第253話人を信じる心

 北野大茶湯は京の北野天満宮で行なわれる。

 秀吉が所有する名物も公開されると聞いた。

 名物に興味がないわけではないが、虚栄心が過ぎるんじゃないかなと思う。

 茶器は何でも良いので参加したい者は誰でも参加できるようだ。

 十日間行なわれる。派手すぎな秀吉らしい開催期間だ。


「お前さま。参加なされますか?」

「どうだろう。体調が良ければ冷やかしで参加してもいいね」


 はるが僕の身体を拭く。もう自分では身体の面倒を見れなくなった。


「そういえば、千宗易殿から手紙が来ましたよ」

「お師匠さまから?」


 僕ははるに手紙を読んでもらった。

 なんでも僕に紹介したい人が居るらしい。

 奇妙で偏屈な人だけど、生きているうちに会うべきだと強く書かれていた。

 僕は了承する旨をはるに代筆してもらって返事を送った。




 北野大茶湯が開催される十日前。

 僕はお師匠さまに紹介された人物に茶を点ててもらっていた。


「田中の弟子よ。お前さんは茶の湯は好きか?」


 奇妙な老人だった。表情が柔和なで顔が皺だらけ以外、特筆すべきところのない平凡な外見をしているのに、どうしてか奇妙に見える。着ている服装も使っている茶道具も普通なのに――中身が奇想天外なのだ。

 言ってみれば湯飲みの中身が茶や水ではなく、濁り酒だったような――いや、茶人に対してこのようなたとえは適当ではない。

 たとえようもないのだ。こんな人は出会ったことがない。まさに奇人と言えるだろう。


「田中の弟子。聞いておるのか?」

「あ、ああ。すみません」


 奇人に注意された――しかしどうでも良いらしく「まあ飲め」と何の衒いも気負いもなく、目の前に出されたのは、何の変哲のない茶碗。

 一口含む。軽いお茶だった。僕の今の体調を考えたであろう軽さだった。

 いや、先ほどから出された懐石も少なめに作られていて、無理なく食べられた。

 これがこの奇人のもてなしだろうか。


「死にかけのお前さんに茶を振舞ってくれと、田中に頼まれたが、なかなか素直な男だな」

「素直、ですか?」

「それゆえの面白さもある。もしもお前さんに創意工夫の妙があれば、良き物を遺せたであろうな」


 奇人は胡坐をかいてのんびりとした口調で言う。


「どうして田中がわしに頼んだのか。少しだけ分かる気がする」

「僕には、全然分かりません」

「だろうな。お前さんには分からんよ」


 小馬鹿するような口調だったけど、すっと納得できた。

 確かに、僕には分からなかったから。

 どうして、目の前の奇人――丿貫(へちかん)殿を紹介されたのか、僕には分からない。




 丿貫――丿とは欠けた『人』という文字。つまり人でないことを貫くという意味らしい。

 名前からして奇妙である。そんな彼が僕の屋敷に赴いて、寝巻きのままの僕に茶を振舞っている。はるや雹はこの場には居ない。一座建立の場にしたいと丿貫殿に言われたからだ。


