第117話真っ赤に燃えている

 義昭さんが将軍を辞して、一ヶ月。

 ようやく、大殿は左近衛権中将並びに参議になられた。

 殿上人と呼ばれる、昇殿を許された者になったのだ。

 これからは大殿ではなく、上様と呼ぶことにする。


「わしもそれに伴って、筑前守の官位を賜った。これからは羽柴筑前守だ」


 そう言って秀吉は嬉しそうに微笑んだ。百姓の子が官位を賜るなんて……なんだか感無量だった。

 秀吉の他に、滝川一益さまには伊予守、明智さまには日向守の官位が与えられた。ますます他大名に対する影響力が強くなっていく。

 そして義昭さんは長浜ではなく、岐阜で隠居暮らしをするらしい。貴人であらせられるので、直臣の城ではなく、君主の城で余生を過ごされるのがよろしいとのことだった。


「いずれ遊びに行くぞ。それまで息災で居ろよ」


 少しだけ淋しそうな横顔を見せて、義昭さんは上様と一緒に岐阜城に帰っていった。

 僕は京都所司代に任ぜられた村井貞勝さんと一緒に京の守り――主に経済を担当した。同じく京の差配を任された武将の一人、明智さまは義昭さんの補佐として岐阜に同行している。だから余計に忙しかった。

 寝る暇もないくらい働いて、ようやく務めが終わったので、長浜に帰ることにした。


「そう……もう帰っちゃうのね」


 施薬院で志乃にそう告げると、切なそうに髪をかき上げた。

 僕は「一緒に長浜に帰らないか?」と何気なく言った。


「それはできないわ。患者が多いし」

「そうか……」

「あ、でも。かすみを連れて帰って。二人とも良い子で手がかからないといえ、二人育てるのが難しくなったわ」

「良いけど、どうしてかすみなんだ?」

「あの子、お父さんっ子なのよ。知らなかった?」


 そうだったのか。二人とも良く懐いているから気づかなかった。


「分かった。かすみは連れて帰る。身体に気をつけてね。病がうつったりするのは避けてくれよ」

「それも分かっているわ。大事な……身体だし」


 うん? なんか顔が真っ赤だし、妙な言い回しだった。


「どうかしたの?」

「……できたみたいなの」


 一瞬、何を言っているのか分からなかったけど、次の瞬間理解した。


「ほ、本当か!? やった、三人目だ!」

「喜んでくれて嬉しいわ。頑張って産むから――」


 その日は道三さんや玄朔さん、明里さんを巻き込んでの大宴会となった。

 晴太郎やかすみに、弟か妹ができる。

 とても――幸せだった。




「とうさま。もうすぐ、ながはまだわ」

「ああ。そうだな、かすみ」


 一緒に馬に乗っているかすみが指差す。そこには長浜城があった。

 かすみは髪を長く結っていて、母親譲りの美しい黒髪だった。親の贔屓目もあるだろうけど、おそらく美人に育つだろう。

 晴太郎はおとなしい子だけど、かすみはおてんばで物怖じしない。僕たち家族の中で一番武家らしいとも言える。


「しかし、上様が人馬でも通りやすいようにと街道を整備してくださったから、歩きやすいし、駆けやすいな」

「ああ。これで兵の移動も容易くなる」


 雪隆くんと島が語るように、街道が整備されている。街路樹に松が植えられているのも良い。一休みできるしね。


「とうさま。はやくおうまさん、はしらせて!」

「わがまま言わないの。もうすぐ着くから」


 長浜に着いて、城に向かう。かすみの面倒をねねさまかお市さまに少しだけ見てもらうためだ。雪隆くんたちは屋敷に帰ってもらった。

 かすみを抱っこして城内を歩いていると、ちょうど侍女たちと一緒に庭を見ていたねねさまが居た。


「ねねさま。ご無沙汰しております」

「ああ、雲之介さん。お久しぶりですね。かすみちゃんもお元気そうで」

「これから秀吉のところに帰ってきた報告をしようと思うので、かすみの面倒を見てもらえますか?」

「ええ。いいですよ」


 何の躊躇もなく了承してくれたねねさま。僕はいつの間にか寝てしまったかすみを渡した。


「秀吉はどちらに?」

「評定の間に居ますよ。確か主だった将の方々も一緒です」


 何か重要な議題があるのだろうか?

