第17話
それを見た良壱は、自分はタバコを吸わないけれど、たまに吸いたいという客のためにひとつだけデコボコに変形したアルミの灰皿があったので、そっと吉野の前に置くと、何かに背中を押されるように話をつづけた。
「これまでにも何度か撮影を失敗したことがありました。僕はシャッターを押したあと必ずチェックするようにしてるんです。この前もそうでした、ちゃんと写ってることを確認したんです。でもこちらに戻って再度確認しようとて開いたら、奥さんの姿だけが消えていたというわけです。だから……」
そこまでいいかけたとき、正面で口をへの字にして良壱の話を聞いていた吉野が、ようやく口を開いた。
「きょうわしがここへ来たのは、そんなことじゃない」吉野は良壱の顔から少しも目を離すことなく、タバコを灰皿に圧し付けた。「どうもあんたは勘違いをしているようだな。きょうここに来たのは、あんたに礼をいいに来たんだ」
「礼ですか?」
良壱は意味がわからないといった顔で小首を傾げる。
「そうじゃ、わしはあんたがあいつのもとへ届けてくれたことを感謝してるんだ。前にも話したが、わしはあいつに散々苦労をかけた。それがあいつが死んでからようやくわかった。恩返しをしたいと思っても死んでしまってからはどうすることもできん。わしは何日も後悔しつづけた。そんなある日、あんたが宅配業をやってることを耳にしたので、生前あいつが欲しがってた珊瑚の帯留めを届けてもらおうと思った。
あんたが引き受けてくれたことで、それまでざわざわと騒いでいたわしの胸のなかが嘘のように静まり返った。わしは、あんたが持って帰ったあいつの伝言で、『もう一度わしと暮らしたい』――わしはあの手紙を見たとき、恥ずかしながら思わず涙を零してしまった。わしはあいつを女房にしてよかったと思ったよ。それだけで充分なんだ。だから証拠の写真なんてどうでもいいんだよ」
吉野も話しながら奥さんのことを思い出したのか、ときどき声を詰まらせているように見えた。
「そういって頂けると、私もお引き受けした甲斐があります。でも正直いって、私もお金を頂いてやってるわけですから、あのような写真になってしまうと本当に心苦しいんです。今回もお叱りを受ける覚悟でいました」
良壱も吉野と一緒で、これまでの様々な胸の痞えが霧消したことで安堵した。
「そうだろうな。あんたがわしの顔を見たとたん腰の引けるのがわかったよ。はっはっは」
吉野の大きな笑い声に愕いたバタやんがギィギィと嫌な声で鳴いた。
「わしの用事はこれですんだ。あまり仕事の邪魔をしたらいかんからこれで帰ることにする。そうそう、これを」
そういいながら吉野が男の顔を見る。男は心得ていたかのように黒服の内ポケットから白い封筒を取り出すと、吉野に手渡した。
「これなんだが、わしのほんの気持だ」
吉野は封筒を良壱に前に押し進めながらいった。
「何でしょう?」
良壱は、デスクの上にある封筒をじっと眺めたまま訊いた。
「だから、わしの気持だといっただろ、少ないけど仕事の足しにしてくれ。いっぺん懐から出したもんは引っ込めることはできん。わしに恥をかせるようなことはせんでくれ。それと、そんなことはないかもしれんが、もし仕事でもプライベートでも揉め事が起きたらわしんとこへ来なさい。いつでも力になるから。それじゃあ、わしはこれで」
手にしていたステッキに頼りながらようやくのように腰を上げると、吉野は振り向くこともなく事務所を出て行った。
封筒を手にしたまま見送った良壱は、吉野の姿が見えなくなると、全身の力が抜けてへたへたとイスに坐り込んでしまった。
しばらくして、気を取り直した良壱は、バタやんに向かって声をかけた。
「バタやん、きょうはおりこうだった。えらいぞ」
「オリコウダッタ。オリコウダッタ」
バタやんは止まり木の上で何度も小さく跳ねた。
(こんなもん置いていって)
良壱はデスクの上に置いたままになっている白い封筒を手にすると、表と裏を交互に眺めた。そしてなかをあらたようとしたとき、「イクラ。イクラ」とあいつが止まり木の端に寄って声を上げる。
「いいから」目と口で戒めた良壱は、おもむろに封筒に息を吹きかけた。
片目を瞑ってなかを覗くと、一万円札の肖像画が斜めに見えた。指先で摘んで封筒から引き出すと、一瞬目を疑った。謝礼といってたので一、二枚だろうと高を括っていた良壱だったが、何となかからは十枚の札が出て来たのだ。
指先で札を強く握っていた良壱は、そのまましばらく考えていたが、いまさら返すこともできない謝礼をありがたく頂戴することに決め、十枚の札を封筒に戻した。
隠し金庫に封筒を納めた良壱は、昼飯がまだだったのを思い出し、ふたたびドアのカギを閉めるといつもの定食屋に向かって歩きはじめる。
当然のことながら、街の景色に不釣合いな黒塗りの車はなく、のどかな町並に戻っていた。なぜか空を見上げたくなって顔を少しだけ上に向ける。ガラスの粉が散りばめられたように見える空は陽光のなかにキラキラと耀き、いつもとは違って見えた。
良壱はふと気が変わって、チャーハンと餃子が食べたくなり、このあたりには中華料理店がないので、少し遠くまで歩くことにした。
(そうだ、きょうはいいことがあったから、特別にバタやんに殻つきの落花生を食べさせてやろう)
良壱はそんなことを考えながら、いつも曲がる道とは反対方向に歩いて行った。
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