10.王たちの幕間

[10]明け方の逢瀬


 朝になる前の未明、砂漠の陽炎が上りたつように空を見あげている人物がいる。

 白みかかった空には紫に近い色の雲が流れていて、地平線には灼熱の光体が姿を現しはじめていた。刻一刻と変化してゆく空を眺めながら、彼は視線を見渡すように揺らす。


 叫べば届くほどの距離に、人影がある。

 それは彼にとって既知の人物であり、望ましい相手でもあった。


「セルシフォード」


 呼びかける声に笑みが混じる。全身に闇色の衣をまとったその人物は、夜明けの輝きの中でさえ影のように見えた。

 その影がこちらへ足を踏みだすのを見て取って、彼もまた砂を踏んで歩きだす。


「何やらだいぶ久しぶりな気がするな。五体満足に今日も生きていたか」

「ご挨拶だな、ザレンシオ。君こそ、相変わらず勤めのないときには遊び歩いているのか。この間、ラジェスが激怒していたのを見かけたぞ」

「ははは、ラジェスはいつものことだ! 俺が余暇を使って何をしようと自由ではないか」


 楽しげに軽口を叩きながら、彼は闇色の魔族ジェマの側まで行くと右手を差しだした。燃える炎のような癖の強い真紅の髪が、砂漠の乾いた風に煽られ舞い踊る。

 姿勢よく均整のとれた全身と長い手足は細すぎも太すぎもなく、背丈も見上げるほどに大柄だ。だが顔立ちは戦士のようではなく、下がったまなじりと優しげな風貌が柔らかな印象を醸しだしている。丸い耳は人間族フェルヴァーの象徴だ。 


 対する闇色の魔族ジェマは、華奢きゃしゃというほどでもないが細い体躯たいく、長い絹糸のような癖のない黒髪、切れ長の目と通った鼻筋の冴えた美貌の青年だ。細く長い指がつかむ黒塗りの杖も細い。すべてにおいて線の細さが印象に残る、そんな人物だった。


 何もかもが対照的なふたりは、砂漠の真ん中で固く握手を交わす。


「本当に、久しぶりだな」

「ああ。……いいのかい? 黙ってわたしと会ったなんて聞いたら、ウィリルが怒るだろう」


 翼族ザナリールの女王ウィリルソフィアが人間族フェルヴァーの王ザレンシオと恋仲なのは、世界レベルで公認の事実だ。そして彼女が、自分の民を苦しめる決定を下した魔族ジェマの王セルシフォードを強く恨んでいることも、また。

 しかし一方で、ザレンシオとセルシフォードが親友であることも事実である。

 板挟みともいえる状況にあっても、ザレンシオの態度は変わらない。芝居がかったふうに人差し指を振って、片目をつむってみせる。


「わかってないな、セルシフォード。彼女の怒りは砂漠の雨のように短期間の豪雨となって降り注ぎ、からりと晴れるのだ。つまり雨上がりは快晴さ、心配することはない」

「その戯言を聞いても怒るだろう。……というかやはり怒っているのだな、ウィリルは」


 苦笑しかできない闇の王に対し、ザレンシオは表情を取り直し深いため息をついた。


「当たり前だ。あれだけの苦難を背負わせられて、怒るなというほうが無理さ。一番可哀想なのは翼族ザナリールたちだ……俺は、見ているのが辛い。……セルシフォード」


 険しく細められた深紅の両目が、闇色の魔族ジェマを鋭く射貫く。


「どうしても、やめられないのか?」

「……済まない」


 答えは、事の始まりから幾度も繰り返されて変わらない。しかしセルシフォードの夜色の目には、わずかな揺らぎも映っていた。


「今ここでやめては、すべての命が――無駄になる」

「そうか」


 親友とはいえ、ザレンシオはセルシフォードの真意をいくらも理解できてはいない。だからこそ賛同することもなく、自分の民が魔族ジェマと争うのを止めるつもりもない。

 けれど親友であるからこそ――闇の王である彼の本質が冷酷とはほど遠いことも、理解しているのだ。だから、ザレンシオは問う。


「君は、大丈夫なのか」

「……わたしは、わからないんだ」


 儚い月のような笑みを浮かべて、セルシフォードは悲しげに呟いた。

 だれにも理解されず、理解もできないであろう痛みを、その瞳に閉じ込めて。


「創世主はなぜ、まがう魔性を消滅させず、我らの中に封じ存在させたのだろう――と」


 その答えを、当然ながらザレンシオは持っていない。

 精霊王の統括者も、他の種族王たちも、誰一人答えることのできない疑問だ。

 



 ***



 

 幼い少年は、すべてを失っていた。


 愛してくれるはずの存在は何一つなく、それがゆえに少年は愛を知らなかった。

 孤独を温めてくれるはずの者は誰一人おらず、それがゆえに少年は孤独を知らなかった。


 寂しさと、悲しさと、切なさと、痛さと――、

 それらを埋めるだけの温もりを与えてくれるものが何一つなかったゆえに、少年は、知らなかった。


 それらの存在を。

 それらを欲することを。

 得られぬゆえに涙を流すということを。



 知らないことは、あるいは幸せだったのだろうか?

