第80話:もう我慢しなくていい(モーラEND)



 ロイドは真っ直ぐ伸びる真ん中の道を選んで歩み始めた。


 魔法学院の存在を思い出して、彼の脳裏に“モーラ”の姿が過ったためだった。もしかすると、ティータンズへ向かえば、また彼女に再会できるかもしれない。会って何をしたいかは分からなかったが、それでも会える可能性があるのなら、とりあえず向かってみるのも悪くは無い。



 三日間歩き通し、ロイドは学術都市ティータンズへたどり着いた。


 立派な塔が目印の巨大な魔法学院の学び舎を中心に、数多の研究施設などが集中する聖王国の知の宝庫である。整然とした街並みと、町中に張り巡らされた清水が流れる水路は、都市自体の聡明さを表している。

よって治安は非常に良く、住民の多くが良心的でかなり住みやすい街である。


 正直、この街に冒険者という存在は不要で、仕事があったとしても学術調査を行う学士の護衛か、下水路に潜む低位魔物を狩るぐらいだった。

冒険者がここで一旗揚げるのは無謀であると言わざるを得ない。


 そんな場所だとロイド自身もわかってはいた。しかしそれを承知の上で、彼はここを訪れ今に至る。


(とりあえず、冒険者ギルドで登録変更を行わねばな)


 この街を明日からの拠点とすべく、ロイドは少々退屈には感じるが、穏やかな街並みを、気持ち足早に歩んでゆく。まるでこの街は冒険者という存在を否定するかのように、ギルド集会場もまた街の最奥にあるからだった。


 更に頬を撫でる風が湿っぽかった。

 空にも不穏な灰色の雲が立ち込めている。さすがに到着したばかりで、宿さえない身でずぶぬれになるのはごめんこうむりたかった。


 しかしロイドの願いもむなしく、雲はあっという間にティータンズの空を押さえ、激しく泣きだしてしまった。雨脚は矢のように鋭く、一寸先も霞んでしまう程の激しい豪雨だった。


 ロイドはたまらず手近に酒場の看板をみつけ、迷わず飛び込んでゆく。


「いらっしゃいま……あっ!」


 酒場へ飛び込んだ途端、迎えた女性店員が声を詰まらせた。

 ロイドの視界の中で、黒髪が揺れるのが見え、意図せず心臓が跳ねあがる。


 セミロングに切りそろえられた艶やかな黒髪。

成人なのだが、どこか少し幼い印象が感じられる彼女。

眼鏡は新調したのか、赤いものに代わっている。


「君は……」

「お、おひとり様でよろしいですか?」


 見覚えのあるエプロン姿の黒髪の女性は、ロイドの言葉を遮り、接客を始めた。


「あ、ああ」

「かしこまりました……」


 ロイドと彼女は向き合ったまま、互いに俯く。


「なにぼけっと突っ立ってんだよ!

「早く案内してくれよ! 濡れちまうじゃないか!」


 気が付くと、ロイドの後ろには雨でびしょびしょになっているたくさんの他の客が集っていた。


「す、すみません! 順にご案内いたします! えっと!」

「カウンターで良ければ案内はいらない。構わないか?」

「え、ええ……申し訳ございません」


 彼女の了承を受けて、ロイドは一人店の奥にあるカウンター席へ向かってゆく。先ほどまで店の入り口で佇んでいたロイドが栓だったの如く、雨脚から逃れるためにたくさんの客が怒涛のように押し寄せ始める。


 酒場はすぐに満席となり、黒髪の彼女はてんやわんやと接客に奔走し始めた。


 ロイドの腰かけたカウンター席は生憎店内へ背を向けた格好になってしまう。

それでも店内の、基、店内につめかけたお客にあくせくしつつ、一生懸命働く彼女が気になって仕方が無かった。ロイドはこの店自慢だというカンパーニュをかじりつつ、時折後ろを振り返って、頑張っている彼女の姿を盗み見てしまう。


「おう、兄ちゃん! なにエロい目でモーラちゃんみてんだよ!」


 と、隣で肩を寄せてた見知らぬ男が、酒精を含んだ呼気を噴きかけて来た。


「あの子はモーラというんだな? それは本当なんだな?」


 自分でも驚くほどの鬼気迫る声が出た。ほろよいの隣の男もさすがに気圧されて、僅かに距離を置く。


「お、おう! 先週あたりだっけか? この店で働きだしたみたいでよ。なんでも魔法学院で勉強してんだとよ。で、夜はここでバイトっと。ほんと、魔法って金かかるからえぐいよなぁ」

