第86話取り戻せ!

 朝倉義景は結局切腹しなかった。そして大殿は義景を出家させて、久政さまを弔うように命じた。久政寺――『きゅうせいじ』と命名された新しい寺の住職となった彼は猿飛に一生かけて償うことを約束した。その際、猿飛は何も言わなかった。ただ淋しそうにしていた。

 さて。景鏡たち反織田派はどうなったかというと、敦賀の戦い前後に石山本願寺に逃げ出したらしい。大殿は追っ手を差し向けたけど、間に合うかどうかは不明だ。重臣でありながら義景を裏切り、久政さまの死の原因となった奴らのことを個人的には許せなかった。

 許せないと言えば、七里頼周という坊官もそうだった。人の絶望を喜びとするような僧侶は害悪だと思う。


「義景を生かしたことに対して、どう思う?」


 大殿は義景の出家の後、僕を呼び出した。小姓が数名控えているけど、実質二人で話しているようなものだ。


「寛大なお心だと思います」

「で、あるか。しかし義景を生かしたことで一乗谷の民の心証は良くなるだろう。あれは善政を敷いていたからな」


 なるほど。そういう思惑もあったのか。


「それでだ。直臣の話は考えてくれたか?」

「直臣ですか……」


 もし直臣になれば出世ができるだろう。もしかすると城持ち大名になれるかもしれない。

 だけど――


「このまま秀吉の下で働きたく存じます」

「……理由を聞かせろ」


 少しだけ不機嫌になった大殿。周りの小姓の顔が強張る。

 僕は平伏して理由を言う。


「大殿には僕は必要ないですけど、秀吉には僕が必要なんですよ」

「…………」

「秀吉はすぐに調子乗ります。頭が良いけど、抜けているところもあります。だからずっと傍に居ないと心配なんですよ」

「……なるほどな。確かにそうだ」

「それと僕は秀吉のことが好きなんですよ。拾ってくれた恩もありますけどね。それを抜きにしても、僕は秀吉が大好きなんです」


 怯えている小姓たちを余所に僕は笑顔になっていた。


「だから直臣にはなれません。僕は大殿の天下統一をお助けする秀吉を助けてやりたいんです」


 大殿はしばらく黙った後、軽く笑った。


「ふはは。己の出世よりも他人の助けを優先するか! お前はどれだけお人よしなのだ!」


 満足そうに持っていた扇子を僕に突きつけた。


「いいだろう! 猿の家臣のままでいろ! 無欲で愚かな優しき武士よ!」

「ははっ! ありがたき幸せ!」


 扇子を開き、扇ぎながら大殿は「猿、聞いての通りだ!」とよく通る声を発した。

 えっ? どういうことだ?

 戸惑っていると、僕の左側の襖ががらりと開いて、なんと秀吉が現れた。


「この大馬鹿者。大殿の誘いを断るとは。おぬしは本当に……」


 そこまでしか言えなかったらしく、秀吉は顔を背けた。身体が震えている。

 き、気まずい……!


「お、大殿! これは一体……」

「ふん。お前のことだ。どうせ断ると思ってな。その腹いせに猿を控えさせていたのだ」


 愉快そうに大殿は言うけど、これは恥ずかしい……


「このくらいの意趣返しくらいさせろ。猿。俺は初めてお前を羨ましいと思ったぞ」

「……恐れ多い御言葉です」


 秀吉は涙を拭って嬉しさを隠しながら僕に近づいた。

 僕の両手を力強く握って熱く語った。


「雲之介。わしはおぬしの期待に応えるぞ! 必ず城持ち大名になってみせる!」

「ああ! 頑張ろう!」


 すると大殿は「そのことだが」と咳払いした。慌てて僕たちは大殿に向き合う。


「猿飛仁助――奴は間違いなく長政だろう。雲之介。お前はどう思う?」

「どう思う――とは?」

「奴の記憶が戻るのかどうかだ」


 難しい問いだった。なんと答えればいいのだろうか?

