輝きを求めて⑧『まるで獣』

「先輩、今のって……!」


 楓乃は勢いよく机から起き上がり、英人の顔を見る。


「分からん。

 確かなのは、俺ら以外にも『何か』がこの校舎にいるってことだけだ」


 夜の学校に響く、獣の咆哮。

 慌てる楓乃の肩にそっと右手を置きつつ、英人は冷静に状況の分析に努める。


 今の雄叫び、やや濁った音ではあるが、狼のそれと酷似している。

 そして聞こえてくる方向からして、その『何か』がいるのはおそらく三年生の教室辺り。


 何故このような夜更けになって突然そんなものが聞こえてきたのか、という疑問はある。

 だがそれよりも今の問題は――


「声の発生源まで行くべきか、どうか」


 そう呟きつつ、英人は目を細めた。


 現状、英人の体力と腕力は一般的な高校生程度のものでしかない。

 一応当時とは違って『再現』の能力こそ発現してはいるものの、その効力はかなり部分的だ。


 さらにはこの空間おけるルールすら禄に解明できてない状況。


(ちょっと懸念材料が多すぎるな……)


 英人は楓乃の肩から右手をどけ、自身の顎を僅かに撫でる。

 今この場面でリスクを取るべきか否か――判断は、その二つの間で揺れた。


「見に、行ってみます……?」


「それをやるかどうかを今考えてる。

 ……ちなみに、お前は?」


「怖いもの見たさみたいなものは、一応。

 でも怖いものはやはり怖いです」


「……そうか」


 こちらの戦力は現状ないに等しい。

 そして逆に『何か』の方はその力量、ましてや姿でさえ未知数。


 だが突如として校舎に現れた以上、事態解決の手掛かりになる可能性は十分にある。

 それにその『何か』がこちらの都合よく毎晩現れてくれる保証もない以上、これが千載一遇の好機なのかもしれないのだ。


(『探索の魔眼』が使えりゃ、こっからでも見えたんだが)


 だがリスクの面を考えると、ここでジッと隠れていること自体絶対に安全とも言い切れない状況であることもまた事実。

 相手の正体が不明である以上、命を預ける対象がこの古ぼけた扉一枚だけというのはあまりにも心許ないと言えた。


 あらゆる要素を天秤に賭け、英人は数秒ほど思考に耽る。

 そして、


「――動こう」


 図書準備室から出ることを決意した。


「や、やっぱり見に行くと?」


「逆だ。

 声の主に見つからん内に逃げる」


 英人はそっとパイプ椅子を引き、静かに立ち上がる。


 ここから三年生の教室は、ほぼ正反対の方向。

 距離が離れている内から学校外に出てしまえば、少なくとも死亡するリスクはかなり抑えられる。


「でも、相手の姿くらいは……」


「ダメだ。

 確かに一刻も早く元に戻るためにも、リスク承知でも情報収集はしておきたい。そんなこと分かってる。

 だが何の情報も準備もない以上、今やるのは無謀と言う他ない。

 まずは生き残ることが先決だ。分かるな?」


「え、ええ……確かに、命あっての物種ですね」


 楓乃は神妙な顔でコクリと頷く。

 反応を見るに彼女なりに真相を探りたいという思いもあったのだろうが、やはりこの状況では首を縦に振らざるを得なかった。


「よし、じゃあ早速行くぞ。

 極力物音を立てないようにな」


「荷物は?」


 英人は一瞬考え込む。


「……一応、持っていく。

 あと足音消すために、中では上履き脱いでくぞ」


「了解」


 そして英人たちは行動を開始した。

 そそくさと荷物をしまい込み、上履きを脱いで靴下だけになる。


「……上履きはここに置いてく。

 そこらの棚にでもしまっておけ」


「いいんですか?」


「ああ、かさばるしな。

 ……靴は持ったな?」


「はい」


 楓乃は右手で茶色のローファーを掴み、英人に見せつける。

 もしもの時のために、一応下駄箱から取っておいたのが役に立った。


「よし、じゃあ出発。

 くれぐれも静かにな」


「……はい」


 楓乃の返答に無言で頷き、英人はゆっくりと図書準備室のドアを開いた。




 ………………


 …………


 ……




 それから僅かに一分。


 二人は無言のまま、ひたすら階段を降りていた。

 はやる気持ちを抑えつつ、一段一段丁寧に。足音と速度をギリギリのラインで調節しながら。


(……ようやく、二階)


 廊下に印字された数字を見て、楓乃は小さく息を吐く。


 準備室は三階だから、まだ一階分も降り切れていない。

 まだおそらく僅かな時間しか経っていないのだろうが、極度の緊張のせいでそれが永遠にも感じられる。

 先程から断続的に雄たけびが聞こえてくるが、それもいい加減少しは慣れてきた。


 視線を逸らし、前を歩く英人を見る。


 おそらく、緊張自体はしているのだろう。

 だが目の前を背中からは、それを正直に受け入れつつも、冷静に状況に対処しようとする余裕と気概が見える。


 そしてそのような背中に、楓乃は見覚えがあった。


(あの時……そう7月と、全く一緒)


 深夜の山下公園で、楓乃は同じ光景を見た。

 それは脅威に対しては毅然と立ちはだかり、そして守るべきものに対しては安心を与えてくれる姿。

 楓乃にとって、あの夜の出会いは終生忘れられないだろう。


 しばらく経ってその男の正体があの八坂 英人だと確信した時、どれほど驚いたことか。


(……でも、嬉しかった)


