第203話高転びして仰向けに転ぶ

 水攻めを成し遂げた数日後、毛利家の援軍が備中高松城付近に来たと知らされた。

 総勢五万の軍勢。総大将は吉川元春と小早川隆景の両川と評される名将である。

 だけどもはやどうすることもできまい。堤を切らない限り高松城を救う手立てなどないし、船で城兵を助け出すことも僕たち羽柴の軍勢がさせないだろう。高松城が篭城に耐え切れないことは一目瞭然だ。


 ここで毛利家には二つの方法が残されていた。

 それは徹底抗戦か和睦だった。


 五万の軍勢が決死の覚悟で堤を切りに攻めかかれば、万が一で成功するかもしれない。

 だが強固に作った堤を壊すのは至難の技であるし、三万の羽柴軍を倒さないとより難しいだろう。


 もう一つの道は和睦だが、僕たちは毛利家がそれを選ぶことは分かりきっていた。だから当然厳しい要求をする。ちょうど上様の軍勢が到着する頃合でもあるし、八割方要求は飲むに決まっている。


 さて。僕たちが毛利家の様子を伺いつつ、向こうの出方を待っていると、一人の外交僧が本陣にやってきた。

 毛利家の人間で、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という。僕は初めて会うが、噂は前から聞いていた。優秀な外交僧であり、毛利家の外交を担当する者。

 そしてこんな予言をしている。


『信長は高転びして、あおむけに転ぶだろう』


 何ともふざけた予言だ。もし『秀吉はなかなかの人物である』と言わなければ許さないところだった。

 その安国寺恵瓊は神妙な顔で僕の目の前に座っている。

 どうも徳の高い僧侶に見えない。顕如や頼廉のほうが立派に見える。一言で表すならばうさんくさかった。ぎょろりとした目。えらが張っている。口元は軽い笑み。詐欺師のような印象を受ける。


