第138話戦の本質

 武田軍が川を渡り、有海原に進軍した――その知らせにより織田家と徳川家の諸将は集まり、極楽寺山の陣中で軍議が開かれた。


 僕も参加するのだけれど、集まった将たちは全員緊張していた。戦国最強と謳われた武田家が相手なのだ。仕方ないことだが、将の不安は兵士たちにも伝わる。

 上座に座る上様と徳川さまも思いのほか険しい顔をしている。

 何とかせねば――


「おうおう、皆々方。一様に暗い顔をしているな。ここは葬儀の場ではないのですぞ」


 おどけるように言ったのは、徳川家の筆頭家老、酒井忠次さまだ。

 このような状況なのに――笑っている。


「酒井殿。武田相手に明るい顔などできぬ」


 やや緊張ぎみの柴田さまがそう返す。織田家の武将たちも同じ気持ちらしく頷いている。

 しかし酒井さまは「笑いなされ」と鎧を脱ぎながら薦めた。


「人間、あっさりと死ぬがな。それでも笑うことで生きようと思うのだ」

「それは分かるが――何をなさっている?」


 柴田さまが困惑するのも無理はない。酒井さまが上半身裸になり、頭に手拭を付けて、皆の前に出てきたのだから。


「皆をほぐすために、私が海老すくいを踊ろうというのだよ!」


 そう言って不思議な腰つきをした踊りをし始める酒井さま。

 唖然とする織田家を半ば無視するように、徳川家の将は合いの手を入れる。


『葵の紋に 一途に仕え 歌うのみよ 海老すくい オーイオイオイ!』


 なんという腰さばき! そして滑稽な動きと顔!


「ふふふふ……あははははは!」


 思わず笑ってしまった僕につられて、他の将も笑い出す。

 険しい顔をしていた上様の表情も和らいでいる。

 徳川さまはしてやったりという顔をしている。


「ふう。どうですかな? 少しはほぐれましたか?


 酒井さまは海老すくいを踊り終え、そしてそのまま上様と徳川さまに進言をする。


「我が殿。そして織田さま。拙者に策がございます」

「……申してみよ」


 酒井さまは「鳶ヶ巣山砦への奇襲を進言いたします」と言う。


「武田軍の後方の守りを固めており、また退路を守っている鳶ヶ巣山砦を落とせば、我らが勝利は確実かと存じます」


 軍略に疎い僕でも素晴らしい策だと思う。問題は砦まで辿り着く前に山越えをしなければならない点だが……


「このうつけが! 余計なことを言うな!」


 しかし上様は頭ごなしに酒井さまを怒鳴りつけた。

 諸将がざわめく中、大声で叱りつける。


「我らは大軍ぞ! そのような小細工せんでも勝てるわ!」

「し、しかし――」

「不愉快だ! 消え失せろ! 他の者も下がれ!」


 虫の居所が悪かったのか、一方的に叱責して、僕たちを退出させた。

 僕は一緒に参加していた秀吉と半兵衛さんに「どういうことだろう?」と話す。


「機嫌悪かったのかなあ」

「ふふふ。おぬしは素直だなあ、雲之介よ」


 秀吉は僕にこっそりと耳打ちした。


「間者が潜んでいるかもしれぬから、わざとわしたちのいる前で策を否定したのよ。大声でな」

「えっ? じゃあということは……」

「策は採用されるわ。そこまで頑迷なお人じゃないでしょ? 上様は」


 半兵衛さんはしたり顔で説明する。

 なんだ、分かっていなかったのは、僕だけか……


「まあ他にも騙されている者も居るかもしれぬがな。それより雲之介、火薬や弾丸の準備は滞りないか?」

「うん。大丈夫だ。でも心配なのは天気かな」


 空を見上げるとあまり良いとは言えない雲行きだった。


「こう言ってはいかんが、上様は雨に好かれておるからな。桶狭間のときもそうだった」

「ああ、そういえば……」

「ま、なんとかなるだろう。ここまで上様はいろいろ策は練っていたからな」


 僕たちは自分の陣地に戻ってきた。

 秀長さん、正勝、長政は陣の中で座って僕たちを待っていた。


「それで、どうだったんだい?」


 秀長さんが軍議について訊ねてきたので、素直に言う。


「酒井さまが踊って策を進言したら上様に叱られました」

「……そりゃあ誰だって怒ると思うけど」

「雲之介ちゃん? 言葉が足りないわよ?」


 半兵衛さんがきちんと説明すると「俺らはその奇襲に参加しなくていいのか?」と正勝が言う。


「酒井さまなら上手くやると思うわ」

「いや、いきなり踊り出す人間を俺はあまり信用できねえ」


 正勝の言うとおりだけど、逆にあの踊りで皆の緊張が解れたのだから、尊敬に値すると思うけどなあ。


「主命がない以上、自分たちの持ち場を守って、敵を打ち倒すのが、あたしたちの仕事よ」

「……半兵衛殿。拙者たちは武田を倒せるのだろうか?」


 不安とも疑問とも取れる言葉を長政は言う。

 それに答えたのは、秀吉だった。


「わしが思うに、戦とは目の前の合戦が全てではないのだ」

「……? どういう意味ですか?」

「この戦に至るまで、どのような準備をしてきたのか。そこまでが戦なのだ」


 皆、あまりよく分かっていないようだった。だけど僕には何となく分かる気がした。

 要は戦は人を殺すためではなく、いかに相手を屈服させるかの一手段に過ぎないのだ。だからこそ、そのための準備は必要不可欠だし、それ自体が戦であるとも言える。

 伊勢長島で僕はそれを学んだ。必ず勝つことはできないかもしれないけど、可能性を高めるのはできるのだ。

 まあ本質を理解できているのは秀吉か半兵衛さんぐらいだろう。僕は内政官として考えられるだけで、戦略家ではないのだ。




 そして早朝。

 雨は降っていなかった。これで鉄砲が使える。

 僕は自分の部隊の配置についていた。人数は五百。三百は僕で雪隆くんと島は百ずつだ。

 目の前には柵と土塁と逆茂木がある。これを突破するのは難しいだろう。


「武田軍、川を背にして、こちらに向かっています!」


 物見の報告が僕たちに伝わる。

 僕は少し緊張している雪隆くんに言う。


「大丈夫だ。必ず勝てるよ」

「よ、よく自信があるな……武田家相手に……」

「ここまでできる限りのことをした。上様や秀吉がな。それを信じるしかない」


 僕は兵士たちを見渡す。

 不安そうな顔が目立つ。


「安心しろ。この戦は勝てる。普通にやれば絶対に勝てる」


 兵士たちはざわめく。そりゃあそうだろう。相手は武田なのだから。

 それでも――


「勝てる戦に不安を覚える必要はない。僕たちは柵で守られ、鉄砲で一方的に相手を殺せるんだ。鉄砲を撃つもの、弾込めする者、柵に取り付いた者を排除する者。各々の役割を真っ当すれば、必ず勝てる」


 いつしかざわめきは止み、僕を見つめる兵士たち。


「信玄のいない武田など恐れることはない! 皆、大船に乗ったつもりで、役目を果たすんだ!」


 すると島が「鬨の声をあげよう、殿」と耳打ちした。

 僕は片手を挙げる。


「いくぞ! えい、えい――」

「――おう!」


 気合を入れた僕たちは真っ直ぐ主戦場の有海原を見つめる。

 武田軍の進撃の音が聞こえる。


 そして、長篠の戦が、始まった――

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