 彼がこの10年間、何をしていたのかは分からない。

 でも、根っこの優しさは何一つ変わってはいないと断言できる。


 だがらこそ、私は――


「……よし、着いたぞ。

 靴を履け」


「は、はい」


 瞬間、英人の言葉で我に返る。

 考え事をしている内に、どうやら一階の下駄箱まで到達したらしい。


 ドギマギしつつも、楓乃はローファーを履き始めた。


「んしょ……こっちはオッケー」


「よし」


 楓乃が履き終えるのを確認すると、英人が先頭となって歩き出す。

 そしてゆっくりとした足取りで校舎を出ると、二人の眼前には深夜の校庭が広がった。


 翠星高校の校舎は敷地の北と東をL字型に囲んでおり、教室や職員室は北にある本校舎、そして図書室や理科室等の移動教室は東校舎となっている。

 そして東校舎には本校舎にあるような裏口等はない。

 なので二人は必然的に校庭へと出ることになった。


 獣の咆哮は、依然として三年生の教室がある本校舎の5階部分から響いてくる。

 まだ距離的な余裕は十分にある。


 とはいえ校門はとっくに施錠されている為、どこかから塀をよじ登って外に出るしかない。


 しかし東校舎の裏側は崖のある雑木林。


 なので二人は南側にある、近くの塀まで急いだ。

 位置的には本校舎の正面になってしまうが、こればかりは仕方がない。


「桜木、先に登ってくれ。

 後ろから俺が支えるから」


「は、はい」


 楓乃は頷き、背伸びをして塀へと手を掛ける。


「ちょっと失礼するぞ」


 そしてその後ろから、英人は彼女の膝の部分を両手で抱えて一気に持ち上げた。


「よい……しょっと。

 もう大丈夫です、先輩」


「よし、じゃあ次は荷物頼む。

 受け取ったら、そのまま向こう側に落としてしまっていい」


「はい」


 なんとか塀の上に足を掛けた楓乃に、英人は楓乃の学生鞄を手渡す。


「よいしょ……はい、オーケーです」


「よし、じゃあ次は俺のだ」


 英人は次の指示をするが、楓乃からの返答はない。

 何事かと思い、塀を見上げる。


「先輩、あれ……後ろ……!」


 震える声で呟く楓乃を見て、英人は急いで振り返る。

 すると、そこには。


「グウゥゥゥゥゥッ……!」


 本校舎の入り口に立つ、黒い影があった。



「――今すぐ飛び降りろ! 桜木ッ!」


 その姿を視認した瞬間、英人は怒声を上げる。


 夜闇と距離のせいで、今の英人ではその正確な容貌までは分からない。

 だが長年の経験と感覚により、自分たちが危機の状態にあることを即座に理解した。

 そして、その相手が確実に非日常の存在であることも。


「で、でも……いや、はい!

 先輩、どうか無事で!」


「ああ!」


 英人の反応に楓乃も僅かに戸惑いを見せたが、すぐに首を振って肚を括る。

 そしてそのまま勢いよく塀の向こう側へと飛び降りた。


(よし、これでとりあえず桜木は逃がせた……後は俺だけ。

 だが……)


 英人は目を凝らし、校庭に立つ影をもう一度見る。


 おそらく、雄叫びの主はコイツで間違いないだろう。

 だが、その声はつい先程まで本校舎の5階からしていた筈だ。

 だが窓の様子やガラスの割れた音を聞かなかったことから、窓を突き破ってここまで飛び降りて来たとは考えづらい。


(単純に脚が速いのか、それとも瞬間移動か何かの能力……?)


 そう思考しつつも、そのまま塀へ向かおうと英人は重心を静かに動かしていく。

 だが、次の瞬間。


「――っ!」


 英人は振り返る事を止め、突如右方向へと跳んだ。


 それは、長らく戦場にその身を置くことで研ぎ澄まされてきた直感。

 このまま動かなければ刹那の後に死ぬ、そう英人の脳細胞と全身が瞬時にそう判断したのだ。


 シィイイン!


 そしてその直感通り、一瞬で距離を詰めた影が英人の真横を切り裂いた。


「く……!」


 跳んだ勢いのまま、校庭の上へと転がるように倒れ込む英人。

 同時に左腕の肘の辺りから、鋭い痛みと熱さが込み上げてきた。


 どうやら、今の体では完全に躱し切ることは叶わなかったらしい。


(……俺の人生、つくづく左腕と縁がないな!)


 心の中で悪態をつく英人。


 そして立ち上がりつつ、肘より先がなくなった腕を横目で見つめる。

 直後、斬られた左腕が何処かへ落ちる音が生々しく響いた。


「――グウウッ!」


 まさに、絶体絶命の危機。

 止めとばかりに影は再び英人へと迫る。


「しぃっ!」


「グッ!?」


 だが英人は血に染まる左腕を振り上げ、その飛沫を影に浴びせた。

 ちょうど目に入ったらしく、影は一瞬怯む。


 すかさず英人はその股関節の辺りを思い切り蹴飛ばした。


「グッ……!」


 僅かな唸り声を漏らしながら、影は尻もちを搗くようにその場に倒れ込む。

 その時、雲間から僅かに漏れた月光が影の全貌を照らし出した。


「な……!」


 その姿に、英人は思わず絶句する。


 それは形こそ二足の人型であったが、その全てが人間離れしていた。


 鋭い爪に、鋭い牙。

 そして上半身を覆う分厚い毛皮は、月明かりで鈍く光っている。


 人の体に、狼の姿。

 それは比喩でもなんでもなく、狼のような人間だった。


 そしてその存在は、『異世界』においてもこの世界においてもこう呼ばれている。


(『人狼ワーウルフ』……!)


 それは『異世界』に実在する、『魔族』。

 昼は人間として過ごし夜は魔獣として容赦なく牙をむく、正真正銘の化け物であった。


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