神なるもの⑪『その手を掴め』

 午後7時。


 街灯もない伊勢崎村を漆黒の闇が包んでいく。しかし今日だけは、この村においてもなお明るい場所があった。


 それは伊勢崎神社――村における唯一の神社であり、『オオモリヌシ』を始め先祖の霊を祀る聖地。さらにその裏側に広がる山林を、村では『神域』と呼んだ。

 そにこは『オオモリヌシ』様が住み着いている場所と考えられており、たとえ村人であってもそこへの立ち入りは禁じられる。いわば伊勢崎村における禁足地であった。

 

 そして今宵、『神域』へと続く門が開かれる。

 『巫女参り』の日だけは厳重に閉ざされた門を開放し、桓本かきもと家と人間と巫女役のみがその出入りを許されるのだ。



「ふむ。色々あったが、今年もなんとかなりそうじゃの」


 境内の様子を眺めながら、祭祀用の衣装に着替えた登美枝とみえが満足そうに呟いた。

 境内にはいたる所に設置された篝火が妖しく揺らめいている。さらにその中央にはそれらの何倍もあるような巨大な篝火が、境内全体をぼんやりと照らす。

 既に村人もほぼ全員が集合済み。清川きよかわ団平だんぺいと風音の姿はないが、致し方ないことだろう。 


「枯れ木も山の賑わいとはいうが……昔はもっと盛り上がっておったんじゃがの」


 かつて、この伊勢崎村の人口は1000人を超えていた。余所と比べて収穫量も多く、さらにはその余った作物を求めての交易も盛んで……本当に、ここは豊かな村だったのだ。

 しかし戦後から急速に衰退が始まり今はもう見る影もない。気づけば人口も100人を切り、今や村には死を待つだけのような老人しかいない。

 作物は今も十分に獲れているはずなのに、何故。


「じゃが、きっと『オオモリヌシ』様が助けて下さる。

 900年前のように、我らを豊かにして下さる」


 言い聞かせるように登美枝がぶつぶつと呟いていると、ゆっくりと戸が開いた。


「……登美枝様、準備が整いました」


 顔を出したのは、世話係の女性。

 そして――


「うむ、じゃあ行こうかの――美鈴みすずや」


「……はい」


 虚ろな目で純白の巫女装束に身を包んだ、美鈴の姿があった。



 ………………


 …………


 ……



 拝殿の扉が開く。


「おお……!」


「あれが……!」


「秀介の忘れ形見か……!」


 登美枝に手を引かれる形で姿を現した美鈴に、村人たちは俄かに色めき立った。

 あれこそが、今回の巫女。村を救う象徴。



 ――ドン。



 太鼓がひとつ、鳴った。



 ――ドン、ドン。



 静寂を打ち破るその音は、次第に感覚を狭めていく。



 ――ドンドンドンドン!



