泥まみれの指先

ユリ子

泥まみれの指先

 教室はクラスメイトのせいで酸素が薄いから。だから、屋上でお弁当を食べようねって話になったんです。それで、ええと、鍵がないからどうしようって、なって。結局、屋上の扉の前に座り込んで食べて……。

 ええ、はい。彼女もお弁当でした。小さなお弁当箱で、おかずの色合いもよくて、何から何までかわいいお弁当だなって思ったんです。でも、そんなこと知らなくって。――ていうか、そもそも私とあの子って、そんなに仲良かった訳じゃないんです。だから、私、あの子と友達じゃなかったのかもしれません。


 何回も聞き直して、語尾を甘ったるく伸ばすこの声が頭に刷り込まれてしまったようだ。なんとか書き起こしてみたけれど、なんとも気持ちが悪い。今時の女の子ってこんなにドライなの? とか、誘い文句が詩的すぎない? とか。どうでもいいところばっかり引っ掛かる。

 別にこれは仕事じゃないし、私が趣味で――というと語弊がある、好奇心とボランティア精神だ――始めたことだった。

 友人の姪が亡くなったのは、ちょうど一週間前のことだった。彼女たちは仲が良かったし、私もその姪っ子とは面識があったので、訃報を聞いた時には瞼を腫らして泣いた。友人の気持ちを考えると余計悲しくて、思い出す度に泣いた。

 投身自殺だった。マンションの非常階段に、鞄が転がっていたそうだ。遺書も何も残っていなくて、たった一日だけ、ニュースになった。それだけの自殺だった。

 彼女が亡くなってから二日経って、友人の姉夫婦は離婚した。まだ自分たちの娘の葬儀も終わったばかりで、何の片付けも終わっていないタイミングでのことだった。友人含め親族は大層驚いて大騒ぎだったようだけれど、友人の姉はどこ吹く風で、淡々と葬儀の後片付けや娘の遺品整理などを行っていたらしい。友人は、私に「姉は人じゃなくなってしまったのかもしれない」と話した。そして、異常とも言える友人の姉夫婦と姪の自殺には関係があるのかもしれないと言い始めたのは、その時だった。まあ、私も似たようなことは思ったけれど、ゴシップではしゃぐようで気が引けていただけなので、うんうん頷いて話を聞いていた。とはいえ、友人が姉に何かを聞いても何も答えてはもらえないらしく、何も掴むことができない。そこで白羽の矢が立ったのが私だった。


 書店に並ぶ、すました顔で並ぶ表紙たちの中。そこに私の仕事は埋もれている。多くの場合が自費出版なのだけれど、そこに私の書いた本が一緒に並んでいるのだ。まあ、つまりライターを仕事にしている訳で、その多くが自己啓発系の自費出版だったりする。起業家や熱血社長、辛酸を舐め散らかした系の社長なんかの仕事が八割を占めていて、あとは趣味の本なんかがちらほらと、という感じだ。本を書きたいけれど書き方が分からないという人の元へ行って、書きたい内容を誘導して聞いていく。それをボイスレコーダーへ吹き込んで、帰ってから書き起こす作業に入る。余計な部分をそぎ落としたり、話の整合性を整えたり、そういった作業を繰り返して、作者の書きたいものに仕上げていくのが仕事だ。友人は、姪の周囲から話を聞いてくれと私に頼んだ。口を割らない姉の代わりに、外堀から崩してほしいという話を躊躇いながらも承った。そしてまず、変質者と思われないような服を買いに走ったのだった。

 外堀を崩すといっても、友人の姉は専業主婦で典型的な核家族、マンションも賃貸なので隣近所の付き合いはほぼ皆無だった。何を聞いても「よくわかりません」と返されてしまうので、レコーダーはカバンの中に仕舞ったままになっていた。ならば学生時代などの交友関係はというと、完全に家庭に入ってからは希薄になっていた。結婚してすぐ子宝に恵まれた彼女は、そのまま育児に追われ、無料通話アプリで会話する程度で、年始の挨拶程度の付き合いだということだった。遊びに誘っても、「家庭」を理由に断り続けていたらしい。結婚後の彼女の人生に、楽しみはあったのだろうか。話を聞いていく度に、そういったことが頭を過る。その話を友人に振ってみたら、「ああ、姪が全てだったよ」と言った。

