第9話稲生の戦い

 どうして――僕は死を受け入れてしまうのだろう。

 どうして――僕は生きることに固執しないのだろう。

 大殿の心中を知ってから、夜、布団の中で考えるようになった。


 生きたいと思うのは人として当然だ。武士も商人も百姓も変わらない。おそらく公家も変わらないだろう。

 でも僕は仕方なく生きているのかもしれない。

 記憶がないから――それで片付けてしまうのは乱暴な気がしてしまうけど、しかしそれしか理由が見つからない。

 理由があるとすれば、記憶を失くす以前にあるのかもしれないけど――


「考えても詮のないことだな……」


 ぼそりと呟く。呟きだから誰も応じてくれない。

 口に出しても考えてしまう自分が居る。いや考えないと不安になるというのが正直なところだ。

 自分の出自がはっきりしないのは、恐ろしかった。一人きりで生きていた時分には思わなかったことだけど、多くの人々と関わることで自覚するようになった。

 武士は皆、自分の矜持を持っていた。

 商人は皆、自分の財産を誇っていた。

 百姓は皆、自分の土地を守っていた。

 違いはあるにしろ、己の何かを糧として生きている。


 僕には何もない。何一つない。

 悲しいとか悔しいとか、そんなんじゃないけど。

 なんだか虚しかった。




 長良川の戦い以降、織田家は緊張状態にあった。同盟者であり庇護者であった斎藤道三が死に、彼を殺した息子の義龍が美濃の大名となったからだ。加えて信行さまが虎視眈々と織田家の跡取りを狙っているという。まさに内憂外患だった。


 僕は藤吉郎の元で働いていた。帳簿をまとめたり、人夫の俸禄の計算などをしていた。

 働いてみて、藤吉郎はやっぱり凄いと分かった。足軽組頭でありながら普請も指揮していた。織田家は人手不足だったので、兼任することが多いのだった。その際、割普請という方法を行なっていた。人夫を組に分けて競争させて、一番早かった者たちに褒美を与える。そのおかげで普請がとても早く進んだ。大殿からも褒められたらしい。


「人が望むものを与えれば、人一倍働いてくれるのだ」


 なるほど、そういうものなのか。藤吉郎が自慢げに言った言葉は、僕の心の中に残って消えなかった。

 戦の訓練も受けていた。前田さまの指導は激しさを増していて怪我人も少なくない。織田家が滅ぶかどうかの瀬戸際だから仕方のないことだった。

 弥助さんははりきって訓練を受けていた。今では誰よりも体力がある。訓練の合間に幼馴染の話をされるのは辟易したけど、楽しそうで何よりだった。


 それから大きく変わったことがもう一つあった。


「まあ! もう西遊記をお読みになられたのですか!」

「ええ。面白くて、一気に読んでしまいました」


 お市さまは驚いたように目を見開いた。僕は気恥ずかしくなって、つい平伏してしまった。

 何故だか知らないけど、お市さまに気に入られてしまったみたいで、こうして書物を読ませていただく関係になった。池田さま曰く、大殿を見つけたからと言われたけど、いまいち実感がなかった。

