第26話今を生きること
藤吉郎について行って、織田家に仕官して、武士になって。
今までのことに後悔はない。
辛いと思ったことはないわけじゃない。日頃の訓練や煩雑な雑務は大変だった。
行雲さまを助けるとき、大殿に斬られたときは痛かったし、弥助さんが死んだときは身を切られるほど悲しかった。
でもそれ以上に嬉しいことがあった。
藤吉郎に出会えたこと。
お市さまと話せたこと。
源五郎さまと茶の湯修行をしたこと。
本当に楽しかったんだ。
記憶を失くして、一人きりで生きてたときよりも、ずっと。
だからこそ、僕は志乃さんと向かい合わないといけない。
ずっと恨みというものを残してはいけないと思う。
かつて藤吉郎は恨みで人は生きていけると言った。
それは間違いじゃないけど、正しくもないことも分かってきた。
人は人らしく生きることが大切なんだ。
藤吉郎のように楽しく生きるために、今を生きないといけないんだ。
僕は志乃さんから恨みを取り上げる。
その結果、どうなるのか分からないけど、それでもそれが正しいと信じて。
僕は――
「それで、話ってなによ」
名主の家、志乃さんの部屋。
僕と志乃さんは二人きりで対面していた。
藤吉郎や小一郎さんは居ない。志乃さんの父親、弥平さんも同席していない。
本当の意味で――二人きりである。
志乃さんの傍らには、酒瓶が置いてある。
ないと落ち着けないと、言っていた。
「弥助さんがどうして死んだのか、僕はあなたに言わないといけないと思います」
「…………」
「稲生の戦いで僕と弥助さんは長槍隊に所属していました」
何も答えない志乃さんを見ながら、僕は語り出す。
「弥助さんが敵を一人倒した直後でした。空から矢が降ってきました。それは僕の右腕に当たりました」
袖をめくって傷跡を見せる。もう何年も経っているけど、未だに残っていた。
「痛みで僕は気絶して、気がついたら、辺りは死体だらけでした」
不意に思い出す戦場。身体の震えを抑えながら、僕は言葉を続けた。
志乃さんの反応は見ていられなかった。
「呆然とする僕に、声をかける人が居ました。見るとそこには多くの矢が刺さった弥助さんが倒れていました。僕を矢から庇うように、そして敵から見つからないように、覆いかぶさってくれたんです」
そこまで言っても志乃さんは何も言わなかった。
「どうして僕を庇ったのかと訊ねると、気がついたら身体が動いたと息も絶え絶えに言いました。そして志乃さんに言葉を言い残しました」
「……どんな言葉?」
やっと口を開いた志乃さんを見ると、目から涙を流していた。
ぽろぽろ、ぽろぽろと、流していた。
居た堪れない気持ちになったけど、僕はなんとか続けた。
「弥助さんは『村の幼馴染に、伝えてくれ。約束を守れなくて、ごめんな』と言いました」
「――っ!」
志乃さんは声も出さずに泣き出した。
僕は目の前に居る志乃さんの気持ちを思うとやり切れなくなる。
「最期の言葉は――いえ、やめておきましょう」
「……言ってよ」
躊躇した僕に志乃さんは縋るように頼んだ。
「あの人の、最期の言葉、聞かせて」
「……『さっき、人を殺してしまったけど、お前を助けて、良かったよ』です」
志乃さんは涙を拭うことなく「馬鹿だね弥助は」と言う。
「人を助けて、自分が死ぬなんて。私のことなんて、考えてなかったのかな」
その言葉を否定したかったけど、命を賭して救われた僕は、何も言う権利はない。
だから――
「志乃さん、僕を許してほしいとは言わない。その代わり、約束してほしいことがある」
「……何?」
「もう弥助さんの死を悲しむのを、やめてほしい。そして自分のために生きてくれ」
僕の言葉に志乃さんは「そんなこと、できないよ……」と悲しげに、本当に悲しそうに言った。
「弥助を忘れるなんて、できやしない」
「忘れるんじゃない。弥助さんのために思いつめるのをやめてほしいんだ」
僕は脇に置いた刀を志乃さんに差し出した。
「僕に対する恨みがあるのなら、これで晴らすといい。僕は抗わない。恨みもしない」