「曲直瀬の兄さんからも話は聞いていた」


 信じがたいことに茶釜で粥を作り始めた丿貫殿。

 囲炉裏に吊るされた、使い込まれた茶釜はぐつぐつと音を立てて、粥は良い匂いを放つ。


「曲直瀬……道三さんの知り合いですか?」

「知り合いというより、親戚だな。まあ過去の話だ」


 過去の話……気になったけど、話したくないみたいだったので、何も追及しなかった。


「曲直瀬の兄さんは、お前さんを救えないことを悔やんでいた。田中も苦しみを癒してやれないことを嘆いていた」

「その気持ちだけで、十分です」

「まあいくらお前さんが気張ったところで、もう永くないのだろう」


 言いにくいことをずばずばという丿貫殿に思わず笑ってしまった。

 腫れ物のように扱われるより、こちらのほうが心地良い。

 これもまた、もてなしなのだろうか。


「お前さんは――まだ生きたいのか?」


 茶釜の粥を柄杓で掬って、茶碗の中に入れて僕の前に置く。

 小さな匙も置かれたので、僕はそれらを手に取って食べた。

 ……美味しい。


「生きられるのなら、生きたいです」

「そうだろうな。苦しくても生きられるのなら生きたいのが本性よ」

「でも、一方で諦めている自分も居ます」


 丿貫殿は自分の分の粥をよそいながら「それもまた人だな」と言う。


「生きたい気持ちと諦めてしまう気持ち。二つが重なって、伽藍締めになって。どれが本当なのか、分からなくなりました」

「…………」

「丿貫殿。僕は――どういう気持ちで残りの人生を過ごしたらいいのでしょうか?」


 丿貫殿なら答えを示してくれるかもしれない。

 そう期待したけど――


「知らん。そんなことは自分で考えろ」


 あっさりと見放されてしまった。


「…………」

「わしはお前さんではない。お前さんの気持ちなど分かるものか」


 丿貫殿は自分の粥を食べて、それから持論を展開し始めた。


「人は固有の世界や価値観を持っている。それゆえ真に分かり合うことなどない」

「…………」


 僕は反論したかったけど、言葉が出なかった。

 どこかで信じてしまった自分が居たから。


「茶の湯は分かり合うことができぬ人を分かり合わせるまやかしよ」

「ま、まやかし……」

「幻想と言い換えても良いな。心は見えぬもの。聞こえぬもの。感じることができぬもの。だからこそ、茶の湯で心を解きほぐす必要がある」


 僕は「それでは、茶の湯は幻想に過ぎないと言うのですか?」と問う。


「ああ。そもそも土くれでできた器が莫大な価値を産むこと自体、幻想に思えぬか?」

「それは――」

「人が他人の心を理解しようなど、おこがましいにも程がある」


 丿貫殿は柔らかな表情で厳しいことを言う。

 対して僕は遠慮がちに反論を試みた。


「人は、人の心を完全に、完璧に理解はできないですけど、心の一端に触れることはできると思います」

「ほう」

「たとえば茶の湯で一座建立を求めるのは、人の心を触れるためではないのですか?」


 丿貫殿は「それは正しい」と言う。てっきり否定されると思っていたので、拍子抜けした気分だった。


「少しでも人の心を触れようと試みる。その行ないは下劣と取るか、崇高と取るか。これもまた人によって違うだろう。だが真に理解し合えないのは変わりない」

「どうして、そこまで頑ななんですか?」

「では、はっきりと言おう――人を見るとき、自分の感情によって見方が変わることはないか?」


 いわゆる主観によって変わるということだろう。


「男が女を見る。女が男を見る。たった二つの立場で大きく変わる。ましてや年齢や思想によっても」

「…………」

「先ほど、お前さんは触れられると言ったが、それはお前さんの幻想だ」


 僕はようやく、丿貫殿が『丿』を貫こうとする理由が分かった。

 要は人を理解できない悲しさ、虚しさから名乗っているのだ。

 完全に分かり合えないと悟ったから――人でないことを貫こうとしているのだ。


「……それでも僕は、信じたいです」


 理路整然と説かれても、僕にも譲れないものがあった。


「人は人を理解できる。互いに思いやることもできると」


 思い浮かんだのは亡くなった上様のことだった。

 否定しなければ、上様があまりにも哀れだから。

 上様は人を理解しようとした。

 家臣や子ども、親族に畏れられながらも、彼らを信じようとしてた。

 出自の分からない僕を理解しようとしてくれた。


「死にゆく身でも、それだけは――信じたい」


 丿貫殿は僕をまじまじと見つめて――


「田中の弟子としては出来すぎだ」


 にっこりと微笑んだ。


「最期の最後まで、人を信じろ。それがお前さんにできる最期の過ごし方だよ」


 今までの話は僕に答えを出させるためだったのか。

 食えない奇人だなと僕も笑った。




 京で行なわれる北野大茶湯には参加できなかった。

 容態が悪化したからだ。

 秀吉には知らせるなとはるに言った。

 覚悟はもう既に決めていた。

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