第三章 アズサ・その6

 アズサが左掌に力をこめた。――ように見えた。それだけである。


「すんません。俺、このあと、どうしたらいいんですかね?」


 ヒロキくんが困った顔で頭をかいた。アズサが目を見開く。さすがに予想外だったらしい。


「なぜ魂を狩れない!?」


「はァ? 俺の魂なんか狩って、どうする気――あァ、寿命がある状態なのに魂を狩れば、魂を狩られた相手は不死者になるから、そのあと、狩った魂を野良犬にでも食わせるって脅迫する気でしたか? で、おとなしく言うことを聞けば、魂を戻してやるって手口だったわけでしょ? それとも、ボタンさんや閻魔姫とは少し違う能力を持っているみたいだし、ひょっとして、不死者じゃなくて、寿命ごと狩りとって、本当の死者にできるとか? だったらあぶなかったなー俺」


「な――なぜそこまで知っている!?」


「だから、俺は閻魔姫の家来なもんでね。しかし、適当に言っただけなのに、大ビンゴだったか。横綱同士の取り組みはそう変わらないって言うけど、死神も閻魔姫も、考えることは大して変わらないようで」


 もっとも、閻魔姫の場合は、結果的に、そうなってしまったというだけなんだが。考えを見抜かれたアズサが青い顔で閻魔姫を見る。


「閻魔姫様! この人間に何を教えたのです!?」


「何って、べつに。やだ、そんなに睨みつけないで――」


「ちょっと、アズサさん、顔が怖いですよ。閻魔姫、怖がってるじゃないですか」


 ヒロキくんがアズサの右腕に手をかけた。何を感じたのか、右腕を触られたアズサが、愕然とヒロキをにらみつける。


「貴様、すでに魂を!!」


「あー気づきましたか。それ正解。俺から魂を狩るのは不可能ですよ。もうねーから」


「なん――だと――」


 死神を驚かせるゾンビなんて、そう見られるものでもないだろう。泡を食った顔のアズサが閻魔姫から手を離した。後方に飛び離れて距離をとりながら右腕を夜空に伸ばす。だが、これもヒロキくんには経験済みであった。


「またブッタ切られたらたまりませんからね」


 言いながらヒロキくんが小走りでアズサに近づいて右腕を押さえた。その右腕に現れたのは大鎌である。これでヒロキくんの首を切り落とす腹だったらしい。事前に阻止され、アズサが愕然とする。右腕に持っていた大鎌はヒロキくんに奪われ、背後にブン投げられた。アスファルトに衝突する派手な音はない。大気に溶けこみ、消えてしまったのである。


「貴様――」


「べつに、そんなに驚かんでも。ま、普通の人間は、死神に狙われたら、一〇〇パーセント助からないからなァ。俺みたいに、死神に魂を狩られるなんて経験を過去にしてて、傾向と対策を心得てる奴なんて、はじめて見ましたか?」


 あたりまえである。いままで、一方的に人間の魂を狩るだけだったアズサの、はじめての動揺。窮鼠猫を噛むという諺があるが、あれをやられた猫の表情であった。


「人間の分際で、よくも――」


「人間だから、なんだって言うんです? 俺だって、いろいろと事情があるもんでね。閻魔姫の家来でいなくちゃいけない以上、命令も聞かなくちゃいけないし。それに、それだけじゃない。実を言うと、俺、あなたに言いたいことがあるんですよ」


「なんだと?」


「こんな小さい女の子の手をとって、無理矢理つれて行こうって、どういうことですか? 一歩間違えたら児童虐待ですよ」


 もう人間と言っていいのかわからないのに、ここで人間の倫理に基づいた台詞を口にするヒロキくんであった。


「自分より力の劣るものは強引に言うことを聞かせてもいい。――ひょっとして、そういうふうに考えていたんじゃないんですか? あるいは、閻魔大王の命令だったら、何をやってもいいとか? そりゃ、子供が悪さしたら叱るべきだけど、この娘は何もしていないでしょうが。それに、無駄に心配をさせたりもしてないはずです。ボタンさんがお付きで一緒にいるんだし。ま、いまは席を外してるけど、代わりに俺もいますから。言っておくけど、俺はいい人間のふりをした人さらいなんかじゃありません。ガチで姫の家来やってるんですよ。で、保証します。この娘は、無理矢理腕をつかまれて連行されるような真似はしてません。ちっとばかし、ヤバいことをやったりはしましたけどね。それでも、でかい声で叱りつければいい程度でした」


「な――」


「大体、親父さんの閻魔大王だって、言ってることおかしいでしょうが。娘に跡を継がさないとか。いまは地獄界にだってスマホがあンのに、時代錯誤もいいとこですよ。娘に帰ってきて欲しかったら、跡を継いでもいいように閻魔大王に言っておくべきですね」


「貴様、誰にものを言ってるのか、わかってるのか」


「あんただよ、あんた。悪いけど、俺、姫の腕をつかんでつれて行こうとしたあんたを見て、ちっと腹を立ててるんだ」


「だったらなんだと言うんだ? 貴様のような人間が、私に何をできる――キャァ!!」


 見ていた閻魔姫が小首をかしげた。自分に背中をむけていたヒロキくんがアズサに何をしたのか、わからなかったのである。


 ただ、効果はてき面だった。アズサが赤い顔でヒロキくんから距離をとる。ヒロキくんにむける瞳は鬼女と見まがうばかりであった。


「なんということを――」


「今日はこの程度で許してやるから、消えな」


「ふざけるな」


「じゃ、もっとやられたいのか? アズサさん、いい度胸してるねー。そういえば、ドキョウのキョウって、ムネって書くんだっけ?」


 恥辱と怒りに染まった顔で、無言のままアズサが手を振った。次の瞬間、その姿が消える。ヒロキくんがほっとため息をついた。こっちはこっちで余裕の表情だったが、実際はギリギリの博打だったらしい。


「ヒロキ、すごいわね!」


 感心した顔で閻魔姫が駆け寄ってきた。興奮して顔が上気している。


「死神を追っ払える人間なんて、はじめて見たわ! どうやったの?」


「いや、ま、なァに。特別な方法があってな。『アジャラカモクレン、アルジェリア、テケレッツのパー』って奴さ」


「何それ?」


「死神を追っ払う魔法の呪文だよ」


「へェ。今度、私もやってみよっと」


「信じるな信じるな。いまのは落語のネタだ。通用するわけねーから」


「じゃ、どうやってアズサを追い払ったの?」


「ちょっと気合を入れて睨みつけてやったんだよ。わはは」


 頭をかいてごまかすヒロキくんであった。当然である。本当はアズサのオッパイ鷲づかみにするセクハラ作戦で追っ払ったなんて、言えるわけがなかった。

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