「どういうこと? 通夜も葬儀も涙ひとつ流さなかったのに?」

「流せなかったのかもしれない。連絡してくる話題のほとんどが姪っ子の話で、年始に家に帰って来たときも、ずっと世話してかわいがってた」

 それは、過干渉いうものじゃないだろうか。

「姪っ子ちゃんは、その時どうしてたの?」

「どうもしないよ。ずっとされるがままだったけど。でも言うことは言うし、何か我慢してる感じもなかったかな」

「それにしても……それは……」

「まあ、過干渉ではあるよね。それが姪っ子を追い詰めたどうかは別として。問題ではあったと思う」

 友人はそう言って、スマホの画面を見せてきた。それは彼女の姉とのトーク画面で、いろんな表情の姪が写っていた。画面の中で彼女は、変顔をしておどけてみたり、めいっぱい笑ってみたり、悔しそうに唇を突き出したりしている。その無垢な表情の中に、心の奥に眠る悩みなんて見出すことはできなかった。

「お姉さんの周りは詰みだよ」

「まだ学校があるじゃん」

「は? 学校って……」

 あまりにもあっけらかんと言ってのけるので、本当に驚いた。

「学校で聞いてみてよ」

「先生に? 無理だよ、部外者だもん」

「違うよ。生徒にだよ」

 更にとんでもない話だ。何百人といる生徒に話を聞けというのか、こいつ。人に全部任せきりにしておいて。

「絶対噂になってるじゃん。その噂の中に、ヒントがあるかもって思わない?」

「それは、そうかもしれない、けど……」

 それこそ博打だ。上手く当たればいいけれど、当たらなけらば……最悪、噂は終息してしまっているかもしれない。

「まあ、やってみるけどさ……」

 やる気なんて全くなかった。仕事が落ち着いていた時期だからできる話で、また仕事が入ったらこんなことはできない。できるうちにやってしまわなければいけないし、いや、、本来はやる必要なんてないのだけれど。でも、あの子の笑顔を思い浮かべると、やらなければという気になる。あの子はどうして飛び降りたんだろう。教えて欲しくて、彼女の通っていた中学校へ来ていた。通報されないように、名刺は多めに持ってきた。下校中の女子に声を掛けて、録音させてと了承を得た。

「もしよかったら、教えてほしいんだけど。このあいだ自殺した子について……」

 彼女たちは訝しげな顔から、ぱっと顔色を変えて話し始める。彼女たちで今一番アツい身近な人間の死なんて、最高の餌だ。噂話はホイホイ生まれるし、彼女たちの間でそれは本当になっていく。

「女バスの先輩たちが言ってたんですけど、別にいじめとかはなかったみたいで。ただ、ニンゲンカンケイ? 彼氏をとったとられた、みたいな話があったみたいで。それで悩んでたって聞きました」

 典型的な噂話だ。又聞きの又聞きなんて何の根拠もない。

「どうもありがとう」

 そう言って、私はまた別の子に声を掛けた。

「あっ……あんまり喋るなって言われてて……」

 大人しそうなこの子の目線は、私の顔と名刺の間をチラチラと行き来していた。

「無理にとは言わないけど、教えてほしいの。この子のことが大好きだったから」

 これは本当の気持ちだから、伝わってほしかった。

「あの、その、じゃあ……内緒ですよ」

 声を潜めた彼女に顔を寄せながら、当たりかも、とこっそりガッツポーズをした。

「あの子、隣のクラスなんですよ。去年は同じクラスだったんですけど。去年からちょっと変だったんです。妙な……こと? 妙な表現で話すことが多くて、それでみんな少し避けるようになって。今年も同じだったみたいなんです。ちょっとだけ空気が違うっていうか、みんなと違うんです。だから、みんなと違うところを見てたんじゃないかっていうのは、みんな言ってて。いじめとかじゃないんです……。お昼一緒に食べる子もいたし、喋る子もいたんです。ただ、あの子、みんなとちょっと違うんです……」

 完全に当たりだった。気になる部分が多すぎて、突っ込んでしまいたくなるのを必死で抑え込む。矢継ぎ早に突っ込んでしまう訳にはいかない。

「妙な表現って、どういう感じ?」

「……なんていうか、ちょっと、大人っぽいっていうか、上手く言えないんですけど、そんな感じで」

 ああ、覚えていないんだ。それはそうだ、日常の中で小さく感じる違和感をしっかり認識する方が難しいのだから。

「ちゃんとお友達はいたんだね」

「それは……ちょっと、分からない、です。ずっと同じ子と遊んだりとか、お昼食べたりとか、そういうのは見たことなかったから……」

「そっか、そうなんだ。ありがとう」

 とても大きなヒントだった。この子にはお茶でもおごってあげた方がよかったかもしれない……それこそ通報されてしまいそうだけれど。それから何人か聞いて回って、最後に話を聞いたのは、ちょっと持ち物が派手な女の子だった。

