第27話初恋が消え去った日

「……なんだおぬし。まだ酔っているのか?」

「いいえ、しらふよ。さっき水瓶に顔を突っ込んで醒ましたわ」


 だったらどうしてそんなことが言えるんだ?


「あのね。志乃さんって言ったっけ? さっきまで雲之介くんを恨んでいたんじゃないのかな?」

「ええ。恨み骨髄だったわ。でもね――疲れたのよ」


 疲れた……それはつまり、恨むことに疲れたという意味だろうか?


「確かに恨みは生きる糧になったけど、毒でもあるのよ。食らいすぎて食当たりになるほどにね。でも雲之介の話を聞いて、なんだか毒気がなくなったように消え去ったのよ」

「ふうむ。それは分かったが、どうして嫁入りになるんだ?」


 藤吉郎の言葉に志乃さんは「この人身勝手なのよ」と僕を指差した。


「綺麗事ばかり言って、責任を取ろうとしない。挙句の果てに『幸せになることを祈ってる』で締めたのよ? いい加減すぎるわ」

「それだけ聞くと酷いけど、君を傷物にしたわけじゃないだろう?」


 もっともなことを小一郎さんは言ってくれたけど「それなら幸せにしてよ」と僕に迫る。


「黙っていないでなんとか言いなさいよ」

「そ、そう言われても、僕は祝言なんて考えてない――」

「何? その歳で女も知らないの?」


 呆れたように言う志乃さんに苛立ちを覚えながら僕は「ああ、そうですよ」と開き直って見せる。


「それのどこが悪いんですか?」

「良くもないけどね。偉そうに言うほどでもないし」


 すると藤吉郎は「おぬしに問いたい」と志乃さんを見つめた。


「おぬしを雲之介の嫁にすることで、何の得がある? 厄介事はごめんだ」

「そうねえ。この村だけじゃなくて、他の村の差出や検地が捗るわよ。これでも名主の中では力があるんだから」

「しかしわしたちはこの村の検地ができればそれで良い」

「あら? 他の村も担当できるって報告して、しかも行なえばかなりの功績になるけど?」


 まあそのとおりだった。グッと言葉に詰まる藤吉郎。


「それに結構私、可愛いほうだと思うし」


 臆面もなくそう言う志乃さん。確かに綺麗な人だと思うけど……


「なるほどな。最後はどうでもいいが、雲之介の気持ちもある」


 藤吉郎は僕に向かって問う。


「雲之介が嫌なら断っても良いぞ」

「…………」


 僕はどうしていいのか分からなかった。だから黙り込んでしまった。


「兄者。雲之介くんには酷な選択だ。ゆっくり考える時間を――」

「そうね。急すぎたかもしれないわね」


 小一郎さんの言葉を遮るように志乃さんは笑った。


「志乃とやら。おぬしは責任を取らせるために雲之介の嫁になるというが、はたして雲之介のことを本気で愛せるのか?」

「愛せる? 婚約にそれが必要なの?」


 不思議そうな顔をする志乃さんに藤吉郎はすかさず言う。


「好きでもない相手に嫁ぐのは恨みを持ったまま生きるより大変だ。分かって言っているのか?」

「私、雲之介のこと好きよ」


 堂々と恥ずかしげもなく言われて、僕の顔が真っ赤に染まるのを感じる。


「顔も可愛いし、思いやりもあるし、賢そうだし、何より優しいわ」

「優しい? まあ確かに雲之介は優しいが……」

「だって普通、友人の許婚に恨まれるとか嫌じゃない。でも雲之介はそうやって私の命を救ってくれたのよ。今思えば命の恩人だわ」


 そして僕に近づいて手を握った。


「お願い。私を幸せにして」


 なんというわがままでどうしようもない申し出だろう。

 本来なら断るのが筋だ。

 でもここで断ったら――志乃さんはどうなるんだろう?


