第87話隅立雷

「長政さま……全てを思い出したのですね……」

「……ああ。残念ながらな」


 夕日が沈み行く琵琶湖を眺めながら、長政さまは腫れ上がった顔を憂鬱そうに歪ませた。

 立つことはできなかったので、僕たちは座って語り合う。


「残念、ですか? それは一体――」

「もはや国も無く、父上も失った。山賊に身を落とした拙者には、何もない……」

「…………」

「いっそのこと、何も思い出せなければ、良かったのにな」


 僕たちの話を、元浅井家家臣、秀吉たち、そしてお市さまは黙って聞いていた。

 誰も口を挟まず、何も口出ししなかった。


「いつ、記憶が戻りましたか?」

「殴り合ったとき――いや、父上の死を知ったときか。そのとき、少しだけ思い出した。けれど、猿飛仁助と拙者が入り混じっていて、ほとんどは思い出せなかった。だから殴り合ってくれた雲之介殿のおかげだな」


 僕は首を振って「とんでもないことです」と応じた。


「拙者は、無能だ。父上の跡を引き継げなかった」

「そんな……大殿はきっと、北近江を長政さまに――」

「それは無理だ。義兄上は許さないだろうし、何より拙者自身、許せない」


 長政さまは僕を見つめる。


「大名の端くれとして、お情けで領地を返してもらうなんて、できない」

「それで、いいんですか? ここに居る浅井家家臣の方に、申し訳が――」

「ああ。申し訳ないと思う……」


 そして微かに微笑んだ。全てを諦めてしまったように。


「遠藤が身代わりになって死んだとき、拙者も死んでしまったのだろう。浅井長政という大名は死んでしまったのだ」


 目線を僕から外して、膝を抱え込んだ。


「拙者には、何もない……全てを失ってしまった……」


 後悔しているのだろう。記憶を失ったことや多くの家臣を死なせてしまったことを。

 かける言葉が見つからない――


「まだ、全て失っておりません!」


 大声で叫んだのは、お市さまだった。茶々を抱きながら、駆け足で僕たちのほうへ近づく。

 呆然とする長政さまに、お市さまは訴えた。


「私と茶々が、居るじゃないですか!」

「――っ! 市!」

「大名としての浅井長政は死んでも、浅井長政という男は生きております! どうか全てを失ったなどと言わないでください!」


 大粒の涙。零れ行くそれが茶々の顔に当たった。茶々は不思議そうに母親の顔を見つめた。


「拙者とともに、生きてくれるのか? 大名ではない、浪人の――」

「当たり前です! 私は、あなたのことが、好きなんです! 凛々しくて格好の良くて、いつも私を気遣ってくれた、お優しいあなたが!」


 縋りつくお市さまを、長政さまはどうするべきか悩んでいた。

 すると茶々が、長政さまの顔を見て、微笑んだ。

 父親に久しぶりに会えた、子どもの笑顔だった。


「――ありがとう、市」


 ようやく、長政さまは二人を抱きしめた。

 大切な宝物のように、大事に優しく、抱きしめた。


「腹が決まった。拙者はお前たちを幸せにしてみせる」

「長政、さま……」

「愛している。二人とも」


 僕はよろめきながらも、黙って立ち上がり、三人の傍を離れた。

 そして秀吉の元に向かう。


「おぬしはお人よしだな。上手く言いくるめれば、お市さまは――」

「無粋なことを言わないでくれよ、秀吉」


 僕は黄昏で抱き合う家族を見つめた。


「これで良かったんだ。僕はお市さまが幸せなら、それでいい」


 志乃や晴太郎、かすみに会いたいな。

 ぼんやりとそう思いながら、この美しい光景を目に焼き付けていた。




「よくやった。褒美をくれてやる」


 長政さまの記憶を取り戻して、二十日後。

 岐阜城にて論功行賞が行なわれていた。

 まず柴田さまには感状が与えられ、前田さまや佐々さまにも褒美が下された。

 次に足利家の援軍として来ていた明智さまにも褒美が与えられたが、全員がどよめくほどの褒美だった。


「光秀。足利家との折衝役、そしてこたびの戦働きなど長年の功により、南近江の坂本城を与える」


 一人冷静だった明智さまは「ははっ! ありがたき幸せ!」と慎んで応じた。


「そして猿。貴様も城持ちにしてやる。一先ず小谷城を拠点として、北近江を治めよ」


 さらにどよめいたのは言うまでもない。農民の出である秀吉が城持ちになったのだ。


「大殿! それは――」

「なんだ。文句があるのか?」


 びしゃりと大殿が厳しく言うと、誰も何も言えなかった。

 だけど家中の嫉妬が秀吉と明智さまに集まったのは言うまでもない。


「大殿。一つ許可を頂きたいのですが」

「なんだ猿。申してみよ」


 秀吉……何を言うつもりなんだ……?