「教室はクラスメイトのせいで酸素が薄いから。だから、屋上でお弁当を食べようねって話になったんです。それで、ええと、鍵がないからどうしようって、なって。結局、屋上の扉の前に座り込んで食べて……」

「二人とも、お弁当だったの?」

 娘が全てだったとはいえ、もしかしたらネグレクトがあったかもしれない。念のため、そこは聞いておきたかった。

「ええ、はい。彼女もお弁当でした。小さなお弁当箱で、おかずの色合いもよくて、何から何までかわいいお弁当だなって思ったんです。でも、そんなこと知らなくって。――ていうか、そもそも私とあの子って、そんなに仲良かった訳じゃないんです。だから、私、あの子と友達じゃなかったのかもしれません。」

 大人しめの子が言っていた、大人っぽい表現というのは「教室はクラスメイトのせいで酸素が薄い」とかいうやつのことだろうか。私からしたら中二病拗らせてるだけで無害だけれど、この年頃なら人を遠ざけてしまうのも分かる。

「ありがとう」

 そう言って、レコーダーをしまった。早く帰って、このスクラップたちを纏めてしまいたい。そして友人と共有したかった。ようやく掴んだ、私たちの知らない彼女のことを。


 帰ってから改めて彼女たちの声を聞くと、そこにはさまざまな情報が散らばっていた。読んでいた本、聞いていた音楽、得意な科目に苦手な科目。好きなアイドル、だとか。いろんなものを削ぎ落して、書き起こしていく度に、私の知っていた姪っ子ちゃんとのズレが大きくなっていった。

「あっ、でもあたし見たことあるんですよ。多分内緒にしてたんだとは思うんだけど。袖からちらっと見えて。あの、なんて言うんですっけ……ああ、あの、あれ! リスカ! リストカットしてたんですよ。手首に包帯巻いてて、血がにじんでて! びっくりして。何も言えなかったんですけど。多分、あたししか知らないんじゃないかな。最近見たし」

 これはショックだった。本当に病んでいたのか、中二病を拗らせすぎたのか。どちらにせよ辛い。リストカットなんてするような子じゃないと思っていたし、話を聞いた今でも信じられなかった。もやもやとした気持ちを抱えたまま、それも書き起こしていく。


 全て書き起こし終えたのは、午前三時を過ぎた頃だった。作業としては早かった方だと思う。大きく伸びをして、首を回した。脳が揺れる感覚がして、早く寝ようと思った。でも、眠れる気がしない。

 こんなに知らないことが目の前に並んでしまうと、どれも気になってしまって落ち着かないのだ。明日……じゃない、今日だ。今日、友人にどこから何を伝えたらいいのだろう。頭の中で組み立てながら眠ることにした。


 友人と落ち合ったのは夕方も夕方、日が落ちかけた頃だった。予想通り寝つきが悪く、しかも目が覚めたら昼を過ぎていた。友人との約束の時間をとっくに過ぎていたので、謝罪の連絡をしてから支度をした。昨日の書き起こしの入ったPCと、ボイスレコーダーも念のため。鞄にがばっと詰め込んで、待ち合わせをしたのだった。

「すみません、今日は全ておごりますので」

「もちろん、そのつもりで来たけど」

 お互い、こんな軽口が叩けるくらい心に余裕が生まれてきたと思うと、姪っ子の死が遠くなっていくように感じた。

「ちゃんと書き起こしてきたよ」

 机に紅茶とパンケーキが並んだところで、私はPCを取り出した。

「すごい、結構聞けたんだ?」

「うん、当たりが多くて助かったよ」

 パンケーキを小さくカットして、口に放り込んだ。

「ねえ」

「うん」

「なに、これ」

「うん」

 友人は画面を見つめて青褪めていた。

「私の知ってるあの子じゃない」

「私もびっくりしたよ」

 そう、びっくりした。先日友人に見せてもらった写真の子と同一人物だとは思えないくらい、歪んでいた。中二病を拗らせに拗らせすぎて、妙な言動をしたり、手首を切ったり。こんな痛いコを私たちは知らなかった。

「あとは、これ、だよね」

 私が指したのは、一番妙な話の部分だった。どうしても音声で聞いてほしくて、ボイスレコーダーを取り出した。

「……あ、あの、これ、ほんと、誰にも言っちゃだめなこと、なんです、けど。あの、私、これ、怖くて。あの子、友達はいなかったって聞いたんです、けど。けど。あの子のこと、すっごく、好きな人たち? っていうか……言葉が違うかも、なんですけど、信者みたいな人、が、いて。これ、本当にだめなやつなんです。なんですけど、ずっと誰にも言えなくて。多分、です、けど。信者の人? たち? と集まってたり、とか? してたみたいなんです」

