啼き声

 六時ごろから順次停泊地を発ち、六時三五分に旗艦三笠が先頭に立って連合艦隊第一艦隊と第二艦隊は出撃。三十分ほど後には外洋へと繰り出している。


 明けたばかりの海が、延々と続いている。喜市郎は持ち場である砲台に立ち、それを同じ色の瞳でもって睨んでいた。

 彼の手を震えさせるのは緊張というような種類のものではなく、ましてや速力を上げながらまだ見ぬ敵艦隊を目指す三笠のエンジンでもなかった。

 不思議なもので、手はそのような具合に震え、さらににかわでも触ったかのようにべっとりと粘りついているのに、脚はここが艦の上であることを思わせぬほどしっかりと立つことができていたという。

 波は、高い。喜市郎は、三笠と共に、その波に浮かび、沈んでいたのだろう。

 両軍のはじめの戦闘は、午前十一時四十二分ごろ。バルチック艦隊の方から、連合艦隊第三艦隊に向けて発砲してきた。連合艦隊の方も応射するが、すぐに距離を取って目視域から外れたためにこのときには両軍とも目立った損害は生じなかった。

 三笠には、それを報せる入電があった。喜市郎らのところに同時にその報せがもたらされることはなかったが、艦全体を覆う気のようなものが明らかに変わっているので、これは何かあったな、と判じざるを得なかった。

「こんな素人も同然のもんがな、戦いの気ぃみたいなもんを読めるようになってしまう。艦の上いうのは、そういうもんや。それは、ものすごい怖いことなんやと思う。どんな素人でも、すぐ玄人にしてまう。怖いことやわ」

 と、彼はのちにこのときのことを思い返して言った。

 喜市郎は、痩せて飛び出したようになっている青い目をぎょろぎょろさせ、砲台の向こうに敵艦の姿があらわれはしないかと探してしまっていた。

 その喜市郎がいよいよ砲台を操縦するための棹を強く握り締めたのは、それからちょうど二時間後のことだった。


 敵艦、視認。三笠に、戦闘旗が掲げられる。

 戦闘体勢を取るべく、高い波を蹴散らして進路を変更する。十五分後、戦闘旗のほかに味方への信号旗も掲げられる。信号旗には複数の意味があり、その旗ごとにアルファベットが当てはめられていた。

 このとき掲げられたのは、その最後の一文字、Zの旗。黒、黄、青、赤の四色があしらわれたその旗を見上げ、兵たちは喚声を上げた。

「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層、奮励努力セヨ」

 そう、三笠が後続する全艦に叫んでいる。

 じりじりと、剣道に例えるならば剣先同士を触れ合わせて相手の呼吸を窺うようにして、両艦隊は接近、姿勢変更を続けている。

 その十分後、十四時五分。三笠の船体が、いきなり啼いた。その声を聞いて、喜市郎は背を粟立たせた。

「こいつや。こいつが、武ちゃんを殺したばけものやったんや」

 思わず、口に出していた。

 あの、漆黒の化け物。それは大きな口を開けて襲ってくるようなものではなかった。自ら乗り組むこの巨大な鯨こそが、喜市郎がばけものと呼ぶものだったのだ。

 敵艦隊の直前で、いきなり大きく艦首を左に回す。自分の横っ腹を、見せ付けるように。

 右手に、敵艦が見えている。実際の距離は六キロメートルあまりであったが、真正面にそれを見る位置にいた喜市郎は、手を伸ばせば触れられそうな距離に感じたという。

 ぱちりと、眼が合った。

 その瞬間、喜市郎の正面の敵艦の砲台から煙が上がるのが見えた。

 遅れて、どすん、どすん、という鈍く低い音、何かが風を切る音。

 凄まじい衝撃と爆音、高い波が叩き壊されて上がる水煙。

 敵からの砲撃である。喜市郎が正面に見ているのは、敵旗艦クニャージ・スヴォーロフ。彼が乗り組んでいる鯨と同じように黒々と洋上に這いつくばる、ばけものであった。

 他の艦からも、次々と砲弾が飛来する。

「あかん、狙い撃ちにされとる!」

 喜市郎は、そばにいた朋輩に向かってそう叫んだ。

「皇国第一のこの旗艦三笠が、あんな屁みたいな弾で沈むかいな!」

 朋輩は、そう叫び返した。その数すら数えられぬほどの弾の嵐を受けながら、三笠は幸いにも被弾することはなかった。

 まだ、発射命令は来ない。撃てないというのが、さらに恐怖を募らせる。叫び声を上げながら、敵の鯨どもに向かって弾を撃ちまくれたらどれだけ楽であったか、と老いてから口数は少ないながらも、このときのことを述懐する喜市郎は眉間に皺を寄せながら語っていたと辰子は証言している。

 彼が砲撃を許されないことで生じる恐怖に苛まれたのは、わずか二分間であった。その二分というのが、一年にも感じられるほどであったろう。

 三笠は有効射程に敵を捉え、砲撃を開始。ほかの艦からもそれぞれ、砲撃が始まった。


 連合艦隊が本格的な攻撃を開始したのが、十四時十五分ごろ。それからわずか五分ほどの間に、敵艦のひとつが火を吹いた。

 もう、力と力の撃ち合いである。さらにそこから十分の間に、バルチック艦隊主力艦の多くが戦闘不能の状態に陥っている。

 そのひとつに、喜市郎は青い眼をやっている。ちょうど、自分が狙いを定めている一隻である。喜市郎の担当する砲は水雷艇などには有効であるが、戦艦には致命傷たり得ない。それでも、命ぜられるままに撃ちまくる、自ら狙いを定めている一隻が大破し、艦の真ん中から折れるようにして船首を高く天に向ける様を見ると、自分の発砲がそれをもたらしたように思えた。

 なにかを求めるようにして天を仰ぐ敵艦。鉄が拉げる音が、海にこだまする。

 佐々の、言う通りであった。

「鯨が、また啼きよる。おっきい声で、また」

 喜市郎は、いちど天を仰いだが及ばず、海に引きずりこまれながら断末魔を上げる鯨を見て、そう呟いた。

 速力で勝る三笠ら連合艦隊第一艦隊は、徐々にバルチック艦隊の前に出て距離を取りはじめた。そうすると、ようやく、喜市郎の鼓膜を壊さんばかりに鳴り響いていた砲声も遠ざかった。被弾するも、損傷軽微。喜市郎の乗り組む鯨のばけものは、いくつもの同じ鯨をこの海の奥底にある得体の知れぬ世界に引きずり込み、自らは悠々として波を切り裂いていた。

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