第33話

 事務所に戻った良壱は残り少ない膂力を振り絞るようにして寝床に潜り込んだ。

物音に気づいて布団から起き上がると、肩のあたりに仄暖かさを感じた。電気ストーブが赤々と燃えている。気を利かして清架が点けてくれたに違いない。両手で目を擦りながら首を回すと、襖は開け放たれていて清架の姿は見当たらなかった。

「目が醒めた?」

 清架が階段を上がって来て、目ぼけ眼の良壱に声をかけた。

「ああ」

 寝起きの姿を見られたくなかったのか、良壱は恥ずかしそうに両手で顔面をごしごしと擦りながらいった。

「朝ごはんの用意ができたから……」

「朝ごはん?」

 これまで家で朝飯なんか食べる習慣のなかった良壱は、頭のなかが混乱してどうリアクションしていいか戸惑った。

 しばらくすると、清架が階下の台所からふたり分のライ麦のトーストと目玉焼きをお盆に載せて笑顔で部屋に入って来た。良壱は慌てて布団を畳むと。その場に正座をしてしまった。小さなテーブルの上を素早く片づけると、

「いまコーヒーを持ってくるから」

 そういってふたたび階下に駆け降りて行った。

「コーヒーの粉が残り少なかったから、ちょっと味が薄いかも」

 勢いよく湯気の立ち昇るコーヒーカップをテーブルに置きながらいった。

「これ清架が拵えたのか?」まだ意識が整われてないままの良壱。

「そう。だって昨日遅かったみたいだから、朝ぐらいはちゃんと食べさせようと思ってね。でも、目玉焼きは塩だけで我慢してね。だってソースも胡椒もないんだもん」

「だって、パンも玉子もなかったろ?」

「うん。良壱の寝ている間に、そこのコンビニでちゃっちゃっと買って来たの。そんなことどうでもいいから、冷めないうちに早く食べて。せっかくの目玉焼きが冷たくなっちゃうじゃない」

 良壱にしてみればこんな朝食は長いこと食べてない。いつもは朝昼兼用か喫茶店のモーニングですますくらいだ。ふたつの黄身が少し硬くでき上がってはいたが、いつもとは違って新鮮さを感じた。

 ふたりはしばらく黙ったままで簡単に箸で解れない目玉焼きと、味の薄いコーヒーを啜った。

「ねえ、訊いてもいい?」

 清架は箸をきちんと置いて、遠慮がちに良壱を見る。

「うん?」

「昨日のことだけど、どうだったの?」

「横井さんのことか?」

 良壱はわかってはいたが、少ししらばっくれるように訊き返した。

「そう」

「結果からいうと、金庫のダイヤル番号は聞き出せなかったよ」

 良壱は、すっかり冷めてしまった薄いインスタントコーヒーを口に含んだ。

「えッ! だめだったの? どうして?」

 期待に反した良壱の言葉に、つい目を見開いてしまった。

「話せば長いんだけど……」

 良壱はそう切り出したあと、横井氏に聞かされた自分の『死』についてや、その後の対処の仕方など一部始終を話して聞かせた。

「ヘえッ、そうなんだ。私も良壱と同じで、自分の死についてなんか真剣に考えたことないよ。だって、まだ先が長いのにそんなこと考えて毎日生きて行きたくない」

 清架は眉根に皺を寄せて嫌なものでも見るような顔でいった。

「そうなんだけど、誰しも必ず訪れることだけに、顔を背けてばかりいられないということを教わった気がする」

「それはそうとして、依頼人にはどう説明するのよ」

「そうなんだよ。いろいろ考えたんだけど、横井氏の考えを尊重して、ダイヤル番号は忘れてしまったということにしようと思う。だって教えてもらえなかったのは嘘じゃないんだから……」

「そうね」

「清架、このなかに横井氏のスナップ写真が入ってるから、あとでプリントアウトしておいてくれないか?」

 そういって良壱は畳みの上に放り出してあったスマホを渡した。

「わかったわ」

 返事をした清架は、テーブルの上のみすぼらしくなった朝食の残骸を片づけはじめた。

 良壱は事務所に行くと、依頼人の横井婦人へ横井氏からのメッセージである「ずいぶん前にダイヤル番号を書いたメモをなくしてしまったから、いまとなってはまったくわからない」という言葉をワープロソフトで作成し、清架に頼んであったスナップ写真と共に横井婦人のもとへ送付した。

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