 僕は「戻るかどうかは分かりません」と慎重に答えた。


「でも――戻りつつあると思います。義景とのやりとりを見る限りでは」

「そうか……ではお前たちに命じる」


 大殿は僕たちに主命を下した。


「長政の記憶を取り戻せ。もしそれができたのなら、猿を城持ち大名にしてやる。雲之介には茶の湯を行なう許可をやろう」


 破格の褒美だった。城持ち大名になるのはもちろんだけど、公に茶の湯をすることは家老以下には許可が与えられていない。


「どんなことをしても良い。必ず取り戻せ。いいな?」


 大殿の顔は切実さと悲しみが入り混じった真剣なものだった。

 これは応じるしかない――




「それで受けちゃったの? 当てもないのに?」


 半兵衛さんが呆れたように言う。秀長さんと正勝はその言葉に頷いた。

 一乗谷城であてがわれた一室に集まった僕たち五人。

 僕は申し訳なさそうに言う。


「だって、大殿の主命だったから……」

「できないことを受けるんじゃないわよ」


 確かにそうだけど、義弟を思う大殿の心に打たれたのもある。


「それで秀吉さんと兄弟はどうするつもりだ?」

「実は何の考えも浮かんでおらん。おぬしたちの知恵を借りたい」


 堂々と自らの考えの無さを公言する秀吉。これには秀長さんも呆れて言った。


「墨俣城と同じ展開だな兄者。懲りないのか?」

「秀長。墨俣城は見事に建てられたではないか」


 秀吉の返しに「人の心は一夜城を建てるよりも複雑だわ」と半兵衛さんは苦言を呈す。


「ましてや失った記憶を取り戻すなんて……」

「いや。それに関しては難しくないかもしれないぜ」


 正勝の兄さんが意外なことを言い出した。


「どういうことよ正勝ちゃん」

「猿飛の奴と相撲を取ったんだけどよ。あいつの性根は歪んじゃいなかった。それどころか真っ直ぐだったぜ」


 正勝は説明し始めた。


「あいつの相撲は真っ直ぐで一本気で力強かった。一介の山賊が取るようなもんじゃねえよ」

「たかが相撲よ? そんな確信めいたことが言えるの?」

「ああ、言えるさ」


 半兵衛さんの疑問に正勝ははっきりと頷いた。

 なら信用してもいいかもしれない。


「もし正勝の言うとおりなら、試してみたいことがあるんだ」


 四人は僕を見た。


「猿飛――長政さまの記憶を取り戻せるお方に会わせる。それしかない」

「もしやそのお方とは――」


 秀吉に「決まっているだろう」と自信を持って答えた。


「お市さまに会わせるんだ。急いで北近江に戻ろう」




 数日後、僕たちは猿飛を連れてお市さまの居る佐和山城に来ていた。

 織田家に仕官しても城主に任じられていた磯野さんや小谷城の守備を任されていた雨森さん、そして旧浅井家の家臣たちが一同に揃っている評定の間に僕と猿飛が足を踏み入れると、彼らはどよめいた。