 知ってしまったあとの、なお耐えがたい心の痛みに比べれば。




『君、名前がないのか? そりゃあ不便だな。よし、俺が名前をつけてやろう』


 負ければ喰われてしまうのだと思っていた頃、それを覆したのは、名も知らぬ一人の男。

 打ち負かされたはずなのに、与えられた。


『君は、魔族ジェマの子なのだな。でも〝ジェマ〟じゃそのままで芸がないから――』


 自分は名付けの才がないと言って笑った。

 なぜそんなことで笑えるのか解らなかった。

 それ以前に、笑い方を知らなかった。

 燃えるように輝く、炎の色の髪。


『ジェルマってのはどうだ? 〝愛しき魔族の子ラー・ジェマ・イーシャ〟――、人には知られぬ俺たちの言葉で、そういう意味を持つ名だ。こんなこと教えたってきっと、すぐに忘れてしまうのだろうが、それでも記憶のどこかに残るといいな……』


 与えられたのは、その名に込められた、愛。

 けれど。


 たったひとつだけの記憶など、向けられた憎しみが凌駕りょうがしてしまったから。

 思い出だけではどこにも足りない。


 失われた、すべてには。




 ***




 砂をあぶる灼熱の太陽が天頂近くに差し掛かっている。

 あれから砂漠に点在するオアシスまで足を伸ばしたふたりは、木陰に腰を下ろして穏やかな時間を過ごしていた。


「そういえば、セルシフォード」


 ふと思いだしたようにザレンシオが、木陰で本をめくる闇色の友に声をかける。


「なんだい? ザレンシオ」

「今思いだした。君に確かめたかったことがあったのだよ。少し前、世界中の話題をさらった狂王のことを憶えているかい?」

「……ああ、憶えているよ」


 魔族ジェマ人間族フェルヴァーを巻き込んで、あわや帝国の滅亡に至るのではと噂されたほどの災禍さいかだった。あれから年月は経ったが、寿命などないに等しい彼らにとってはつい先日のことにも等しい。

 怪訝けげんそうにセルシフォードは、ページをめくる手を止める。


「それと、君がクロ助に泣きつかれてこっそり助けてやった、妖精族セイエスの少年」

「どうして知ってるんだ、嫌な奴だな」


 まったく関係のない、だが知られるといろいろと面倒な所業がまさかザレンシオの口から飛び出すとは思いもよらず、セルシフォードは困惑もあらわに眉を寄せた。


「ザレンシオでさえ知っているということは他の王たちも……なんてことだ」

「君は証拠隠滅が下手なのさ。ウラヌスにだってしっかりバレていただろう。君に問い詰めたところはぐらかされたと、なぜか俺のもとに怒鳴り込んできたよ」


 笑みを含んだ親友の言葉に、闇色の魔族ジェマはその切れ長の目を半眼伏せる。


「それは悪いことをした。……まさか当人あの子の所にも殴り込みに行ったのではないだろうな」

「ウラヌスが訪ねて行ったかどうかまでは知らぬが、君が助けた少年と、例の狂王と、接触があったらしい」

「どういうことだ? わたしは助けたつもりで、禍の種を植え込んでしまったのか?」


 根が生真面目な友人が頭を抱え込むのを見て、ザレンシオは苦笑いを浮かべる。


「なぁに、気に病むことはないさ。『姿無き統括者』が血相変えて怒鳴り込んでくるなど、滅多にできぬ経験だ。又とない機会を、あるいは感謝していたりするかもしれないさ。それより…………気になることを思いだしてね」

「気になること?」


 読みかけの本を閉じて、セルシフォードは友人に向き直った。

 ザレンシオの瞳に、常の彼にはあまり見られない険しさに似た真剣さがあるのを見て取って、胸の中に不安の塊が湧き起こる。


「セルシフォード。君は、あの狂王の名を知らないか。……もしや」


 そこで一度言葉を切ると、ザレンシオはなにかを呑み込むように息を詰め、呟くように言った。

 ――まるで、禁忌に触れるかのように。


「ジェルマと、言わないか」


 セルシフォードは黙って顔を上げ、ザレンシオを見返した。

 その問いを考えるよりも、炎の王らしからぬ欝屈うっくつさに彼は気を取られていた。


「『愛しき魔族の子ラー・ジェマ・イーシャ』……?」


 蘇る記憶に、セルシフォードは思わずザレンシオを真っ正面から見つめる。

 ほかの誰でもない、ほかならぬザレンシオ自身にとって。それは苦みとうずきをともなう想い出につながる名前、だったのだから。





[Scenario2 Complete! & to Scenario3] 


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