第137話長篠、前哨戦

「お前さま。御武運を祈っております」


 そう言って、はるは僕に刀を渡した。

 鎧姿で受け取る僕は「留守を頼んだよ」とだけ言う。

 こういうとき、武家の奥方は『御武運を祈る』というらしい。

 勝ってほしいとは言わない。退かねばならないときがあるから。

 生きて戻ってほしいとも言わない。武士は死に様を大切にするから。

 だから――御武運を祈るとしか言えないのだ。


「父さま、家のことは任せてください」

「……お気をつけてください」


 晴太郎とかすみも見送ってくれた。特にかすみははると協力して、前の晩に僕の好物ばかり並べた夕食を作ってくれた。

 その気持ちに応えたいと思う。

 必ず手柄を立てて、生きて戻りたい。


「殿。もうすぐ出陣だ」


 島が具足をつけてやってきた。そして跪いて僕に報告する。


「長篠城の救援、並びに武田勝頼を打ち倒すための出陣準備、整っている」

「分かった。これより出陣する」


 僕は三人の家族に笑顔で告げる。


「じゃあ行って来る。頼んだよ」


 家族が見送ってくれる中、僕は「雪隆くんは?」と訊ねる。


「門の前に居る。気合十分に臨むみたいだ。空回りしなければいいが」

「まあ気合が入るのは当然だね。織田家の存亡をかけた戦だもの」


 絶対に勝つ戦なんてない。どこか欠陥があれば、あっさりと負ける。

 だから、今日までいろいろと準備をしてきたんだ。

 玄関で雪隆くんに会う。彼の顔は強張っていたが、それでも力強く頷く。


「行こう、みんな。天下分け目の大戦に」




 長浜城から岐阜城に向かい、軍勢を集結させ、そのまま三河の岡崎城に入城した。

 各部隊は丸太などの材木を運んでいる。もちろん鉄砲も運ぶ。

 大量の物資を運ぶことができたのは、上様の命令で街道を整備していたからだ。歩きやすく移動の容易な道のおかげで兵士たちの疲労を抑えられ、一度に多くの兵糧や武具を運べたのだ。

 これも全て、武田家との決戦のためだ。


「雲之介。兵糧の管理は滞りないか?」

「ああ。十二分に持ってきているよ」


 岡崎城にあてがわれた羽柴軍の部屋で僕たちはこれからのことを話し合う。

 出陣しているのは、秀吉、秀長さん、正勝、半兵衛さん、そして長政だ。


「長篠城、どうなっているのか心配ねえ。物見が帰ってくるのが待てないわ」

「うむ。もしも長篠城が落ちて、陣地とされたら危ういからな」


 半兵衛さんの言葉に長政は頷いた。


「しかし上様は武田がこっちに攻め込んでくると自信があるようだ……兄者、何か知らないか?」


 秀長さんの言葉に秀吉は「今は言えぬ」と言ってにやりと笑った。


「どこに間者が居るか分からんからな。だが――わしは自信どころか確信があるよ」

「はあん。よくまあそこまで言い切れるもんだな」


 正勝は不思議そうに言う。

 秀吉は「半兵衛と長政と雲之介。一緒に軍議に参加してくれ」と言って立ち上がった。


「秀長と正勝は今一度、戦の準備を」

「承知した」


 何故僕も軍議に参加するのだろうか? 不思議だったが何一つ言わずに従った。

 岡崎城の大広間。主要な武将が集まっていた。

 織田家は佐久間さま、柴田さま、丹羽さま、滝川さま、明智さま、前田さまなど。

 徳川家は酒井さま、石川さま、本多さんなど。

 おっと、正信も居る。帰参が許されたようだ。

 彼も僕に気づいて軽く頭を下げた。


「それでは、軍議を始める。現在、武田は一万五千の兵で長篠城を包囲している。物見の報告では粘ってはいるようだが、時間の問題だろう」


 上様の言葉は徳川家の武将に重くのしかかった。大切な支城が風前の灯なのだから、当然だろう。


「長篠城を救うには包囲を解かせて、我らに有利な有海原へと誘導する必要がある――」


 そこまで言い終わったとき「失礼します!」と大広間に徳川家の兵士と疲れきった姿の武士が入ってきた。


「何事か!」

「ここに居ります、鳥居強右衛門殿が長篠城から脱出し、援軍を求めに参りました!」


 あの包囲されている長篠城から脱出!?