 中央の篝火にはさらに薪がくべられ、太古の鼓動と息を合わせるようにするように炎の勢いを増した。

 これは清めの炎。

 嫁入り前の巫女の体を、さらに清めるためのものである。


「……」


 美鈴は虚ろな目のまま、吸い寄せられるようにに篝火へと向かっていく。

 その一歩一歩の頼りなさが、むしろ祭りの神聖さを演出していた。

 篝火の前まで到着すると、ゆったりと舞うようにその周囲を回り始めた。


 一周目は『オオモリヌシ』への感謝。

 二周目は先祖の霊への感謝を思い浮かべながら、その様子を見るのが昔からの習わし。

 周囲を囲む村人は皆、手を合わせてその様子を眺めていた。


 炎による湯浴みを終え、いよいよ『オオモリヌシ』へと嫁ぐ時が来る。


「さ……こっちじゃ」


『神域』へと続く門の前で、登美枝が手招きをした。


「……」


 美鈴は力なく頷き、ゆっくりと歩き始める。

 これ以上は村人も追いかけることはできない。ただ桓本家当主である登美枝が一人で戻ってくる時を黙って待つだけである。

 中で何が行われているかは分からない。しかし、共に帰ってきた巫女役はひとりとしていないことだけは事実であった。

 もちろんそれを追求するような人間はいない。何故なら『オオモリヌシ』様、ひいては桓本家に逆らってはいけないから。

『オオモリヌシ』様の加護によって村に安寧が保たれている――そのただ一点だけが村人にとっての真実なのだ。


「うむ。さ……この手を」


 登美枝はゆっくりとその皺だらけの手を差し出した。


「……はい」


 その言葉になんの疑いも持つこともなく、美鈴はそっと手を伸ばしていく。


 先程から、頭がボーっとして思考がまとまらない。ただ、この目の前いる老婆の言葉だけが心地よい。


 気持ちがふわふわする。

 時間がゆったりと流れている気がする。

 思考がどろりと溶けていく。


 ――ああそうだ。ずっと、私の心には穴が空いていた。

 母が死んでから今まで、心のどこかにぽっかりと穴を空けながら生きてきた。


(……この手を取れば、埋まるのかな)


 うん、そうだ。

 きっとそうに違いない。だからこのまま流されてしまおう。

 このまま――



『――美鈴ちゃん』



 ピクリと、美鈴の手が止まった。


「ん、どうした? 早う手を取らんか」


『――ダメだよ、その手を取ったら』


 聞き覚えの無い声だった。

 でも、不思議と――


「姉、さん……?」


「!? 美鈴、お前……!」


 瞬間、美鈴の思考は一気に覚醒していく。

 朧げだった視界は澄み渡り、体は徐々にコンロレールを取り戻していった。


「私は、一体……?」


「まさか、毒から目覚めたのかっ!?」


「毒……?」


 不可解な現象に、「毒」という不穏なワード。

 不審に思った美鈴は一歩二歩と登美枝から後ずさった。


「登美枝さん、貴方は私に何を……」


「いやなに、今のは言葉のアヤじゃ。

 ほら、それより早うこの手を。巫女の務めを放棄するのかい?」


 登美枝は驚きつつも、手を伸ばして美鈴へと歩み寄った。


「い、いや……そ、そうだ八坂さんは!?

 八坂さんはどこに行ったんですか!?」


 周りをキョロキョロと見渡しながら、美鈴はさらに後ずさる。

 前から迫るのは吹けば飛びそうな程にか弱く小さな老婆。


「なに、少し遠くに行ってもらっただけじゃよ。

 ほら、この手を」


 しかしその表情は人間と認めるのをためらうほどに邪悪なものだった。

 おそらく、その手を取ったら二度と戻ってこれないと確信できる程に。


「まさか、八坂さんを――ッ!」


 だが言い終えようとした瞬間、踵が石畳に引っ掛かかる。


(あ……)


 体はバランスを崩し、夜空を仰ぎながら倒れ込んでいく。

 何か掴もうと必死に手を伸ばすが、虚しく空を通り抜けるばかり。

 もう、駄目なのだろうか。



『――大丈夫』



 倒れる間際、そんな声が聞こえた気がした。

 次の瞬間。


「――――俺は、ここにいる」


 その手を掴む男がいた。


「あっ」


 驚く間もなく、手が力強く引かれた。

 気付けば、何事もなかったかのように美鈴は立ち上がっていた。


「八坂、さん……?」


「遅くなって申し訳ない。

 ケガは……どうやらなさそうだな」


「は、はい……」


 訳のわからないまま、美鈴はコクコクと頷いた。


「お、お前は……!」


「どうも村長」


 英人は小さく会釈した。

 対する登美枝は表情を歪めて怒号を上げる。


「死んだはずではなかったのか!」


「まあ、そこは色々ありまして。

 というわけで――」


 英人は登美枝の前に立ち、小さく息を吸う。


「この祭り、滅茶苦茶にさせてもらいます」


 それは、登美枝を体を突き刺す程の鋭い双眸だった。

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