「そうか……」


 やはり今、この店で働いているのは間違いなくモーラだった。

先日共に魔女と戦い、そしてかつて荒みきっていた彼を刹那の逢瀬で慰めてくれた女性で間違いなかった。


 もっと話がしたい。そんな気持ちがロイドの中で沸き起こる。

いますぐに呼び止めたかった。

しかし今日はどうにも今日は間が悪い。一生懸命働く彼女の邪魔をしたくはない。


(もうここにいるのは分かったんだ)


 もはや高い金を払って高級娼館へ行く必要もなかった。図書館の地下へ潜らなくても良かった。

だって彼女はこうした明るい光の中で、いつもで逢える場所に居てくれるのだから。話はいつでもできるだろうし、会うことだってこれからはたやすい。

 幸い、店の外からの雨音は止み、穏やかな夜の帳が降りている。


 冒険者のロイドにとってはつまらなく、品が良すぎるティータンズという街。ここで冒険者として一旗揚げるなど夢のまた夢。そんな街ではあっても、ここを選んでよかったとロイドは思った。そしてきっと、彼女と紡げるであろう時間はたくさんあるはず。焦る必要はない。ロイドはそう思いつつ、カウンターへ食事代金を置いた。

 更に隣から“モーラ”という名前を教えてくれた男の傍へ、お礼として金貨を一枚置いて席を立つ。


 一瞬、店内を慌ただしく駆け巡っていたモーラがロイドを黒い瞳に写す。

彼はそんなモーラへ会釈を返して、店を出て、雨で潤った夜のティータンズの街へ繰り出してゆく。

 さて、宿はどうしたものか。


「ロ、ロイドさんっ!」


 突然背中から明かりが差し、弾むような声が背中に響いた。ロイドは思わず踵を返す。

するとそこには肩で息をするモーラの姿が。


「も、もう帰られるんですか!? どうして貴方がティータンズにいるんですか!? いつまでここにいらっしゃるんですか!? なにをしにここへいらっしゃたんですか!?」

「お、おいおい、落ち着け。それよりも、なんだ、仕事は良いのか?」

「気にしないでください! 良いから、はやく答えてください!」


 ロイドはアルビオンを出立する前に、お喋りな職員がモーラの行く先をばらしたと語り、今日この街にたどり着き、暫く住もうとしていたと説明する。すると、モーラの表情が明るむ。しかし何かを思い出したのか、再び表情を陰らせた。


「どうかしたか?」

「その……私からの手紙は読みましたか……?」

「手紙? なんの手紙だ?」

「そうですか……」


 不思議とモーラの頬が緩んだような気がしたロイドだった。


「何か重要な手紙だったのか?」

「いえ、読んでいないならそれでも良いです……読んでいらっしゃらないのならそれで……」


 モーラはおずおずと歩み寄ってきた。ふわりと彼女の身体が傾く。モーラの艶やかな黒髪が、ロイドの胸へ飛び込んできた。


「お、おい、いきなりどうした……?」

「もういいですよね。我慢しなくても。もう……」

「?」

「だって、ここの私はモーラですから。ニーナではありませんから……もう借金も返し終わってますから……私はただのモーラでしかありませんから……」


 モーラはロイドを見上げる。艶やかで、深く、そして温かいモーラの黒い瞳。その視線にロイドは引き込ま、胸を高鳴らせる。


「一つだけ聞かせてください」

「なんだ?」

「ここにロイドさんがいらっしゃるということは、もうリンカさんのことは良いんですね?」

「……」


 リンカのことを既に想ってはいない――そうとははっきりと言い切れない彼がいた。しかしもはや彼女(リンカ)と住む世界が隔てられた。彼女のことは諦めようと思った。だからこそ彼女との思い出の詰まったアルビオンを離れて、わざわざティータンズまでやってきた。モーラの影を求めて、この街にまでやってきた。そんな彼女は今、彼の腕の中に居る。


「忘れさせます……」


 複雑な想いが交錯するロイドを、胸の中のモーラが強く抱きすくめ、身を寄せて来た。


「ロイドさん、改めて伝えます。私は貴方のことが大好きです。もうあなた以外に、この身も心も捧げたくはありません。もし貴方が受け入れてくれるなら、私の全てを貴方に差し上げます! そして忘れさせます、貴方が抱えている辛さや悲しみも全部飲みこんで見せます!」


