平成東京大学物語
@toudainovelist
第0話
ぼくは35歳で、うつ病になり、会社を辞めて、無職だった。特にやることもなかったので、母校の、東大へやってきた。図書館で、本でも読もうと思ったのである。春の訪れが近いことを予感させる、穏やかに晴れた日だった。丸の内線を本郷三丁目で降りて、本郷通りを東大へ歩いていった。学生時代を思い出さずにはいられなかった。交差点のところの交番の向かいで、ほそぼそと煙草や雑貨を売っていた「かねやす」は、廃業していた。やはり、のんびりと商売をやるには、あまりにも厳しい時代だからな、とぼくは思った。ぼくがかつて住んでいて、そこから東大へ通っていた、下北沢の町も、訪れるたびに、小さな古本屋や古着屋、定食屋がなくなっていた。そうか、「かねやす」も、店じまいしたのか。ぼくの胸に、ポッカリと穴があき、冷たい、乾いた風が吹いているような気がした。時代は、変わる。時代は、風に吹かれている。
赤門で、何組かの人々が記念写真をとっていた。在学中にもよく見た光景で、ぼくは微笑ましく思った。おもむろに、思い当たった。いつか再就職先が決まったときには、卒業証明書が必要になることもあるかもしれない、と。そこで、卒業証明書を取得しておくことにした。赤門の前を行き過ぎて、正門を回って、キャンパスへ入った。雲ひとつない青空と、東大の建物の煉瓦の外壁が、くっきりとしたコントラストをなしていた。ぼくのように、人生の喜びのかなりの部分が、美的なものを愛する、ということに占められている人間の場合、年齢を重ねるにつれて、東大の重厚なゴシック式の建築群の美的価値を、さらに深く理解するようになる。ぼくは、日本で最高の大学で青春を過ごしたことを、誇らしく思った。
銀杏並木を、まっすぐと安田講堂の方へ向かっているときに、前日が、入試の合格発表日だったことに気づいた。並木道の右側に、木の板に白い紙がはられ、合格者の受験番号が並んでいた。日本でもっとも熾烈な試験競争を戦い抜き、ライバル達を蹴落とし、もっとも優秀な頭脳と認められた若者たちの受験番号が、いくつも並んでいた。間違いなく、日本で、一番将来を期待されている若者たちだった。ぼくも、かつてそうだったように。ぼくは、合格発表の日、自分の受験番号が貼り出されているのを、この目で直接見ることはなかった。田舎にいたので、東京にでてきて、栄光の瞬間を喜ぶ余裕がなかったのである。しかし、貼り出しの紙は写真に撮られ、その画像データが東大のホームページにアップされていて、ぼくは、3、4人の友達と一緒に、漫画喫茶に入って、それを見たのであった(ぼくの家にまだインターネットは通っていなかった)。結果は、合格。ぼくは、日本で最高の知性をもつ受験生の一人と、認められたのだった。そのとき、ぼくは、妹に、世の中は意外と甘いものだったと、メールで、一報をいれた。
貼り出し表の前で、自分の受験番号を指差して撮影している、何組かの人々がいた。安田講堂の前に立ち、栄光を勝ち取った勇姿を、写真に収める人々もいた。東大は、疑いなく、日本でもっとも写真が撮影される大学であることに、ぼくは気づいた。日本で最高の大学なんだから、それもそのはずであるなと、ぼくは思った。思いがけない発見に、ほほえみすら浮かべていたかもしれない。そのとき、ぼくは、二人の若い男たちに声をかけられた。
「医学部ってどっちですか?」
昔この大学に通っていた者として、ぼくは答えた。
「医学部ですね…。向こうです。この通りをまっすぐ行って、あの、向かいに見える建物に突き当たったら、左手のあたりですね…。」
もちろん、かつて東大生だったぼくは、東大のことを、熟知していた。
その日ぼくは、コム・デ・ギャルソン・オムのコートとジャケットを着ていた。どちらも、自分に合うサイズのものを、メルカリで探して買った。ギャルソンと、東大。それに、ぼく。悪くないコラボレーションだな、とぼくは思った。でも、ぼくは無職だった。
久しぶりに見上げた安田講堂は、まさに国内全725大学の頂点に立つ東大の象徴と呼ぶに、ふさわしい威容だった。そしてぼくは気づいたのだが、あの独特の形状は、この日本という社会の頂点へとのぼる、栄光の階段をあらわしているのに違いなかった。最初の段に足をかけられるものは多いが、頂点までのぼりつめられるものは、一握りなのだ。それが、よくよく、見事に、表現されている。まるで、学生たちに、警鐘をならしているかのように、思われた。安田講堂の前を歩いているとき、ぼくの頭の中には、この日本で最高の大学に入学したころによく聞いていた、BUMP OF CHICKENというバンドの、「天体観測」という曲が、流れ出していた。ぼくは、教務課で卒業証明書を受け取ると、図書館に入った。
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