彼岸へ。
菜美史郎
第1話 プロローグ
この冬は寒さが厳しい。
そのわりに雪があまり降らず、なんだかもの足りない気分だ。
わが地域は、例年一月から二月にかけ、一日や二日は十センチか二十センチくらいの積雪がある。
「あまり雪が降らない年は、米が不作だ」
農業をいとなむ人のほとんどが、そんなふうに言う。
とにかく、日照りつづき。
いざ田植えとなっても、水がなくてはどうにもなるまい。
今どき昔のごとく、水あらそいが起きることなどないだろうが、念のために、今宮神社に詣でてみたくなる。
ある日の昼下がり。
気晴らしがてら、息子とともに見晴らしのいい場所に行ってみることにした。
赤石橋のたもとから川べりに出ると、はるか北方に、青空を背にした日光連山をはっきりと目にすることができた。
空気の冷えた、冬晴れならではの景色。
山肌が黒っぽく、雪をかぶっているのはほんの一部分である。
富士に似た男体山を見ていると、若い頃のことを思い出した。
今から思えば、幼い恋。
しかしそれだけに純粋で、真剣だった。
そんな恋が、半世紀前、あの山のふもとの湖のそばであった。
年がいもなく、胸がきゅっとしめつけられそうになり、わたしはあわてた。
男体山は気の遠くなるほどの時間をかけて誕生したらしい。
今は噴火を休んでいるだけらしい。
ひとりの年寄りの恋の記憶など知りもせぬわ、といった風情で、お山はどっしりとたたずんでいた。
三月二十日、中禅寺湖畔に向かった。
墓地に葬られている義母の姉をたずねるためである。
オフシーズンのいろは坂。
車の渋滞もなく、路面にアイスバーンもなかった。
明智平を過ぎ、長いトンネルに入ると、一種、異様な感覚にとらわれた。
壁面を淡いライトが照らしだす。
まるで巨大な首長りゅうのはらの中を探検している気分になる。
湖が近づいたせいだろうか、急に、長いくだり坂になった。
閉所恐怖のわたしは息がつまりそうになる。
まもなく、墓地に到着。
墓参する人の群れはちらほら。
年配の男女がふたり、それぞれ別の墓地で、掃除を始めようとしていた。
墓地は高い木々におおわれているため、直接、日差しが差し込むことがない。
どの墓地も苔むしていて、じとじとした感じである。
わたしと息子は、懸命に、大量の枯れ葉を両手でとりのぞいた。
時折、胸のあたりがきゅっきゅっと痛む。
持病をかかえての小旅行である。
「しょうがないですわね。この枯れ葉には」
眼鏡をかけた婦人が、わたしたちのそばを通りながら、顔をしかめる。
わたしたちは線香とぼたもちをたむけてから、立ち上がった。
ふたりならんで両手を合わせ、亡きおばの魂が安らであるようにと祈った。
「積雪がこのくらいなら、りゅうずのたき、大丈夫だろうね」
「うん、きっと大丈夫だよ。お父さん、行ってみようよ」
めずらしく、息子がほほえんだ。
いつもより厚着をしているし、ちょっとくらいタイヤが雪ですべっても、と、わたしはあえて龍頭の滝に向かうことにした。
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