 不安に思ったけど、秀吉はにっこりと笑った。


「これを機に、姓を改めたいと思います。これからは羽柴秀吉とさせてください」

「はしば……どういう由来だ?」

「柴田さまと丹羽さまの姓を一文字ずつちょうだいしました。御ふた方のようにありたいと思いまして」


 なるほど。上手い手だ。これで家老の柴田さまや丹羽さまは表立って何も言えなくなる。そして二人が何も言えないのなら、他の家臣も言えなくなる。


「良いだろう。この俺が許可しよう」

「ははっ! ありがたき幸せ!」


 横目で苦々しい顔をしてる柴田さまが居た。かなり怖い。


「そして雲之介。お前に茶の湯の許可をやろう。長政を見つけたことと記憶を取り戻したことの功でな」


 ありがたき幸せと言いかけて「少しお待ちを」と待ったをかけられた。

 言ったのは筆頭家老の佐久間さまだった。


「陪臣風情にそのような褒美をいささか問題かと」

「何故だ? 死んだと思っていた義弟を取り戻したのだぞ?」

「それならば、何ゆえ長政殿に北近江を返還なさらないのですか?」


 痛いところを突く。確かに生きていたのだから、それが筋というものだろう。


「そうだな。では長政を呼べ」


 大殿が小姓に命じて、少しすると長政さまがやってきた。

 山賊の格好ではなく、武家姿だ。


「長政。お前に領地を返すべきとの意見があるが、いかがする?」

「慎んでお断りいたす。拙者は一度死んだ身。もはや未練はありませぬ」


 長政さまがそう言ってしまったら、佐久間さまは何も言えないだろう。


「で、あるか」

「代わりにある許可をいただきたいのですが」


 なんだろう。僕は何も聞いてないぞ?

 大殿も怪訝な表情をしている。


「なんだお前もか。言ってみろ」

「この浅井長政、秀吉殿の下で働きたく存じ上げます」


 これには全員驚いた。僕も秀吉も、唖然としてしまった。


「お、俺の直臣ではなく、猿の家臣になるというのか!?」

「はい。拙者が家臣となれば、北近江の統治は上手くいくでしょう。それに――」


 このときの長政さまの言葉を、僕は忘れないだろう。


「雨竜雲之介秀昭殿と一緒に働きたい。それだけなのですよ」


 大殿はしばらく黙った後、にやりと笑った。


「ふはは。よかろう。お前が望むのであれば、な」

「ありがたき幸せ!」


 そして長政さまは僕たちに向かって言った。


「これからよろしくお願いします。秀吉さま、雲之介殿」


 雲の上の存在だった長政さまが、仲間になるなんて。

 まさに驚天動地だった――




 論功行賞の後、僕たちは長政さまを囲んで宴をした。

 場所は秀吉の屋敷だ。


「いやあ。めでたいな。これで一層、北近江の統治がしやすくなった」


 上機嫌な秀吉。すると秀長さんが「姓を変えたらしいじゃないか兄者」と口を尖らせた。


「それでは私も羽柴秀長に変えないといけないじゃないか」

「ああ。大殿の了解は得たぞ」

「勝手すぎるだろう……」


 呆れる秀長さんを余所に半兵衛さんは「ふふ。良い男が仲間になるのは良いことだわ」と笑った。


「悪いが拙者は衆道を好かん」

「あら。残念ねえ」

「ていうかてめえも奥さん居るだろう」


 正勝の言葉に「冗談に決まっているじゃないの」と本当かどうか分からないことを言う。


「ああ、そうだ。雲之介。おぬし確か、家紋がなかったな」

「うん? ああ。そうだね」

「おぬしは気に入らんと思うがな。家紋をくれてやる」


 秀吉が懐から紙を取り出した。折りたたまれたそれを開けると、そこには家紋らしきものがあった。

 ひし形。それが中央に渦巻きのように回るように黒字で描かれている。


「隅立雷。そのような名前らしいぞ」

「へえ。なかなか良いと思うよ。でもどうして気に入らないと?」


 秀吉は言いずらそうに「おぬしの祖父が送ったものだ」と語った。


「……雲之介ちゃん。破り捨てなさい」

「ああ。兄弟。そんなもん捨ててしまえ」

「私も賛成かな。この件に関しては」


 三人の言葉に長政さまは「どうしたんだ?」と戸惑った。


「雲之介ちゃんの祖父、山科言継はね。子どもの頃の雲之介ちゃんを殺そうとしたのよ。だから記憶がなかったの」

「山科……? ああ、だから隅立雷なのか」


 長政さまは納得したように呟く。


「どういうことですか?」

「雲之介くん。隅立雷の紋は、山科家も用いているんだ」


 そうだったんだ……


「雲之介ちゃん。さっさと捨てちゃいなさいよ」

「いや。これを家紋にするよ」


 僕の言葉に全員が呆然とした。言っていることが計りかねるようだ。

 声を発せられたのは、正勝だった。


「……理由を聞いても良いか?」

「正勝の兄さん。僕はもう、過去を受け入れることにしたんだ。山科家での過去は、正直記憶に無いけど、それでも受け入れないとね」

「だけどよ……」

「それに、言継さまの思いもある。本当なら関わりたくないだろうね。僕なんかには。だけどこうして、家紋をくれるくらいに向き合ってくれるんだ」


 僕はみんなに言う。


「僕は自分の出自を忘れないためにも、この家紋を使うよ」


 半兵衛さんが「言っている意味は分からないけど」と前置きをした。


「あなたが良いなら、それで良いわよ」

「ありがとう」

「お礼なんて別にいいわ」


 こうして夜が更けていく。

 次の戦いに備えて、英気を養うのだ。

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