第14話 おんせん
さあ、待ちに待った温泉に入れるぞ!
エルシアはウキウキしながらガラス戸を開いた。戸の先には、湯舟いっぱいに溜まった湯が湯気を上げながら待ち構えていた。
いきなり湯舟に突撃するのは良くない。しっかりと体を洗わないといけないな。部屋に置いてあった石鹸を使おう。
ここは温泉。池で体を洗った時と同じやり方でいいはずが無い。それを理解しているので部屋に置いてあった石鹸とネットを使い体を十分洗った後に待ちわびた湯舟へ足を運んだ。
入る前に手を湯に突っ込み温度を探った。温くも熱くもない丁度いい温度だ。温度を確かめ、ゆっくりと足先を沈めていく。湯の温もりが足から伝わってくるのがとても心地良い。多幸感を感じながらいよいよ全身を湯に沈める。全身がくまなく幸福に包み込まれるのが手に取るように分かる。温もりは内部に伝わり次第に体の芯が温かくなっていく。やはり温泉はいい。『極楽極楽』という言葉の意味を改めて体で感じられる。湯舟に浸かり全身の力を抜いてふやけながら、三人で協力して洗った甲斐がある、としみじみ思った。
湯の中に沈みそうになるくらいふやけていると、視線が胸の辺りを覗く体勢になり、またしても思い出してしまった。この紋章は何なのだろうか。なぜ過去の自分はこんな不可思議なモノを体に刻んだのだろう。意味も無くこんな事をするとは思えないし、何かしらの意味や理由があるのだろうか。
胸の紋章を触りながらそれらについて考えていたが、これらに関連した記憶が頑なに思い出すのを拒むかのように全くと言っていい程に何も分からない。
……もしかすると、思い出してはいけない記憶なのかもしれない。例えそれでも、そうだとしても、いつか必ず真相を知りたい。これを知れば自分の事について分かる。そんな気がする。
そうしてしばらく心の中で問答を続けていたが、いくら考えても何も変わらないと思い、思考を放棄しぼーっと湯舟に浸かった。
彼は眠らない程度にぼーっとしながら湯船に浸かっていたが、物音を察知したので一瞬で意識が戻った。
この音は……布が擦れるような音か?……ん?布が擦れる?それってまさか……!
彼は走る。この場で走れば滑る危険があるが、今防がねばそれより恐ろしい事態が待ち構えていると分かっていたのだ。全力でガラス戸まで駆け抜け、頭を強烈にぶつけながらも開けられようとしていた戸を掴み、どうにか事なきを得た。
頭がジンジンするけど間に合ってよかった……。まさか
ガラス戸の先にはぼやけてよく見えないが、確かに誰かが立っていた。戸惑う誰かに事情を説明すると、戸の先に居る者は分かったよよよ、一旦戻るねねねと言って姿が見えなくなった。
ほっと安心した彼は、再び温泉の温もりを楽しんだ。
時を遡り……エルシア達が男湯を掃除している頃。垣根を超えた先の女湯には彼を除く一行が湯に浸かっていた。
「また来たんだねねね。歓迎するよよよ。」
湯舟でとろけているのはカピバラである。
「来ちゃったよよよ~。やっぱり温泉さいこ~。」
サーバルもそれに合わせ言葉を返した。
「脱いで入ると温かいですね。」
そう零したのはスナネコだ。初めて入る温泉に喜びをかみしめているようだ。
「かばんちゃんが教えてくれたんだよ!すごいでしょー!」
「はい。」
「もうちょいのってよ!」
見事なやり取りに皆笑いに包まれた。
「そーいえば、エルシアちゃんはどこに行ったの?」
「隣でお掃除をやるって言ってたよ。」
「へえ!なら頑張れー!って言わなくちゃ!」
湯舟を出たサーバルは、男湯と女湯を隔てる垣根に向かってジャンプした。
「サーバルちゃん!ちょっと待って!そこに何か書いてあるよ!」
かばんの指の先に張り紙に『かきねにのぼらないでください』と記してあった。
「うみゃ?何て書いてあるの?」
「『かきねにのぼらないでください』って書いてあるね。」
「分かった!登らないよ!」
温泉へ足を運ぶ者ならば誰しも暗黙の了解で心得ている事だが、そういった観念がここには残っていなかった。それ故の事態であった。
「かばんちゃん!温泉を出てからここの探検に行こうよ!」
「うん!いいよ!スナネコさんとカピバラさんはどうしますか?」
「ボクは部屋でじっとしてるです。」
「もうしばらく温泉に入りたいからやめとくよよよ。」
かばんは急かすサーバルに連れられ温泉を後にして旅館の探検を始めた。
温泉に入った後はキタキツネとゲームをする約束であったが、肝心のキタキツネがギンギツネに源泉の点検に連れていかれた為そのまま部屋に戻っていた。
キタキツネはまだ帰ってきていないので暇を持て余したエルシアは、リュックサックからペンとノートを取り出し、これまでに得た情報をそこに記した。そうしているうちに日は沈み辺りはすっかり暗くなっていた。
記した情報のチェックをしていた時にある事に気付いた。夜に入る温泉もまた一興あって良いのでは、と。
そうと決まれば善は急げだ。ささっと身支度を済ませ男湯へ向かった。
夜に入る風呂もまた素晴らしい。ここの温泉ならば屋根が付いていないので煌めく星々を視界いっぱいに捉えながら浸かるなんて事が可能だ。果たして、美しい夜空と温もりに包まれた温泉は一体どれだけの幸せを運んで来てくれるだろうか。
そんな事を考えながら軽く鼻歌を歌い男湯へ向かったのだが、脱衣所の籠にある筈の無い物が入っていたので途端に硬直してしまった。
……この茶色いのは服、だよな?それはつまり先客が居る、と。うん。……戻るか。
夜の温泉が彼にもたらした物は、幸福感でも美しい幻想でもなく、えもいわれぬ悲壮感のみであった。部屋に戻る彼の背中からはそこはかとなく虚しさがにじみ出ていた。
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