「どうも恵瓊殿。さっそくだが降伏の話をしよう」


 秀吉がさっそく先制攻撃をした。和睦ではなく降伏という言葉を使ったのだ。

 恵瓊は「そんな厳しいことを言わんでください」とにこやかに言う。


「和睦の話を拙僧はしに来たんですよ。そちらの条件を聞いて、その折衝が役割なので」

「ふうん。まあいい。条件だが――官兵衛」


 傍に控えていた官兵衛が「うひひひ。これが条件だ」と紙に書いた条件を読む。


「五国――備中、備後、美作、伯耆、出雲の割譲と城主清水宗治の切腹だ。これは絶対に飲んでもらう」


 恵瓊は「それはひどい」と小さく零した。


「五国の割譲など……毛利家の全領土の半分ではないですか。しかも清水殿の切腹は……」

「ここまで手間取らせた清水の罪は重い。これが聞けぬのであれば……どうなるか分かるな?」


 秀吉の脅しめいた言葉に恵瓊はしばらく黙って「拙僧の判断では了承しかねます」と慎重に答えた。


「吉川殿と小早川殿に条件をお伝えいたします」

「そうか。しかし絶対に条件は変えぬ。そう覚悟なされよ」


 恵瓊は平伏し「分かり申した」と言った。

 そして秀吉の顔をまじまじと見る。


「……何か?」

「いえ……奇相が見えますね」

「きそう?」

「不思議なことがあるものです。それでは」


 恵瓊の意味深な言葉に煙を巻かれた感じで、交渉は一度打ち切られた。

 恵瓊が去った後で「清水宗治の切腹は重くないか?」と問う。


「強気なのを見せるのはいいけど……」

「兄弟。お前も甘いな」


 僕の隣に居た正勝は「交渉の基本だぜ」と言う。


「そこは落としどころだ。こっちが清水の切腹を取り下げれば、領土の割譲が通りやすいだろう?」

「……ああ、そうか」

「香具師や詐欺師の常套手段だ」


 正勝の説明に秀吉は満足そうに頷いた。


「これで毛利家も降伏するだろうな」


 すると秀長さんは「もし丸々こちらの条件を飲んだ場合はどうする?」と訊ねた。


「それならそれで構わぬ。清水殿には立派な最期を迎えさせてやろう」


 秀吉はあっさりと答えた。

 結構な悪人である。




 それからしばらくして、堀秀政殿が軍監としてやってきた。

 秀吉と親しい彼は各地の戦況を僕たちに話した。


 北陸では柴田勝家さまが上杉家を攻めており、降伏寸前にまで追い詰めている。

 関東では滝川一益さまが北条家を従わせて、諸大名を従わせている。

 四国は丹羽長秀さまと上様の三男の織田信孝さまが長宗我部家を攻める準備をしている。

 畿内は明智光秀さまと長岡藤孝さま、そして松永久秀によってまとまっている。

 ちょうどこのとき、東海の覇者である徳川家が京や堺の見物に来ており、その接待役が終わったので、堀殿は上様の命で来たという。


「あと少しで太平の世が訪れるのだな」


 秀吉は感慨深そうだった。僕もなんというか、感無量だった。

 しばらく何もなさそうだったので、僕は家臣の居る小屋に向かった。

 そこには雪隆くん、島、頼廉、秀晴となつめの代わりに忍び頭に任命した丈吉が居た。


「もうすぐ戦が終わる。いや、この戦だけではない。日の本から戦が無くなるんだ」


 僕がそう語ると雪隆くんは「それでは書類仕事をするだけになるな」と複雑な顔をした。


「身体がなまってしまう」

「戦が無くなっても、武士は無くならないですよ。雪隆さん」


 秀晴が鋭いことを言う。


「公家だってそうでしょう? だからなまることはないですよ」

「まあ山賊や野盗が無くなるわけではないか」


 雪隆くんの言葉に島は「それにまだ決着がついていないだろ」と揶揄した。


「森長可との決着がついていない」

「……ああそうだった。まだやることがあるな」


 頼廉は「武家の方々は血の気が多いですね」と苦笑いした。


「丈吉さんはいかがなさりますか?」


 頼廉の問いに丈吉は「できることなら、雨竜さまに仕え続けたいです」と嬉しいことを言った。


「我ら忍びの者をこんなにも丁寧に扱ってくださるところは少ないですから」

「父さまはお優しいからなあ」


 棘のある言い方をする秀晴に「そうだな」と言う。


「僕は優しいから、今度酒を皆に奢るとしよう」

「いや、それだけは勘弁してくれ。あんたいつも潰れるまで勧めるじゃないか」


 軽い冗談で言ったつもりが、皆引いていた。

 秀晴は僕に似て酒が強いので、何とも思わないようだが……


「皆が弱いだけだ。なあ秀晴」

「そうですね。情けない」

「殿と若は化け物だ……」


 島が震える声で言ったとき、奥の扉から「失礼します」と声がかかった。

 多分、兵からだろう。


「どうした?」

「至急、本陣に向かうようにと、黒田さまから言伝が」


 官兵衛から? 何かあったのか……?


「ああ分かった。すぐに行く」


 そう返事をして立ち上がった。


「まさか毛利家が攻撃仕掛けてきたのか?」

「それこそまさかだ。もっと慌てて報告してくるだろ」


 雪隆くんと島の会話を聞いて、まあそのとおりだなと思った。


「きっと和睦についてだろう。すぐに戻るよ」

「お気をつけて、父さま」


 秀晴は何故かお気をつけてと言った。後で問うと自分でもどうしてそんな風に言ったのか分からないと答えた。


 雨がしとしと降る中、本陣に行くと秀吉と秀長さん、そして長政が座っていた。


「うん? どうした雲之介?」


 不思議そうな秀吉に僕は「官兵衛に呼ばれたんだけど」と答えた。


「三人ともそうじゃないのか?」

「いや。拙者たちはずっとここに居た」


 長政がそう答えた――扉が開く。

 見ると官兵衛が無表情で立っていた。

 笑いもせずに、無表情のまま、手に文を握り締めていた。


「……官兵衛? どうしたんだ?」


 あまりに異様な雰囲気に、秀吉は軽く笑いながら言う。


「人払いしてくれ」

「あ、ああ。そこの者、下がっていいぞ」


 中に居た小姓や兵が下がる。


「……何か不味いことでもあったのか?」


 秀長さんの問いに答えず、官兵衛は握っていた文を秀吉に手渡す。


「密書だ。京の長谷川宋仁殿からの。読んでくれ」

「……京からだと?」


 秀吉は何気なくその文を開いて――顔を強張らせた。

 今まで見たことのない顔をしていた。


「……秀長。読め。声に出さずに」

「あ、ああ。分かった」


 秀吉が震える声と手で秀長さんに渡す。


「――っ!? これは……」

「……ははっ。驚いた……ま、まったく、よくできた、虚報だな」


 虚報? 僕は文の内容が気になった。

 秀長さんは次に長政に渡した。


「ば、馬鹿な!? 義兄上が!?」


 動揺する長政。

 何が……あったんだ……?


「殿。確かに長谷川殿の使者だった」

「…………」

「何度も確認した。だが、そこに書かれているのは真実だ」


 僕は長政から文を奪い取った。

 嫌な予感が胸をよぎった――そして的中する。


「ま、まことなのか?」


 秀吉が縋るように念を押す。


 僕は受け入れがたい真実を目の当たりにする。


「嘘だ! そんなこと、ありえない!」


 長政が喚いている。


「落ち着け! 長政殿!」


 秀長さんが押さえつける。


「――殿! 大変だ!」


 がらりと扉が開いて、正勝が入ってくる。

 そうだ。正勝にも知らせないと。


「今、明智光秀の、毛利家への使者を捕らえた……暗がりで陣を間違えたようだ」


 ああ、その先を言わないでくれ!


「正勝殿。みんな知っているが、改めて報告してくれ」


 官兵衛の無慈悲な声。

 正勝は外に聞こえないように、静かに言う。


「捕らえた使者が言うには、明智光秀が、上様を討った……!」


 外の雨が一層強くなった。

 まるで天が嘆き悲しみ、暴れ回っているようだった――

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