「少し考えさせてください……」


 僕は卑怯者だ。臆病者だ。受け入れることも断ることもできないなんて。


「いいわよ。待ってあげる。でもできるだけ早くお願いね」


 すっと手を放して、志乃さんはそのまま部屋から出て行ってしまった。

 後に残されたのは放心する僕と呆れた小一郎さんと考え込む藤吉郎だけだった。




「雲之介くん。どうしてあそこで断らなかったんだい?」


 藤吉郎に与えられた屋敷で小一郎さんに僕は叱られていた。

 足軽大将に昇進した藤吉郎は小さな屋敷を大殿から与えられていて、僕と小一郎さんはたまに屋敷でねね殿のご飯を食べるようになっていた。


「断ったら、その、志乃さんが可哀想に……」

「はあ。君は優しすぎるね。断るのも優しさの一つだと思うけど」

「それはそうですけど……」

「君はそれでいいのかい? 君にも自由が――」

「そのぐらいにしておけ、小一郎」


 見かねた藤吉郎が制するように言う。すると矛先が変わる。


「兄者も兄者だ。どうして断らなかった?」

「これは雲之介と志乃の問題だと思ってな」

「そういう曖昧な態度だからつけあがるのだ、あの娘は!」

「その、志乃さんを悪く言うのは――」

「雲之介くん! どうして庇うんだい!」


 おかえり、矛先。早かったね


「君は志乃さんと婚約するかもしれないんだよ? それもいいのかい?」

「……本音を言うと分からないんです」


 僕は小一郎さんに言う。


「志乃さんは嫌いじゃないです。でも婚約となるとどうしていいのか、分からないです」

「ま、お市さまのこともあるしな」


 藤吉郎の言葉は僕の胸をちくりと刺した。


「お市さま? ああ、雲之介くんが気に入られているお姫さまだね」

「本音はそれだろう。雲之介はお市さまを好いておるのよ」


 かっかっかと笑う藤吉郎に「そんなんじゃない!」とムキになって立ち上がる。


「ならばどうしてその場で受けなかった? 嫌いじゃないんだろう、志乃のことが」

「さっきまで恨まれてた相手を好きになどなれないよ!」

「ふふふ。ようやく言えたな。しかし志乃と婚約するのは悪くないと思う」


 とんでもないことを言い出す藤吉郎に小一郎さんは「どういうことだ?」と問い詰める。


「雲之介、おぬしは素性も出自も分からぬ者だ。そんな人間に嫁ぐ酔狂な娘は居るか? 武家も商家も嫌がるだろうよ。だから婚約するのなら百姓しか居らんと思ってた」


 そう言われればそうだけど……


「それにまだ元服もまだだろう? いい機会だ、婚約と同時に元服してしまえ」

「兄者、それは乱暴な気が……」


 藤吉郎は僕に座ったまま、こう投げかけた。


「お市さまのところで相談して来い。いや、婚約するつもりですと言ってみろ。それでお市さまが『おめでとうございます』と言ったのなら婚約しなさい」

「兄者、それは……」

「分かったよ。そうする」


 僕は藤吉郎たちに背を向けて、屋敷から出ようとする。

 この時点で意地になっていた。


「お待ちください、雲之介さん」


 玄関でお盆を持ったねね殿が心配そうな顔をしてた。


「どうしました?」

「雲之介さん。よくお考えになってくださいね」


 それだけ言ってねね殿は僕に頭を下げた。


「……分かりました」


 僕はそれだけしか言えなかった。




「まあ。そんなことになっていたのですね」


 清洲城、お市さまの部屋。

 僕の話を聞いたお市さまは驚いていた。

 僕は「そうなんです……」と頬を掻いた。


「それで、どうなさるおつもりですか?」


 僕は「どうしていいのか、分からないのです」と言いそうだったけど、藤吉郎の言葉に従った。


「実は受けようと――」


 そう言った瞬間、お市さまは驚いた顔のまま、静かに涙を流した。


「……お市さま?」

「あれ? なんででしょう? 涙が……」


 御付の鈴蘭さんが「姫、こちらを」と綺麗な模様の手拭を取り出した。


「ごめんなさい、おめでたいはずなのに、どうしてか……」

「お市さま……」


 どうして泣いているのか、さっぱり分からなかった。

 遊び相手が居なくなると思ったのだろうか?


「安心してください。僕はどこにも行きませんから」

「……そうですよね。そのはずなのに、止まらないのです」


 大泣きしてしまったお市さま。鈴蘭さんが「今日はもうお帰りなさいませ」と厳しく言った。

 僕が帰るとき「しばしお待ちを」とお市さまは呼び止めた。


「なんでしょうか?」

「雲之介さん」


 お市さまは泣きながらもいつもの素敵な笑みで、こう言った。


「おめでとう、ございます」

「……ありがとう、ございます」


 僕は障子を閉めた。そして清洲城内から出ようとする。


「なんだ、雲。お前婚約するのか」

「源五郎さま……」


 部屋の傍の壁に寄りかかっていた源五郎さま。僕を哀れむように言う。


「まあ市とは婚約できぬと思っていたが、まさか別の女とな」

「…………」

「まあ市は別の男に嫁ぐ予定だからな。それも仕方ない」

「源五郎さま、どうしてお市さまは泣いたんでしょうか……」


 僕の問いに源五郎さまは目を丸くした。


「意外と鈍い男だな。市は――」


 そう言いかけて、こほんと咳払いして、こう言った。


「――おぬしに会えなくなるかもしれん不安で泣いたのよ」

「……そうですよね」


 そして源五郎さまは最後に言った。


「これからも市と仲良くしてくれよ」

「ええ。そのつもりです」


 一礼して、僕はその場を去った。

 源五郎さまは僕をじっと見つめたまま動かなかった。


 この日、僕の初恋らしきものは、消え去ってしまった。

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