 気になった僕はすぐさま評定の間に向かう。


「雲之介。ちょうど良かった。実は越前国の一向宗がこちらに攻めてきそうなのだ」


 陣羽織姿の秀吉がそれほど焦っていない様子で僕に言う。秀長さんたちも平静だったので大規模な戦ではないのだろう。


「そうか。どのくらいの軍勢なんだ?」

「六千から八千だと報告が上がっている。まあ大物見なのだろう」

「それで、もちろん出陣するよな?」

「ああ。おぬしも軍に加われ。まず先陣に正勝――」


 このとき、どうして越前国の一向衆が大物見をしたのか。

 よく考えるべきだった。




「今回の戦、歯ごたえがないわね」


 半兵衛さんが陣の中で欠伸をした。

 隣に居る秀長さんも退屈そうにしている。

 僕も同じくらい暇だった。

 正勝と長政が前線で指揮しているが、数が多いだけで、やる気があるのか分からない敵方だった。


「ま、それくらい私たちの軍が強くなったということではないか?」


 秀長さんの言うとおりかもしれない。北近江や越前、そして武田などの難局や難敵を乗り越えてきた経験が生かされているのかもしれない。

 しかし――何か腑に落ちないところがある。


「なあ半兵衛さん。どうして越前の一向宗がこの時期に攻めてきたんだ?」


 僕の問いに半兵衛さんは「素人の考えなんて分からないわよ」と面倒くさそうに答えた。


「じゃあ玄人として考えたら、どうして今回の戦が起こったと思う?」

「そりゃあ……誘導かしら?」

「……誘導?」

「ええ。こっちに軍勢の目を向けさせて――」


 このとき、半兵衛さんは何かを閃いた。


「もしかして、一向宗の目的は、別にあるの?」

「……どういうことですか?」


 僕の問いを無視して、半兵衛さんは立ち上がり、辺りをうろついた。

 考え事に没頭しているのだろう。


「おーい。一向宗が退いたから、戻ってきたぜ」


 直後、正勝と長政が戻ってくる。その二人に半兵衛さんは素早く問う。


「ねえ。二人とも。何か不自然なこと、あった?」


 二人は顔を見合わせて、それから長政が答えた。


「そうだな。変に粘っていた印象だった。まるで時間稼ぎをしてるようだ」

「ああ。それでいて軍略も何も無かったな」


 半兵衛さんはしばらく考えて「でも京には明智ちゃんが居るわね……」と呟く。

 ハッとして僕は半兵衛さんに言う。


「明智さま……京には居ない」

「……なんですって?」

「よ、義昭さんと一緒に、岐阜に行っている……」


 その言葉に半兵衛さんは頭を抱え出す。


「ああ! これは不味いわ! 京が危ない!」


 血相を変えて、秀長さんに食ってかかるかのように、大声で言った。


「一向宗の目的は京よ! そのために足止めするような真似をしたのよ!」

「なんだって!? し、しかし、誰が京を攻める? 摂津の本願寺か?」

「違うわよ! 京の北に構えていて、明智ちゃんが抑止力になっていたから、今まで攻めてこなかったけど、厄介な勢力があるじゃない!」


 半兵衛さんが大声で喚いた。


「比叡山延暦寺! あの悪僧集団が京を襲うわよ!」


 にわかに陣内が慌ただしくなる。


「ま、まさか、京を襲うのか、僧兵共が!」

「そうよ秀長ちゃん! 一刻も早く、京に向かわないと!」


 僕は正勝に向かって言う。


「軍勢をまとめて、京に向かおう。どのくらい時間がかかる?」

「半刻もすれば、準備できる! 一向宗も撤退したからな」

「よし。準備してくれ。秀長さん、僕は輸送部隊と兵糧の運搬の準備をする」

「分かった。私も軍勢をまとめて――兄者に誰か知らせに行ってくれ!」


 軍勢をまとめて、京に向かいだしたのは、ちょうど半刻だった。そして京に辿り着いたのは、陽がすっかり暮れてしまった頃。

 だけど、京は真っ赤に燃えていて、まるで昼間のようだった。


「とりあえず、二条城へと向かおう。村井さまが城に篭もっているかもしれない」


 秀長さんの号令で、二条城へと進軍する。

 途中、狼藉を働いた僧兵らしき者が居て、その都度追い払うか殺すかしていた。


「せっかく、京の整備をしたのに……」


 京の悲惨な光景を見て、口から漏れてしまう。

 まさに応仁の乱を連想する地獄だった。

 二条城は落ちずにいるだろうか……

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