第204話変事の後で

 上様が本能寺にて、明智さまに討たれた――

 その知らせを聞いた秀吉は信じなかった。

 秀長さんは自分に冷静さを強いた。正勝は何も考えられない様子だった。長政は自身の義兄を失ったことで錯乱した。官兵衛は笑みを消して何かを考えていた。

 僕は――現実を受け入れらないで居た。

 上様が死ぬはずないと思っていた。桶狭間や長篠の戦いに勝ってきた、信玄や謙信が病死する幸運に恵まれてきた上様が、こんなにあっさりと死ぬなんて――


「明智、光秀……!」


 秀吉の声――全員がゾッとする。

 怨嗟を込めた声。憤怒の表情。

 いつもの秀吉と違っていた。


「許せぬ……収まりがつかん……日向守……!」


 秀吉になんて声をかければいいのか、分からない。

 上様を慕っていたのは、昔から知っている。言葉に出さなかったけど、長年仕えていたことからも分かる。秀吉は仕えるに値しない人間には決して下につかなかった。


「ああ。許せないよな。当然だぜ」


 官兵衛が杖を突きながら、秀吉の前に来て、囁いた。


「だけどよ。これは好機だぜ? やっと運が巡ってきたな」


 その言葉の真意が分からなかった。

 正勝が「て、てめえ、何言ってやがる?」と恐ろしいものを見るように問う。


「一番に知らせを受け取ったときから、俺は今後のこと考えていた。そう考えると好機なんだよ」

「だから、何を言って――」

「今、明智光秀を討てば、天下は羽柴秀吉殿のものとなる」


 正勝の言葉を遮って、官兵衛はにやにや笑いながら言う。


「京に上って逆賊明智を討てば日の本の声望は殿に集まる。文には信忠さまも討たれたと書かれている。後継者の次男の信雄さまと三男の信孝さまは天下を治める器ではない。だから、今もっとも天下人に近いのは、あんただぜ?」


 秀吉の顔から血の気が引いた。

 怒りのあまり何も言えなくなった――


「ふざけるな!」


 秀長さんを振り払い、官兵衛の胸ぐらを掴んだ長政は喚き散らした。


「どうして、そんな無慈悲で無情なことが言える! 殿が敬愛した義兄が死んだのだぞ!」

「……手を放せよ」

「貴様には血がかよっていないのか!?」


 しばらく官兵衛は長政を見つめて、それから「俺はなあ! 半兵衛さんに殿を託されたんだよ!」と怒鳴った。


「半兵衛さんから殿を頼んだと言われたんだよ! 俺の息子を助けてくれた大恩人から、最期の頼みで託されたんだ! その殿が天下を取れる好機を目前にして、慈悲や情で流されるような真似はしたくねえ!」