「その、信者? みたいな人たちって、どういう感じであの子と接してたの?」

「あっ、あの、なんていうか……あの子の言うこと、は、絶対、みたいで。嫌いな先生が、いる、とか聞いたら、その先生の授業の邪魔したり、してたらしいです……」

「どうしてそんなに詳しいの?」

「私のお姉ちゃん、信者の人なんですよ」

 そこで再生を止めた。私は話を聞いていたあの時を思い出して、ぞっとしていた。

「えっと……どういう」

「私にも分かんないけど、でも、多分」

 彼女はどこかおかしかったことだけは確かだった。私たちの知らない彼女が、背後でひっそりと笑った気がした。

「信者って、何?」

「分かんないけど、これからそこを調べてみたいって思ってる。あの子が死んだ理由は、そこにあるような気もするし」

「信者から突き落とされた、とか?」

「そういうんじゃなくって、もっと違う理由だと思う」

 生クリームが溶けきったパンケーキは、あまりにも美味しくなさそうで。それでも口に放り込んだ。飲み込む感触が気持ち悪くて、少しだけ吐きそうになった。


 あの子を、あのたどたどしい口調で教えてくれたあの子を探して、あの時会えた場所に立っていた。同じ制服がぞろぞろと流れていく中で、あの子の姿を探す。鮭の遡上ってこんな感じなんだろうか、なんてぼんやり考えていると、少し背の低い、うつむきがちな女の子が流れてきた。私の姿を見つけると、少しばつが悪そうな顔をして引き返そうとする。

「待って!」

 その腕を掴むと、彼女は抵抗せず、ゆっくり私の方を向いた。

「ごめん、あの……」

 手を放して、頭を下げる。

「あの、ちが、いいんで、あの」

 可愛らしい声が焦った色を滲ませながら降って来きて、私は頭を上げた。

「あの、昨日の話、ですか」

「そう。聞きたいことが沢山あるの」

「だったら、その、少し離れたところ、で……」

「そうだよね、そうだった、そうだった」

 信者の人たちはどこにいるか分からなくて、この子はその存在に怯えている。それを思い出して、通学路から少し外れた神社へ向かうことになった。真っすぐ伸びた道の隅に、細く分かれた道がある。ゆったりとした勾配を上っていくと、そこに鳥居と、本殿に向かう階段が潜んでいた。

「人、いないね」

「いないですね」

「怖くないの、私のこと」

「怖いです、けど……でも、もっと怖い、ので」

 信者の人が。そう続いて、あの子の宗教――と呼んでいいのかはまだ分からないけれど――がどれだけのものかを想像した。

「この辺りでいいかな」

 すっかり枯れた手水舎に凭れて、ボイスレコーダーの電源を入れた。

「昨日の話を、もっと教えてほしいの」

「昨日の、話」

 やっぱりその子は俯いて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「昨日、お姉さんに話を、して。それで、私も気になって。それで、お姉ちゃんに、聞いたんです」

「ありがとう」

 体の前で組まれた指先は、もじもじと付いたり離れたりを繰り返していた。そして、ちら、と私の方を見て、また地面とにらめっこを始める。

「あの、噂の子の、話。お姉ちゃん、お姉さんが聞いて回ってるの知ってて、だから、私のこと疑って、少し、殴られたんです、けど」

「……それは、ごめんなさい。大丈夫?」

「はい。大丈夫、です。でも、お姉ちゃん、お喋りだから、ちょっと聞けたん、です、よ」

 小さく息を吐いて、彼女は少しだけ背筋を伸ばした。

「あの、あの子、私の先輩に、なるんですけど。それで、えっと……図書委員、してて。信者の人っていうの、図書委員は、みんなそうらしくって。そこから、だんだん、他の、普通の人も、信者の人になっていった、みたいです。お姉ちゃんも、図書委員じゃないから」

 その図書委員会が勧誘、とでもいうのか、そういったことをしていたのか。そこから伝播して……図書委員の子から広がる輪というのは、偏見だけれど控えめな子が多いように思う。

「別に、何か特別なことがあった、ってこともない、みたいで。とにかく、その、先輩が、すごいんですって。何がすごいかとか、は、分からないみたいなんです、けど。先輩の言うことって、特別じゃない、けど。それでも、すごく、みんな、先輩のこと、信じてた、っていうか、そんな感じらしいんです。……上手く説明できなくて、ごめんなさい」

