって来た事だ。


何を起こっているのか細かい事はわからないが、むしろ新人にも簡単にわかる奪いやすそうな商取引を水嶋が容認していた方に驚いた。


「俺達だって売り上げが欲しいんです!水嶋さんのようにね!」

「やっていい事と駄目な事の区別がついてない癖に勝手な事をすんな!」

「勝手って何ですか?言ってる事が変だろ!俺は無茶をしたんじゃない、一声かけただけで奥田さんにって言われたんです!おかしいのは水嶋さんだろ!」

「おかしいかどうかは俺が決める!来い!」


引き綱を手繰るようにグイッたネクタイを引かれた矢田は遠慮するのをやめたようだ。水嶋に掴み掛かり揉み合いになった。


「嫌ですったら!離せよ!何だよ!あんた嶋田工業から袖の下でも貰ってるんじゃないですか?」

「何をだ!!」

「あんな70越えた爺さん二人がやってる会社が生き残ってる方がおかしいでしょう!聞けば単価も奥田より高い。金でも貰って見逃してきたんじゃ…」

「っっ!!」


「水嶋さんっ!!」


矢田が言い終わる前に水嶋が飛びかかった。

道路に転がり出た二人の背中に跳ね、アスファルトに浮いた水溜りが派手に飛沫を上げた。振り上がった手足が水滴を撒き散らしてる。

矢田は矢田で応戦する気満々、二人で縺れ、行きゆく雑踏からも悲鳴があがった。


「水嶋さん!!やめろ!やめて!」


男の乱闘なんてテレビでしか見た事ない、お互いの胸倉を掴み合っているが体が軽い水嶋が劣勢に見える。


止めたいのに……何もできない。横であたふた手を振り回すだけ……


言葉になってない怒鳴り声に足を止めた雑踏にはまずい事に携帯を構える奴もいた。


オロオロしていると横目に映ったデカい影が揉み合う水嶋の服をムンズと掴んで持ち上げた。


「誰だ!離…」

「江越、これ持ってろ」

「え?わっ!」


どしんと投げつけられ受け止めた水嶋はまだ暴れる気満々、前のめりに振り払おうとするが今度は放さない。

暴れる水嶋を抑え込み、助けてくれたのは誰かとよく見たら知ってるマッチョが水嶋を守るように立ち塞がった。


「関口さん……」


「水嶋を離すなよ」


「離しません、絶対……」


もう泣きそうになっていた。

水嶋の体は水を吸わないスーツのジャケットがどっぷり濡れて水滴が転がっていく。胸の中に抱き込んだ体は屈辱の怒りで震えている。


「離せ……」

「嫌です」


回した腕にギュッと力を入れて強く引き寄せた。



「……ふん……」


ボリボリと頭を掻いた関口はもう大丈夫だと確認すると呆然と地面に座り込んでいる矢田を持ち上げ「よしよし」とは程遠い強さでノシッと頭に手を置いた。


「おい、お前、言い過ぎだとわかるな?」


「…………でも…でもおかしいです、俺は間違った事をしてません!営業の仕事をしただけなのに……水嶋さんの方がおかしいです!」


「お前奥田製薬の新入社員だよな?本社の奴らは水嶋を知らんのか?」

「知ってますよ!横暴で乱暴で自分の売り上げにしか興味ない自己中です!今度の事も売り上げを攫われて怒ってるだけでしょう!…と言うかあんた誰だよ!関係ないだろ!」


「俺は配送部の関口だ、確かに事情は知らんがやり過ぎだとは思わんか?」


「やったのは水嶋さんです!」


KOパンチ


店を荒らしたのは水嶋一人、手の出る喧嘩を売ったのも水嶋一人。

専守防衛、矢田は何もしてない。


……して無いが、関口の言う通り本社の誰も水嶋を知らない。袖の下を貰うなんて気の利いた世渡りが出来れば…パンツに手を突っ込まれて困るなんて無い。


「関口さん、すいませんがここと矢田を任せてもいいですか?、俺は水嶋さんを連れて行きます」


「ああ、そうしてくれ」


財布を出そうとしたがそれはいいからさっさと行けと背中を押された。

男前な関口に頭を下げ、下を向いて黙りこくっている水嶋を連れ出した。


水嶋はフウフウと肩で息をして興奮が治ってない。

肩を抱いた手は放せなかった。


「大丈夫ですか?髪まで濡れて……着替えた方がいいかな……帰りますか?マンションまで送ります」


「……い」


「え?」

「……いい、俺はまだやる事がある」

「そう言うと思ってました。嶋田工業の事でしょう、俺が頭下げて何とかしてきます、水嶋さんはその格好じゃ今日は無理ですよ、帰って下さい」


濡れているだけならまだしもシャツは跳ねた泥水を吸いボタンは飛んで無くなってる、顎から首を伝う血が赤く滲んで襟を汚しているし顔には地面で擦った擦り傷まで出来ていた。