 疲れ切っている武士――鳥居は「え、援軍を、お頼み申す……」と息絶え絶えに言う。


「安心しろ! 織田殿がこうして来てくださった! 必ず助けるぞ!」

「ああ、良かった……」


 徳川さまの言葉に安心した鳥居はそのまま気絶しそうになったが、ぐっとこらえて「それでは長篠城に戻ります」と力強く答えた。


「何を……わざわざおぬしが知らせなくとも、援軍は来るのだぞ?」

「いえ。一刻も早く知らせたいのです。そうすれば城の者の士気は高まりましょう」


 鳥居は立ち上がって「援軍、感謝いたします」と言い、そのまま大広間から出て行った。


「なんと凄まじい男だ……徳川殿、羨ましいですぞ」

「ははは。家臣がわしの宝ですからな」


 僕はあんな風に生きられるのだろうか?

 自らの命を危うくさせても、主君のために、そして仲間のために、走り続けられるのだろうか?

 守る者がたくさんできてしまった今、できないだろうな。

 僕は長く生きた分、強くなったつもりだけど……実際は弱くなってしまったのかもしれない。


「では、有海原に陣を敷く。まず中央の最前線に利家を――」


 軍議は進み、武田を倒す算段を付けているけど。

 僕の心は落ち込んでしまった。




 翌日。僕はもっと落ち込むことになってしまった。

 鳥居強右衛門が死んだのだ。

 それも磔にされて。


「……どういうことだ?」


 鳥居の死を知らせてくれたのは、話を聞きつけた雪隆くんだった。


「武田の兵に捕まった鳥居は、勝頼にこう言われたらしい。『援軍は来ないと言えば家臣として取り立ててやる』と。鳥居は承知したように見せかけて……」

「援軍が来ると言ったのか……」


 雪隆くんは「そのとおりだ」と答えた。


「立派なやつだよ。自分を犠牲にしてまで、敵に屈しなかった……」

「ああ、そうだね」


 なんという勇士だろう。

 僕はそんな人に対して、何をもって報いればいいのだろう。

 僕たちは、少なくともあの場に居た者は、鳥居がこうなることを予想できなかった。

 いや、した者も居る。少なくとも僕は。

 分かっていて、向かわせたのだ――


「雪隆くん……」

「なんだ雲之介さん」


 僕は「絶対に勝たないとね」と呟いた。


「鳥居殿のためにも、勝たないといけなくなったよ」

「ああ。俺もそんな気持ちだ」


 鳥居から何か感じるものがあったのは上様も同じだった。

 彼のために立派な墓を立てることと、必ず武田を滅ぼすことを誓ったのだ。


 それからしばらくして。

 織田と徳川両軍は有海原にて陣を張った。

 いや陣と言うよりも築城と言うべきだろう。

 三方ヶ原のときと同じだ。

 有海原で土を掘って盛り、柵や逆茂木を作り、武田を迎撃する準備をする。

 僕も自分の部隊を指揮して、羽柴家の陣地を築いていく。


「雲之介ちゃん、ちょっといい?」


 作業をしている中、半兵衛さんが僕に話しかけてきた。

 その隣には森長可くんも居た。


「久しぶりだね。長可くん」

「ああ。ご無沙汰している、って言えばいいのか?」

「再会の挨拶は後。二人に協力してもらいたいことがあるのよ」


 半兵衛さんは僕たちに作戦を言う。


「武田家をこっちに呼び寄せるために挑発してほしいのよ。具体的には、あそこの高台を攻め落としてほしいの」

「分かった。それじゃ雪隆くんと島も呼ぼう」

「お、雪隆のやつ来ているのか!」

「……くれぐれも喧嘩しないでくれよな」


 結果から言って、高台は攻め落としたのだけど、その際雪隆くんと長可くんが、どっちのほうが首級が多いか揉めることになった。

 島が二人を仲裁して事なきを得たが、まったく好敵手というのはどうしようもない。

 その分、頼れるとも言えるが。


 こうして全ての準備は整った。

 武田との戦が始まる。

 大勢の人間が死に、名将が次々と死んでしまう、大戦が始まる――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る