「貴様……!」


 長政が官兵衛を殴ろうとする――僕はその手を掴んだ。


「く、雲之介! 何をする!?」

「僕は官兵衛の言っていることは一理あると思う」


 長政は「血迷ったのか!?」と大声で叫ぶ。


「落ち着け。それから秀吉も聞いてくれ」


 僕は秀吉の前に立つ。

 いろいろありすぎて混乱して、何に怒ればいいのか分からない秀吉と目を合わせる。


「秀吉。僕は好機とは言わないけど、一つだけ確信していることがある」

「……なんだ?」

「上様の遺志を継げるのは、秀吉しかいないと思う」


 秀吉はハッとして僕の顔を見た。


「官兵衛の言うとおり、後継者のご子息は信忠さまを除いて天下を治める器量じゃないし、他の武将も度量がない」

「……雲之介」

「だから、ここで自害しないで、上様の遺志を継ぐことを選んでくれ」


 僕の言葉に秀長さんは「兄者が自害……?」と不思議そうな顔をした。

 でも秀吉は「やはりお見通しなのだな」と疲れたように笑った。


「長い付き合いだからな。上様の後を追うつもりだったんだろ?」

「……わしでは明智を討つことは叶わん。そう思ったからな」


 秀吉はその場に座り込んだ。


「畿内の武将に根回ししているに決まっている。兵力もかなりあるだろう。今更、備中国から最速で姫路城に戻っても、兵は疲れ切っている……」

「諦めるなよ。そりゃあ秀吉だけじゃ討てないだろう。でもな、僕たちが居るじゃないか」


 秀吉の両肩に手を置く。目と目を合わせる。


「秀長さんと正勝、長政と官兵衛、そして僕。若い将も居るし宇喜多家の軍勢もある。勝ち目がないわけじゃない。そうだろ、官兵衛」

「ああ。十二分に勝てるさ。うけけ」


 僕は秀吉に「一人で無理なら、皆に助けてもらおう」と笑いかけた。


「大丈夫。絶対に大丈夫だ」


 秀吉はしばらく黙って、それから皆に言う。


「わしに力を貸してくれるか?」


 真っ先に頷いたのは正勝だった。


「墨俣のときから、俺はあんたに賭けてるんだ。兄弟と同じ思いだぜ」


 次に秀長さんは言う。


「兄者はいつも無茶ばかりする。支える身にもなってほしい」

「秀長……」

「……まあここで見捨てられないからな。支えてやる」


 そして長政が秀吉に言う。


「義兄の仇を討ってくれるのなら協力する。だから立ち上がってくれ」


 最後に官兵衛は言った。


「俺は口が悪いからはっきり言ってしまったけどよ。あんたなら天下人に相応しい。明智なんかに天下を取らせるな」


 秀吉は一人一人の顔をじっと見つめて、それから頷いた。


「分かった。皆の気持ち、痛いほど身に染みた」


 秀吉は立ち上がった。僕の手を借りずに、一人で立ち上がった。


「わしは、上様の遺志を継ぐ。明智を討つ!」


 秀吉が天下統一を目指した瞬間だった――




 すぐに安国寺恵瓊を呼び出し、上様の死を隠したまま、交渉を始めることにした。

 条件は備中、美作、伯耆の三か国の割譲と清水宗治と城兵の助命に変更した。時間が惜しいので、毛利家が頷きやすい条件となった。助命は僕の考えで、もし切腹となったら見届ける時間が必要で、その分時間を失うのを恐れたからだ。


 恵瓊は最初、不審に思っていたようで交渉していた正勝と官兵衛は内心ひやひやしていたが、結局は譲歩が効いたのか、あっさりと認められることとなった。

 急いで誓紙を用意し、取り交わして、和睦が成立すると急いで撤退準備を行なった。


 既に秀晴や家臣にも上様が討たれたことを伝えてある。各々衝撃を受けたが、それでも従ってくれると約束してくれた。得がたい家臣を持ったものである。


「撤退の準備は整ったよ」


 水上の高松城を見つめている秀吉に声をかけた。

 秀吉は「この光景を上様に見てもらいたかったなあ」と呟く。


「雲之介。おぬしの言葉で、ようやっと決心が着いた」

「……それは何よりだ」

「やはり、おぬしが居らぬとわしは駄目なようだ」


 秀吉は僕の横を通って歩き出す。


「これからも、わしの家臣として付き従ってくれ」


 僕は答えるまでもなかったが、敢えて言葉に出す。


「雨竜雲之介秀昭、その命、承ったよ」


 秀吉の後ろを歩いていると「大変だ、兄者!」と秀長さんがこちらに駆けてくる。


「どうした、何があった?」

「人質の交換の刻限になっても、送られてこない。官兵衛がそれとなく探りを入れたが――」


 そこで秀長さんは一呼吸おいてから喚いた。


「明智の密偵が、毛利家に上様が死んだことを、話したらしい!」

「な、なんだと!?」

「小早川殿と吉川殿が意見を割って話し合っているが、どうも吉川の兵が追撃してくるらしい!」


 秀吉は「すぐに全員を集めろ!」と言う。

 これは不味いことになった……




 若い将も含めた本陣で、どうするべきかの話し合いが行なわれた。


「吉川の兵は二万だろ! こっちは三万居るんだ。倒してしまえばいい!」

「正勝、それだと明智を討つ兵が足らなくなるぞ!」


 秀長さんの言うとおりだ。

 明智を討つためには兵が必要だが、食い止めるにも兵が必要だ。


「もはや刻限はない。毛利家に三か国を返す条件で――」

「追撃しない保証はないぞ――」


 議論がされる中、僕は秀吉を見た。

 じっと目を瞑っている。

 そのとき、僕は思いついた。

 こうするしかない方法を。

 これなら明智を討てる方法を。


「秀吉。僕に五千の兵をくれ」


 大きな声ではないのに、皆は黙ってしまった。

 秀吉は驚いたように目を見開いた。


「お、おぬし、何を言っているのだ?」

「明智と戦うのに、秀長さん、正勝、長政、官兵衛は必要。若い将では経験不足。となると僕しかいないだろ」


 そう告げてから、僕は笑った。


「洞窟で出会ったときから、今まで世話になった。それ以上に恩を受けた」

「だから、何を――」

「本当にありがとう。今まで楽しかった」


 秀吉は「や、やめろ……」とまるで子どものように泣いた。


「そ、そんな今わの際のようなことを、言うな!」

「しんがりは、僕が務める」


 僕はにっこりと笑った。


「死んでも吉川軍を先に進めない。だからさっさと撤退してくれ」

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