これでは会う人全員に「交通事後?」って聞かれてしまう。


「青…」

「青山もはるやまも駄目です、これ以上スーツを増やしてどうするんですか」


「……お前に出来んのかよ」

「出来なくてもやります。水嶋さんの名前に傷が付くような失敗はしません」

「俺の名前なんてどうでもいい、何て言うつもりだ」

「そこは任せてください、在庫が足りないから今回は嶋田工業にお願いして欲しいって言います」


床に頭を付けてでも白紙に戻して貰う。息をするように何でもする、それこそ「何でも」する水嶋を見てきたのだ、それぐらい出来る。


合否を判定するような目が見上げて来た。

肩を抱いたままの距離で……近い。睫毛長い。


何だか気圧されて腕を離すと水嶋は携帯に指を置いた。


取っ組み合いをしても携帯は離してない……


「ちょっと待ってろ、経理に……幾ら分引けばいいのか聞くから…」

「芒硝が4780キロ、アスコルビン酸が59000キロですかね、矢田から報告を聞きました」


「……相変わらず数字にだけは強いな」

「教科書が全部数字なら俺だって医学部に行けましたよ」


ハハッと声を立てた水嶋は少しずつだが落ち着きを取り戻してきている。

仕事バージョンでも無く水風船バージョンでも無い。


怒りを爆発させた後、気怠そうに凪いだ水嶋はいつもより小さく………頼りなげに見えた。


いつもひょんな事で気付く。

頑強な仕事オーラの鎧を脱いだ水嶋は儚げにさえ見える。

……守ると決めていたのに……こんな顔をさせてしまった。



「ん?」


──ポツっと………頭の天辺を何かが穿うがって空を見上げた。降っていた雨はもう止んでる。


「何だろ……何か降ってきた」


「雨じゃ無いのか?」


二人で空を見上げると長く続いていた雨は止んでる。


「いや、濡れてないんですよ」

「じゃあ鳥のう○こだろ」

「濡れてないって言ってるでしょう、さあもう行ってください」


タクシーを拾って背中を押すと、水嶋は珍しく口答えもせずにおとなしくシートに収まった。


走り去るテールランプを目で追うと……追いかけて一緒に乗りたい。



わかっていた。もう心の中ではわかってる。


水嶋の背中を支えた胸には水滴と泥……それと……正体不明の靄が残ってる。


触っても実態のない水滴は、頭では無く心に落ちて来たのだとわかっていた。


でもわかりたくないから無視。



「さて……急がなきゃな」


蕎麦屋を振り返ると矢田と関口が何かを話していた。怪我をしている様子は無く関口に任せても大丈夫だ。


色々気になる事はあるが、発注が動き出す前にキャンセルしないと間に合わなくなる。傘を閉じ走って電車に飛び乗った。



嶋田工業と奥田製薬との由縁はすぐにわかった。


数年前、多分水嶋が入社した頃だ。

奥田の倉庫で起こった小さな火事は規模は小さいが自ら酸素を生み出し燃え続ける物質は延々と煙を吐いた。

手立ては延焼を防ぐだけ。燃え尽きるまでの一週間工場が使えなくなり、その穴を埋める為に同業でありながら嶋田工業が手を貸してくれた。


恩というより最早仁義。

99%を奥田から仕入れ、残りの1%を統合したがる担当者を説き伏せて嶋田のシェアを守って来たと聞いた。


謝りに行くと担当の係長が「水嶋くんの指示にしては変だなって思った」と快くキャンセルを受け入れてくれた。

拍子抜けではあったものの、変な嘘をつかなくて良かったのは全部水嶋が培ってきた信頼のおかげだと思う。


ただ売り上げを積み上げるだけじゃ無い。

周りを見て人との繋がりを武器にする、営業職は見る角度を変えると面白い。


水嶋はとんでもない人だが尊敬の念が湧き上がりやる気が溢れてきた。


気分が良かったのに……ポケットで鳴った携帯の番号を見てマックスだったテンションが急下降した。


電話帳の登録に名前を入れないのは一度携帯を失くした事があるからだ。番号を覚えているのに名前を入れる必要なんか無い。


その番号は入れたてのほやほや。

嫌々だったが一応何の用か聞いてやる。


「……はい」


「ああ、エゴちゃん?濡れて汚れて潰れてるから引き取りに来てくれないかな」


「………は?何の事です、誰にかけてるんですか?」


番号を見直すとやっぱり間違い無い、ゲイバーの店長赤城からだ。


「あれ?この番号江越くんだろ?嫌なら佐倉さんに言うけどいいのか?」

「え?……つまり濡れて汚れて潰れてるって水嶋さんですか?」

「ああ〜……俺は顔と名前が一致してないけど多分そう、あんたらが取り合って揉めてた人だと思うよ」


取り合ってない。


大体マンションに帰ると大人しくタクシーに乗ったはずなのに………


何故飲んでる。しかも因縁のゲイバー。


「今すぐに行きますから各種変態から守ってくださいね」


変態って言うなーと叫ぶ声を最後まで聞かずに携帯を閉じて、またタクシー。

余り気味だった今月分の給料が交通費に消えていく。


大通りで車を降りて雨の中路地を走っていくと、Heavenの中でカウンターで水嶋が突っ伏していた。しかもその周りに人集りが出来てる。


「何してんですか!」


建設会社を営むマッチョゴリラはどの位の頻度でゲイバーに来てるのかまたいる。他の顔も見たことがある常連達だ。


「ちょっと!触らないでくださいよ」

「いや、触ってないよ、噂の極上ネコがどんな男か見ようかと…」

「猫って…佐倉さんが言うほどキュートな訳無いでしょう、普通の男ですよ」

「やだなエゴちゃん、ネコってそう言う意味じゃなくてさ、ほら説明しただろう、初めてのGスポット責めでドライイキ出来るなんてネコの……つまり抱かれる才能あるって意味」