「ううん、大丈夫」

「それで、この間、儀式? っていうのをやった、みたいなんです。お姉ちゃん、それで、ちょっと、分かんないこと、言ってて……」

「どんな?」

 彼女は顔を上げた。黒目がちな大きな瞳が私を映している。

「あの子は死んでない」

「え?」

「死んでない、って。儀式をした、から、死んでないって、言うんです。お姉ちゃん、何言ってるのか、分かんない、んです」

「死んでないって言ったの」

「はい」

「そっか……ありがとう」

 私はレコーダーの電源を落とした。

「ねえ、無理なら無理で構わないんだけど、クラスの図書委員の子とお話できないかな?」

「お姉さんと、ですか?」

「そう。難しいと思ってるんだけど、本当に申し訳ないんだけど……どうしても聞きたいことがあるの」

「……ですよ」

「え?」

 上手く聞き取れなくて、耳を寄せた。

「いいですよ。クラスの図書委員の子、仲、いいので」

「ありがとう」

「明日、ここに連れて来たら、いいですか?」

「……うん。何から何まで、ごめんね」

「大丈夫です。……それじゃあ、また明日」

 小さくお辞儀をして、小走りで神社から離れていった。その背中を見つめながら、儀式のことを考える。特別なことのない女の子が、図書委員会、そこから伝播して信者を囲うって、どういうことだろう。立っている場所の雰囲気もあって、背筋を走るものがあった。


 昨日と同じくらいの時間に、やはり同じ手水舎に凭れて、彼女たちを待っていた。階段の先から、ふたつの黒いものが徐々に姿を現して、うつむきがちな見知った顔がぽっかりと浮かび上がった。その隣には、眼鏡をかけた女の子も並んでいた。

「こんにちは」

 私の声に少し顔を上げて、こんにちは、と何とか聞き取れるくらいの声で返してくれる。その隣の子も、少し様子を伺いながらこんにちは、と返した。

「同じクラスの、図書委員の……」

「初めまして」

「初めまして。今日はありがとう」

 軽くお辞儀をして、ボイスレコーダーの電源を入れた。

「聞きたいことって、なんですか?」

「この間亡くなったあの子について聞きたいんだけど、話してもらえますか?」

 そう言うと、図書委員の子は、うつむいたままの彼女を少し睨んだ。

「……はい」

「ありがとう。それじゃあ聞きたいんだけど、委員会での彼女って、どんな感じだったのかな? 会議をした時の様子だとか、委員会の中でどんな過ごし方をしていたのかっていうのか……」

「先輩は、すごく優しい人でした。新しい本を入れたいって要望に応えようって話になった時とか、三年生の先輩が費用がないって反対して。先輩が、献本を募ればいいって提案してくれたんです。でも、やっぱりみんなが読みたがる本はなかなか手に入らないし、献本も難しいと思うって。でも、生徒だけじゃなくって先生たちにも献本をお願いしてみたら、みんなが読みたがる本は手に入るかもしれない。それを根強くやっていけば、費用も出るだろうって。だから頑張ろうって。私がまず家にある新しい本を献本するから、この計画をしっかりスタートさせていこう、発案者は私だから、私がこの計画を進めるしみんなのサポートもするって言ってくれて。結構、そういうアイデアを出してくれることが多くて。あと、個人的な相談とかにも結構のってくれたんです。対処法を一緒に考えてくれて、こういうところがダメだっていうことも、はっきり教えてくれて。背中を押してくれる、とにかく親切な先輩だったんです」

「そうなんだ」

 既視感を感じていた。私はこのテクニックを知っている。何度も何度も聞いたから覚えている。――これは既視感じゃなくて確信だ。さまざまな若手の起業家に多くいたと思う。カリスマ社長なんて呼ばれている、カジュアルな社長の多くがこのテクニックを用いていた。

 社員の夢を語らせて、自分と一緒ならそれは実現できると断言する。過去の実績を持ち出して、こんな前例があるのだから大丈夫だと言う。そこで、夢を叶えるステップのまだこの辺りにしかいない、と冷や水を浴びせる。でも、ここを補えば、こういうルートを辿れば夢は叶う、それを全力でサポートすると背中を押す。