 モーラは改めてロイドを見上げた。


「どうか、これからは私と一緒に居てください。貴方と二人きりで、これからはずっと幸せでいたいです。私を受け取ってください。私を貴方だけのものにしてください。お願いします」


 モーラは瞳を閉じ花びらのような唇を向けてくる。

 何度もこの唇は味わった筈だった。蹂躙にも等しい行為をしたこともあった。

それでも、心は少年のように高鳴り、まるで未知の感触に期待するかのように体が熱い。


「ありがとうモーラ」


 もはや否定する意志は無かった。彼女の熱を、ロイド自身も欲した。


 愛情のしっかり籠った、これからもずっと一緒にいるという誓いのキス。


 少し時間はかかるかもしれない。でもいつかきっとロイドの中にあるリンカの存在は過去となるような気がしてならない。

 ずっと我慢していた、それでもずっと思い続けてくれた、彼女のが傍に居てくれさえすれば――。



●●●



 そして時は3年ほど流れて行く。世の中では未だ、鎚の聖勇者オーキス=メイガ―ビームと魔神皇ライン・オルツタイラーゲとの戦乱が続いている。

しかし平穏なティータンズの集合住宅の一室に住む、とある家族にとっては無縁の話であった。


「それじゃあ行ってくる」


 白銀の軽装に身を包んだロイドは、玄関口で、妻へいつもの挨拶を送った。

胸に輝く“憲兵”の証であるバッチは、ぼんやりと幸せそうな黒髪の愛妻の姿を写している。


「行ってらっしゃい。今日も気を付けてね」

「ああ。だが最近、大魔法使い様が街の結界を強固にして下さったんだ。危険は前よりもずっと減っていると思うから安心してくれ」


 魔法学院のあるティータンズは第三皇子の直轄領で、重要拠点であるため、強固な魔方障壁で守られていた。故に、魔神皇の脅威に晒されている聖王国の中でも、一際安全に暮らせる街になっていたのである。


 更にここ最近では、SSランク魔法使いを改め、“大魔法使いリンカ=ラビアン”が、その力を使って更に障壁を強固なものにしたらしい。


(そろそろあの子も20歳くらいか。元気にやってるかな)


 声を取り戻した陽だまりのような少女は、今世界にために懸命に戦っている。つまり、元気にしているとことだといえた。数年が経ち、あの時、あの場所で、あの子と共に生活をして、そして手放して良かったと今では思える。

 世界にとっても、リンカにとっても、そして愛する妻や、自分自身にとっても最良な結果が今ここにあるように思えて仕方がない。


(頑張れよ、リンカ。俺も憲兵として立派に勤めを果たして見せるからな)


「貴方?」


 妻はやや怪訝な表情で彼の顔を覗き込んでいる。


「ああ、いや、なんでも。サイリスも良い子で待っててくれな」


 ロイドは笑みを浮かべつつ、妻の膨らんだお腹をさすって、二人の愛情の結晶へ挨拶をする。


 そろそろ出産日が近い。産まれてくる子供――“サイリス”が幸せに暮らして行けるよう、憲兵としての仕事に励むと、ロイドは改めて決意する。



 それなりの絶望と、無いに等しい希望――そう思っていたのはもうだいぶ昔のこと。


 相変わらず絶望はそれなりにはある。落ち込むことも多い。


 しかし希望はあった。


 公の勇者になるという幼いころからの夢は潰えた。それでもロイドは確かに勇者となった。


 大事な人を守る“家族の勇者”に。



「もう貴方、最近サイリスのことばっかりなんですから……」


 愛妻は、いじけたように口火を尖らせた。どうやら愛情が、お腹の子供に傾いていることに少し不満があるらしい。


「もうちょっと貴方の愛情を独り占めしたかったですっ」

「う、うむぅ……」


 不意に黒髪がさらりと揺れた。

頬へ柔らかい唇が添えられ、彼の愛妻:モーラは満開の花のような笑顔を浮かべる。

 そして柔らかな声音で、幸せそうにこう伝えてきた。



「幸せをくれてありがとうございます貴方。愛してますよ。これからは貴方と私、そしてサイリスの三人で、いつまでも幸せに暮らして行きましょうね」




 ★モーラEND

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