「おお! 殿、生きていらっしゃったのですか!」


 磯野さんが猿飛に言うと「だから俺は猿飛だっての」と面倒くさそうに言う。


「それで雲之介。俺ぁどうすればいいんだ? 褒美がもらえるてんで北近江まで来たんだけどよ」

「お前に会わせたい人が居るんだ」

「はあ? ここに居る武家たちか?」


 乱雑な言葉遣いに旧浅井家家臣たちは動揺を隠しきれなかった。


「あれは殿なのか? もしや他人の空似では?」

「馬鹿言え! 痩せてはいるが、あれは殿だ!」


 ざわめく旧臣たちを半ば無視して僕は告げた。


「あなたの大切な人ですよ、長政さま」

「だから俺は長政じゃ――」


 そこまで言ったとき、評定の間に女性が入ってきた。

 可愛らしい赤ん坊――以前会ったときより大きくなった――を抱いて、猿飛と向き合う。


「長政、さま……」

「――っ!」


 目には涙を浮かべ、ゆっくりと近づく美しき姫――お市さま。


「あ、あんたは……」

「雲之介さんから聞きました。記憶を失っているのですね」


 お市さまが一歩ずつ近づく。それに対して、猿飛は――


「やめろ! 来るな!」


 厳しい口調で拒絶した。思わず足を止めるお市さま。


「長政、さま……?」

「頭が割れそうに、痛てえ……ちくしょう……」


 僕と同じだ。失われた記憶が戻る前兆。

 お市さまは悲しそうに、うずくまってしまった長政さまの肩に触れる――


「やめろ! 俺に、触るんじゃ、ない!」

「きゃっ!」


 突き飛ばされるお市さま――僕はすかさずお市さまを支えた。


「ちくしょう……俺は……」


 よろよろと立ち上がって、評定の間を出る猿飛。


「長政さま! 思い出してください! 市です!」


 お市さまは僕が見たことがないくらいの大声で叫んだ。胸の中にいた茶々がぐずり出す。


「一緒に過ごした日々を! 優しくしてくれた思い出を! あなた自身の記憶を!」


 魂が篭もった言葉は、猿飛に届いたかどうか、不明だった。

 そのまま猿飛は出て行った。


「う、うう、うううう……」


 お市さまは泣き崩れている。僕は背中を抱いた。


「大丈夫。必ず元に戻ります」

「ほ、本当ですか……?」

「約束しますよ」


 僕の瞳を見つめるお市さま。そして微かに笑った。


「ええ――私はあなたを信じます」




 猿飛を追って、僕は琵琶湖の湖岸に向かった。

 猿飛は一人で琵琶湖を見つめながら呆然としていた。

 夕焼けの日差しが琵琶湖に乱反射する。眩しかった。


「猿飛。ここに居たのか」

「……なあ。俺は本当に猿飛なのか?」


 猿飛は僕のほうへ振り返った。

 険しい顔つきになっていた。


「自信が無くなったぜ……いや、自信じゃなくて自身がないのかもな」

「…………」

「みんなが俺を長政と呼ぶ。だから俺は長政なんだろうな。でもよ。記憶がないのに、俺が長政だって名乗っていいのか?」


 僕はそれに答えずに猿飛の隣に並んだ。


「俺は誰なんだ? 猿飛仁助か? 浅井長政なのか?」

「…………」

「教えてくれよ……」


 僕は――向き合って、拳を構えた。


「……何のつもりだ?」

「お前は僕と約束した。お市さまを幸せにすると。でもさっきお市さまを悲しませた。それが――許せない」


 おそらく僕は猿飛を睨んでいた。


「だから、僕はお前を殴らないといけない。だけど一方的に殴るのは嫌いだ」

「……戦えって言うのか?」

「そうだ。お前も構えろ」


 猿飛は「何言っているのか分かんねえけどよ」と腕組みをした。


「お前に対して悪いことしたのは分かるさ。だから一発タダで殴らせてやる。それから喧嘩しようぜ――」


 言い終わる前に僕は猿飛の左頬を殴っていた。よろめく猿飛――笑った。


「これで――思う存分、殴り合えるな!」


 猿飛も僕の頬を殴った。僕は殴り返す。猿飛も殴り返す――

 お市さまが嫁入りしたときと同じように、僕たちは殴り合った。

 互いの顔に痣ができるまで。

 互いの拳の皮が剥がれるまで。

 殴って殴って。


「へへ。なかなかやるじゃねえか。雲之介」

「前よりも、強くなっているな」


 痛いとは思わなかった。

 辛いとも思わなかった。

 懐かしさで胸が一杯になる。


「長政さま! 雲之介さん!」


 誰かが僕たちを呼ぶ。殴るのをやめて、僕たちは声の方向を見た。

 お市さまがあの日のように、泣いていた。

 周りには浅井の旧臣。そして秀吉たちが居た。


「……そろそろ、互いにきつくなってきたな」

「ああ……これで終わりにしよう……」


 血だらけの猿飛。僕も同じ顔をしているんだろうな。

 なんか、いい気分だ。


「いくぞぉおおおおおお! 雲之介ぇえええええええええ!」


 猿飛の拳が眼前に迫る。僕も同じように拳を突き出した――

 ガキっと嫌な音が響いた。


 気がつくと夕焼けの空が目に写る。


 立とうと思っても立てない。


「長政さまああああああ!」


 お市さまの声。

 僕ではなく、猿飛でもなく、長政さまを呼ぶ声。


「うおおおおおおお!」


 猿飛が立ち上がった気配。

 僕は――立てない。

 僕の負けか……


「雲之介……」


 猿飛が僕の顔を覗きこむ。


「猿飛……」

「……今回は拙者の勝ちだな」


 今回? 拙者?

 起き上がろうとして、起きられなかった……


「ほら。手を貸そう」


 僕は、手を取った。

 長政さまの手を取った――

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