 この一連の流れを繰り返して、社員たちの信頼を得、カリスマと呼ばれるようになるのだ。何度も同じ話を書いてきたのだから、しっかりと覚えている。

 これは洗脳の技術だ。

 世間一般に知られている程度の、軽い洗脳だ技術。姪っ子は意図してかどうかは分からないけれど、図書委員会という小さな輪の中でそれを繰り返していたのだろう。相談にのっている時も、同じようにアドバイスを繰り返していくことで、この小さなコミュニティでのカリスマになっていたのだ。その話が広がって、色んな生徒の相談にのっていたのだろう。そうして信頼を得た結果、学校という箱の中で一定の地位を得たのだ。思春期の心は脆く不安定だ。あの手法を使われてしまえば、すぐ落ちてしまうのかもしれない。

「委員会の中心は当然先輩になっていって、委員会の度にそれぞれに優しい言葉をかけてくれるんです。だから、みんな先輩のことが大好きだったんです。だんだん面白くなっていって、先輩のファンの子たちを信者って呼ぶようになったんですけど、先輩はそれをあんまり良くは思ってなかったみたいで……でも、あんなに的確なアドバイスをくれる、先生よりもずっと頼りになる先輩のこと、尊敬なんて言葉じゃ足りないんです。だって、神様みたいなんですよ?

 たまに言う難しい言葉も、すっごく詩的で美しいんです」

 眼鏡の子は、そう一気にまくしたてると、小さくはあと溜息を吐いた。

「亡くなった日はどうだったの?」

「え? 先輩は死んでませんけど」

 しまった。やってしまった。下唇を小さく噛んで、呼吸を整えた。

「ごめんなさい、間違えました。あの日はどうだったの?」

「……ああ、あの日ですか。あの日は何もありませんでした。何かあったのは、その前の日です。その日は委員会があって。でも信者の人達も参加してたので、図書室はいっぱいになってたんです。そこで、先輩が、私はこれからリセットボタンを押しますって、みんなびっくりするかもしれません、でも必ず帰ってきますって。そう言って、二リットルのペットボトルを受付カウンターに置きました。中身は水だったんですけど、先輩、みんなの前で突然手首を切って、流れる血をペットボトルに数的落としたんです。それを蓋して、振ってかき混ぜて、カウンターの下から取り出した紙コップにちょっとずつ注いで、みんなに配ったんです。何も言われてないんですけど、あ、これ飲まなきゃって思って。多分、みんなそう思ったと思うんですけど。飲んだんですよ。先輩はみんなが飲むのを見届けて、私が戻って来る約束を今交わしました、これが約束、絶対戻って来るからって。明日、リセットボタンを押すことを応援してねって言ったんです」

 突然カルトめいてきた。彼女の信仰はそこまで厚いものになっていたのだろうか。そこまで、彼女の洗脳は深く根差していたのだろうか。

「だから、リセットボタンを押したあの日も、別にびっくりしませんでした。私たちの体の中に約束は残っているし、先輩は絶対約束を破るようなことはしない人だったので」

「そっか、そうなんだ」

 上手く言葉を発せない。恐ろしい、とても恐ろしい話だ。一人の女子中学生が、ここまで恐ろしいことをやってのけたのか。あんな、無垢でかわいい笑顔を咲かせていたあの子が。

「ところで、お姉さんは何で先輩のことを探ってるんですか?」

「ああ、私はね、あの子の叔母さんの友達なの。あの子とも何度か一緒に遊んだことがあって、だから……その、リセットボタン? が押されたことに驚いて。何があったのかなって調べてるところで。お母さんも、何も教えてくれないから、友達も戸惑ってて……」

「なんだ、そうなんですか」

「うん、だから、お話を聞かせてくれてありがとう」

 ボイスレコーダーを切って、鞄に突っ込む。

「この子が、何かあったら助けてって言うから……」

「ちょっと、やめて、やめてよ……」

 それまでずっと黙っていたあの子が、眼鏡の子の腕を引っ張る。

「本当に危ない人だったら、私がなんとかしないとって思ってたので、先輩を知っている人でよかったです」

「私も、そんな、知り合いだって、知らなかったので……びっくりしました」

「びっくりさせちゃってごめんなさい。怪しかったよね、ごめんなさい」

「大丈夫、です……」

「何かあったら、この子は私が守るんで」

「仲いいんだね。今日は本当にありがとう」

「はい。それじゃ、失礼します。戻ろ、委員会まだやってるでしょ」

「うん、じゃあ、それじゃあ、失礼、します」

 二人は来たときと同じように並んで、階段の先へ消えていった。私は手水舎に凭れたままずるずると座り込んだ。指先はすっかり色をなくして、冷え切っている。私はずっと信者の中核に話を聞いていたのかと思うとぞっとする。あの子もあの子で、ついさっきまでずっと素知らぬふりをして話していたのだ。カルトめいた儀式も、それを当然として受け入れる信者たちも、みんなみんな中二病って言葉じゃ済まされない、歪み切っている……というより、もう、狂っていたんじゃないだろうか。その場の空気と尾ひれがつきについた噂話とが合わさって、彼女を神格化していたのかもしれない。