「抱?……」


「惚けんなよ、江越くんはタチなんだろ?」


すっかりゲイ用語に精通してる自分も嫌だが真面目に答えてみた。

「男の99%は基本「タチ」でしょう」

「お……認めた」


もう反論はしない。

「彼氏もタチなら困ってるだろう」とか「やりながらリバるの?」とか「俺と付き合わないか」とカジュアルに誘うマッチョゴリラにきっぱりと断りを入れてその後は無視した。


「水嶋さん、どうして帰ってないんですか」



「…………ら」


呼んだらピクリと肩を揺らし、反応はするが顔を上げない、水嶋が顔を置くカウンターには中身が半分程に減ったウイスキーの角瓶とグラスが置いてある。


「赤城さん、この人どれくらい飲んだんですか?」

「ボトル見りゃわかるでしょう、この人前に来た時もこの飲み方でね、ショットじゃなくて瓶ごと注文するんだよね」


だから覚えていた…と成る程……


水嶋は酒に強くも弱くも無いがこんな飲み方をすればそりゃ往来でも草むらでも寝てしまう。


挙句ゲイに付け入る隙を与え、財布を盗られる。


「ホントに馬鹿だな」


「この人はさ……楽しいからとか美味しいからじゃなくて酔いたいから飲んでるんだね」


異国語を話す亜人種の店長が珍しくバーのマスターらしいカッコいい事を言った。



「やっぱり……こたえたんですね……」


頑張っても、辛い事があっても、本社からは数字しか見えない。

その数字さえも否定されては飲みたくもなる。

水嶋は仕事にしか生きてないのだ。

矢田はとんでも無いピンポイントで最悪な暴言を吐いた。


不器用極まりない水嶋は、普段ならよく思いつくなと感心するくらい込み入った暴言を吐く罵詈雑言の達人なのにあんな時は反論の言葉は持たない。


やけ酒で酩酊するのは唯一の逃避なのだ。


「大丈夫……じゃ無いな…」


背中に手を置いてももう反応は無い。


少し揺らしてみると濡れている髪からツルルと滑った水滴がポツンと首に落ちて襟の中に入っていく。


シャツもパンツも濡れたまま……隣の椅子にジャケットを脱ぎ捨て透明になったシャツから肌が透けている。

後続の水滴を掬い取ると、耳の下に触れた指先にもぞもぞと身動ぎをした。


「うわ……感度がいいってあそこだけじゃ無いんだな」

「ちょっと試しに脇腹突いてみよ」

「背中をツー…とか?」

「やだ〜も〜」

「やれよエゴちゃん、やらないんなら俺が代わりに触ってもいいか?」


無視を決め込んでいたギャラリーが煩い。


「カテゴリーがあるとしても公共の店で他の客に「触ってもいい」訳ないでしょ」


「酔ってるんだからわかりゃしないよ」


相手をしては駄目だ。無視


「佐倉さんは腰かあ、俺は首だな」

「俺も首かな、背中の線が堪らんな」


確かに首は綺麗。

細くて……掴んだら手が回りそう。

青山で買った量販品のシャツは身丈より首周りが大きいのか襟が浮いて背骨の突起が見える。


目立って華奢であるとかナヨナヨした印象はないがパーツパーツを特化してみれば水嶋は……


やめろ俺。



「水嶋さん、起きてください帰りますよ」


「ちょっとエゴちゃん!今起こすのは可哀想だろ。この店の先にホテルがあるから連れ込めば?」

「みんなで?」

「いいな……それ、何か持ってる?」

「エッチなサプリは常備、ローションと……バイブとコックリングに尿道プラグ」

「持ちすぎ、邪道」

「もしもの為だから、チャンスは稀よ」