 あの日以来会っていない大殿も「市が望むのなら良かろう」と許可してくださったらしい。


「次は史記をお貸ししますわ。難しいお話が多いのですが、読み応えはあると思います」

「史記? 明の歴史書ですか?」

「あら。お読みになったことがありますか?」

「いえ。名前しか知りません」


 お市さまは「なら楽しめると思います」とまるで天女のような笑みを見せた。


「雲之介さん。あなたは海を見たことありますか?」


 お市さまは書物の話以外にもこうした城の外のことを知りたがった。


「ええ。あります」

「海ってどのくらい広いのですか?」

「果てしなく、そして限りなく広いのです。まるで永久に続くように」


 お市さまは「一度でいいから、見てみたいです」と遠い目をした。


「ねえ。わたくしも――」

「それはなりませぬ」


 侍女の一人がぴしゃりと言った。中年の女性で、名前は鈴蘭らしい。


「お市さまにもしものことがあれば――」

「……分かりました」


 しょんぼりするお市さま。可哀想だった。

 いつか海を見せてあげたい。そう心に誓った。


 そうした忙しくもそれなりに充実した日々が過ぎて。

 長良川の戦いから翌年。

 信行さまが兵を挙げた――




「ああ。怖えなあちくしょう……」


 稲生原。於多井川を少し越えたところ。

 僕の隣で弥助さんが怯えていた。僕も緊張していた。

 何せ向こうは千五百人以上いるらしい。こっちは半分の七百人未満だった。

 長槍を持つ手が震える。

 藤吉郎は別の隊で戦うらしい。僕は前田さまの隊だった。


「なあ。雲之介は人を殺したことはあるか?」

「……いえ。ないです」

「……俺もだ。なんか嫌だな」


 弥助さんは首にかけていたお守りをぎゅっと握った。


「それはなんですか?」

「うん? ああ、幼馴染が作ってくれたお守りだ」


 弥助さんはようやく笑みを見せた。


「これで活躍したら武士になれるかな」

「……分かりません」

「もし武士になれなくても、あいつと添い遂げたいな」

「……そうですね。婚姻の儀のときは呼んでください」

「あはは。気が早いぞ」


 そういえば、お市さまに別れの挨拶、してなかったなあ。


「俺はこの戦に生き残る」

「はい。僕もです」

「お前を守る余裕はない。なんとかしろ」

「それも分かっています」


 そんな会話をしていると、ほら貝が鳴った。攻めかかれという命令だった。


「みなの者、いくぞ! まずは勝家を叩く!」

「おお!」


 前田さまの号令に同じ隊の者たちが応じる。僕と弥助さんも大声を出した。

 長槍を持って柴田さまの隊に列を合わせて突撃した。

 目の前には千人以上の兵たち。僕たちは丹羽長秀という人の隊と共に襲い掛かる。


「呼吸を合わせよ!」


 前田さまの言葉に従って、皆と一緒に長槍で敵を叩いた。


「えい、おう! えい、おう!」


 訓練どおりに叩く。殴る。

 向こうは怯んだ。


「槍衾!」


 前田さまの命令どおり、槍で兵を突く。僕は当たらなかったけど、弥助さんは敵の一人の脇腹を刺した。その敵は口から大量の血を吐き出した。弥助さんの顔が引きつった――


「そのまま押しつぶせ!」


 僕は無我夢中で長槍を前に突き出して走ろうと――


「い、いかん! 下がれ!」


 そのとき、空から矢が降り注いで――

 僕の右腕に突き刺さった。


「――っ!」

「雲之介!」


 痛いと思う間もなく。

 誰かに押されて。

 僕は地面に倒れ伏した。




 腕の痛みで起きた。

 起きなかったほうが良かったと、後悔した。

 誰かの下敷きから這い上がった僕の目の前に広がる光景。


 死体だった。


 矢が刺さった死体。槍で刺された死体。首の無い死体。

 そして、魂の抜け落ちた、死体。


「うっぷ……」


 思わず吐いてしまいそうな臭いと光景。


「く、雲之介……」


 死体に話しかけられた――じゃない、生きている。

 僕を下敷きにしていた人を見た。


 弥助さんだった。


「弥助さん!」


 矢がたくさん刺さっている。僕は抱きかかえて、弥助さんに言う。


「そ、そんな! まさか、あのとき、どうして庇ったんですか!?」


 生き残るって言っていたのに、どうして――


「知らねえよ……身体が動いちまった……」


 虚ろな目。焦点が定まっていない目。


「ああ……俺は死ぬのか」

「そんなこと言わないで――」

「俺は死ぬのか?」


 声は弱かったけど、目が強かった。


「……分かりません。もしかしたら死ぬかも」

「……そうか」


 ふーっと息を吐いて、弥助さんは言った。


「なあ。村の幼馴染に、伝えてくれ。約束を守れなくて、ごめんな」

「……分かりました」


 そして最期にこう言い残した。


「さっき、人を殺してしまったけど、お前を助けて、良かったよ……」


 ふっと魂が抜け出てしまったように。

 弥助さんの顔から生気が無くなった。


「あ、ああ、ああああ……」


 このとき、皮肉なことだけど。

 僕は記憶を失くしてから初めて。

 心から――死にたくないと思った。




 稲生の戦いと呼ばれる戦は大殿の勝利に終わった。そう疲れきった表情の藤吉郎から聞いた。

 嬉しいとは思えなかった。

 ただ、虚しさだけが心に残った。

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