 それにしても、だ。薄めたとしても血液を飲ませるというのは、キリストの話を元に考えた行為なのだろうか。あれはワインを血と思え、という話だったけれど。じゃあ、リセットボタンを押すというのは? それが彼女が飛び降りることだったとして? 戻って来るから死んでいない……キリスト復活の話に影響されているのは明確だ。でも、リセットボタンを押す理由が分からない。そこだけ逸話と違っている。何かの罪を被った訳でもない、じゃあリセットするものって? 日が落ちかけて、空気が冷えてきた。早く帰って纏めよう。纏めて……ここまでの話を友人に聞かせるのは少し気が引けた。


 あれから聞いた話を纏めて、布団に潜り込んだ。疲労で瞼は重くなっていたけれど、胸の辺りがざわざわしていて眠るのがおそろしい。布団に入る前に連絡した友人からの返信も怖くって、頭の先まで布団を被った。そのうちに意識が明滅してきて、聞きながら想像していた景色が浮かんでくる。図書室で相談をしていく姿は、大きな懺悔室みたいだなと思って、幕が下りた。


 国道沿いのファミレスで、友人と落ち合った。私の書きだした資料に目を通すと、しばらく黙って天井を眺めていた。

「……嘘じゃん」

「嘘じゃない、と、思う」

「いや、だって。こんな。ただの中学生じゃん」

「中学生だよ」

「普通の中学生だったじゃん」

「でも、学校ではどうだったか分かんないじゃん」

 友人は大きなため息を吐いて、机に突っ伏した。

「そうだけどさあ」

 くぐもった声が腕の隙間から漏れ出てくる。

「これさあ、お姉ちゃん知ってたのかなぁ」

「どうだろ」

「お姉ちゃんに聞いてみようよ」

「え、でも、何も答えてくれないって……」

「もしこれが知らないことだったら、さすがに食いつくと思うし」

「まあ、そうかもしれないけど」

 彼女は顔を上げて、私の手を取った。

「行こう」

「は」

「行こう、今から」

「え、だってまだ……」

 コンビプレート来てないじゃん、なんて言う隙なんて与えられなかった。会計だけ済ませて、お姉さんの住むというマンションへ向かった。


 タクシーで十五分程度走ったところに、そのマンションはあった。築年数はそれなりにありそうだったけれど、綺麗に整備されていた。広々とした玄関ホールを眺めている間に、友人はオートロックのインターホンを鳴らしていた。

「……はい」

「お姉ちゃん、私」

「ああ、上がって」

 オートロック錠が動く音がして、私は友人の後ろについて歩いた。平日昼間のマンションは人気がなく、静まり返っている。私たちの足音だけしかなくて、寂しい気持ちになる。エレベーターで十階まで上がると、お姉さんの部屋へ向かう。廊下の隅に非常階段が見えて、あそこから飛び降りたんだったなと思って、少しだけ目を閉じた。

「お姉ちゃん」

 インターホンを押して数秒、扉が開いてお姉さんが顔を覗かせた。

「こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 一瞬お久しぶりと言いそうになって、葬儀の時に顔を合わせたんだった、と踏みとどまった。

「お邪魔します」

 3LDKの一般的なファミリー向けマンションは、そこかしこに生活の匂いが漂っている。リビングに通されて、食卓テーブルを挟んで向かい合った。淹れてくれたコーヒーは、まだ熱くて飲めなさそうだ。