「……正気なの? これであんたを殺すかもしれないのに?」
「殺すのは勘弁してほしい」
僕は真っ直ぐに思いを伝える。
「僕の命は弥助さんから貰ったものだ。だから殺さない程度に痛めつけてほしい」
「…………」
「それに殺してしまったら、志乃さんは後悔するだろう」
志乃さんは震える手で刀を取って、鞘から抜いた。
そして僕に向ける。
「う、うう、うううう……」
志乃さんは僕に刀を向けたまま、固まってしまった。
迷っていた。だけど恨みもあった。
どうしていいのか、分からずに、志乃さんは――
「うわあああああああああ!」
刀を床に落として、その場に座り込んで、再び泣き出した。
今まで溜まっていた恨みを吐き出すように、泣き出してしまった。
「できないよ……弥助が残した……唯一なのに……傷つけるなんて……」
僕は落ちた刀を拾って、鞘に納めた。
「志乃さん。僕はあなたにどう償えばいいのか、分からない」
本音だった。自分の身を挺して助けてくれた人の、大切な人への償いなんて、この世のどこにもない。
感謝でも悔恨でも、償えない。
「きっと一生懸けても償えないんだろう。僕は天寿を全うするまで生きるしか、弥助さんの死を贖えないんだろう」
「じゃあ、私はどうすればいいのよ……」
志乃さんは僕を、涙を流しながら、睨んだ。
恨みはもうなかった。困惑しかなかった。
「弥助の死を忘れることも、あなたを恨むことも、できなくなったわ。どうやって生きていけばいいの?」
「……それでも今を生きるしか、ないんだと思います」
志乃さんの肩を掴んで訴える。
「今は笑えないけど、いつか笑えるときが来る。弥平さんや他の家族と過ごして、悲しみが癒えたら、弥助さんと同じくらい素敵な人に嫁いで、子供に恵まれて、毎日を穏やかに暮らして、そして子供たちや孫に見送られて天に召される。そんなありふれた何気ない日常が志乃さんの救いになる」
志乃さんと僕は見つめ合う。
「お願いします。そうやって生きてください。弥助さんのためにも、僕のためにも」
「…………」
「……志乃さんが幸せになるように、祈っています」
僕は志乃さんを残して部屋から出て行く。
これで良かったのか、僕には分からない。
「雲之介、終わったか?」
藤吉郎と小一郎さんは誰も居なくなった名主の家で待っていてくれた。
いつもの日輪のような笑みの藤吉郎と少しだけ同情するような目を向ける小一郎さん。
「うん。終わったよ」
「大丈夫かい? 雲之介くん」
「大丈夫とは言えませんね……本当に辛い」
本当は泣きたかったけど、グッと堪えた。
「これで良かったのだ。あの娘はこれから前向きに生きるだろうよ」
「兄者、適当なことを……」
「適当ではないわ。雲之介の言いそうなことは見当がつく。なにせこいつは優しすぎるからな」
藤吉郎はぱんっと柏手を打って「さて。差出と検地のことだが」と切り替えてくれた。
「すんなりと話が通った。これからここを拠点として検地を行なう。差出は既に弥平とやらが台帳を持ってきたから大丈夫だ」
「そうなんだ……」
「これから忙しくなるぞ。小一郎、雲之介。一層に働きを期待している」
僕は「承知」と答えた。
さて。これから忙しく――
「ねえ。雲之介と言ったかしら」
がらりと扉が開いて、振り返ると志乃さんが居た。
目が腫れている。かなり泣いたんだろう。
「お、おぬし、雲之介くんに――」
「安心して。もうその気はないから」
小一郎さんの心配を余所に志乃さんは僕に近づいた。
「責任、取ってよ」
「せ、責任?」
志乃さんは真面目な顔だった。つまり酔ってはいない。
「私を幸せにして。弥助のことで思いつめないくらいに」
「えっ? どういう――」
戸惑う僕に対して志乃さんはとんでもないことを言い出した。
「私をあんたの嫁にして」
「……はい?」
これには僕どころか藤吉郎も小一郎さんも反応できなかった――
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