「エゴちゃんは?何か貸そうか?この人は背面拘束が似合いそう」


帰る。起きるのを待つ事も無い。

肩に担げばちょっとくらいの距離なら移動出来る。


「水嶋さん、行きますよ」


脇に腕を通して無理矢理起こすと座る角度を通り越してダランと伸びた。

仰向けになった身体は張り付いた濡れたシャツが透けてもうほぼ裸……。

ぷつッと立ち上がった乳首と腹筋の下にいる臍まで丸見え。変態共から感嘆の声が上がった。


「おお……」

「ちょっと!見ないでください」

「俺が担ごうか?」

「結構です」


マッチョゴリラなら簡単だろうが水嶋を触らせる訳にはいかない。

不覚にもゴリラ達と一緒に目を吸い寄せられたくらい無防備で……言いたく無いが……


男のくせに……開いた襟から見える胸元が色っぽい


「あられもない格好で……全く…」


「あられもないって……エゴちゃん、その表現……キテるなあ……まあ自覚は無いみたいだけどな、ほらどけよ、俺がタクシーまで運んでやるから」

「いいです、結構です、寄らないでください、見ないでください、店長!水ください」


「バケツでいい?」

「は?コップに入れてください」


店長は「ぶっかけるのか思った」と笑いながら氷の入ったグラスをくれた。

ここは男の集まる場所なのだ、何だかんだとやっぱり体育会系。


「水嶋さん!飲んでください、ここにいたら痴漢されますよ!水嶋さん!起きろ!」


「……さい」


「起きた?水嶋さん!起きて!飲んで!寝るな!」


背の高い丸椅子に座って体を伸ばしたままなのにゴソゴソと寝返りを打とうとする。ユサユサ揺らすと薄っすら目を開けた。


やっぱり睫毛長い。


モニョモニョとはっきりしない呟きは多分「もう飲めない」って言ってる。


「飲みたいって言ってももう飲ませませんよ、飲んでください」

「……どっち……なんだよ……」

「水ですよ、水を飲んでください」


水嶋が細いと言っても力の入ってない身体は重い。腰を入れて持ち上げると今度は横に倒れていく、ゲイの腐った煽りのせいで体が引けていたがもうそんな事を気にする場面じゃ無い。

濡れて冷たい体にしっかりと腕を回し、胸に頭を乗せた。


「ひゅう〜」と飛んできた下手な口笛は気にしない。


「ほら飲んでください」


口元にグラスを持っていくと少しだけ飲んで嫌だと首を振る。


「水……不味い…」


「失礼な。うちの水はアルプスの天然水です」

「店長は黙ってて」

「トイレ……」

「店長!トイレのドア開けて!」


人使いが荒いとブツブツ言いながらも店長はトイレのドアを開けてくれた、が……ゴリラ達の目がキラキラ輝いてる。

付いて来そうで怖いけど水嶋を担ぐだけで手はいっぱいだ、目だけで蹴散らしトイレに放り込んだ。吐くなりう○こするなり勝手にしてくれ。


ドアを閉めて蓋になっていると店長がニコニコしながらお絞りを出していた。


「エゴちゃんは面倒見がいいね」


「エゴちゃんはやめてください、これは仕事のうちです」

「何か面倒くさそうな人で大変そうだな」

「面倒くさいですけどね、あの人はああ見えて仕事は凄いんです。」


ご苦労様、と炭酸の入ったカクテルが出てきた。


グラスにそっと寄り添っているのは……会計伝票。


思わずカウンターにいる店長を見上げると、ニッと姑息な笑みが帰ってきた。





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