「お姉ちゃん、あの子の話なんだけど」

「……話すことないって、言ってるじゃない」

 なんのクッションもなく聞き出そうとする友人のハートの強さに少し驚いた。でもまあ、姉妹なんてこんなものなのかもしれない。

「これ、知ってた?」

 さっき私が友人に見せたものを、お姉さんの前に広げる。彼女はそれを手に取って、じっくりと読み始めた。

 静かな部屋に、紙の擦れる音だけが響いている。淡いグリーンのカーテンの向こうは、薄曇りの空が広がっている。薄いグレーは、彼女の正体を隠すみたいだと思った。

「……お姉ちゃんは、これ、知ってた?」

「知らない」

 印刷した紙をテーブルへ置いて、お姉さんは私たちをじっと見つめた。

「……けど」

「けど?」

「あの子が死んでないのは本当」

「は」

 お姉さんの言葉に、友人は素っ頓狂な声を上げた。私は声が出なかった。

「あの子、本当にすごいのよ。不器用な私と違って、なんでもできてなんでも知ってるの。本当に、小さなころからずっとすごい子で。神童だって言っちゃうと、親ばかみたいで恥ずかしくて言わなかったけど、本当は神童だって思ってた。だって、幼稚園に通ってる頃から、私のことなんでも分かってたの。お母さんはこういう順番でお掃除した方がいいよ、とか。晩御飯はこれを作ったらお父さんの機嫌が良くなるよ、とか。全部全部知ってたの。まるで魔法使いみたいに」

 突然スイッチの入ったお姉さんに、私も友人も気圧されていた。大きく開かれた目に、うっとりと上がった口角と。ああ、これはやばいと思ったけれど、もう逃げ場なんてないし、諦める以外の選択肢はなかった。

「結婚してからすぐ妊娠したし、産んだ時は本当に幸せだったし……。でも、それまでずっと家に籠ってばっかりだったから、あの子が話せるようになってからは生活も楽しくなったし、本当に幸せだったの。あの子が私の話し相手で友達で、かわいいかわいい私の子だった。でもね、あの子、どこで覚えてきたのか難しい言葉をよく知ってて。だんだん、お母さんのここがダメって叱られるようになって、私が叱ることなんて殆どなかったかもしれない。叱られてばっかりだった。でもその内容は反論できないくらい正しくて……本当に、私はなんてすごい子を産んだんだろうって思ったなあ」

 妄想かもしれない。妄想かもしれないけれど、この人の話すあの子の薄暗さが、この話の裏付けのように作用している。こわい。これ以上聞くのがこわい。

「お母さんのここがダメって叱ってくれて、でもあの子の言うことは正しいことだったし。そのうち、私も叱られるようなことが減って、褒められるようになったの。だから、それからはもっと幸せだった。あの子が私の生きがいで、全てだった。あの子は色んなことを教えてくれたから。私の生き方を教えてくれた」

 これは才能だったのかもしれない。天使なのか悪魔なのか分からないけれど。きっと、生まれ持った才能がこれなのだ。だって、私はこれの正体も知っている。あの既視感、あの確信を持っているから。

 この3LDKの箱は、その中で完結した小さな世界だった。その世界で二人きり、隔絶された環境で全てが行われたのだ。

「お姉さん、すみません。その、叱られるようなことって、具体的にどんな内容でしたか?」

 お姉さんは話を遮られたのが不快だったのだろう、少し眉を寄せて息を吸った。

「……例えば、育児をしているんだから、遊びに行っちゃいけないとか。お父さんは疲れているから、仕事の愚痴だけ聞くように、だとか。そんな、小さなことばっかりだけど。三歳くらいの子供が言うんだから、すごいでしょう」

 否定。もっともらしい理由をつけて、自由を奪っていく否定。これを小さな子供が行っていただなんて、おそろしすぎる。

「でも、あの子の言う通りにしていたら、夫との関係も良くなったし、お義父さんやお義母さんともうまくいったし、何より育児に集中できたもの。あの子と過ごした時間は本当に学びと愛に溢れた宝物の時間だった」

 お姉さんの目に薄膜が張っていくのが見えた。

「でも、ちょっとだけいないだけだから、修学旅行に行ったと思ったらなんでもないかな」

「必ず戻ってくる、から?」

「そう。リセットボタンを押しただけだから死んでないの」

 お姉さんは真っすぐこちらを見て、そう言い切った。

「……あの、今聞く話題ではないと思うんですけど、どうして、離婚を?」

「もう、あの子の話をしちゃったから仕方ないかな。……夫はね、あの子と私の関係が気持ち悪いって言ってたの。まあ、仕事ばかりで家にいる時間も少ないから、そう思ったのかもしれないけど。あの子がリセットボタンを押して、葬儀をしなくちゃならなくなった時に、夫は私の話を信じてくれなかったから。あの子は戻って来るって話をしても、何も信じてくれなくて、終いには私のことを狂ってる、気持ち悪いって罵って。こっちに来ていたお義父さんやお義母さんも気持ち悪がって、私も頭に来てたから、もういい離婚するって……。タイミングは最悪だったと思うけど、結果、離婚してよかったと思う。きっとあの子もこれが最善だって言ってくれただろうし」

 そう言って笑った。もう旦那さんのことなんでどうでもよかったのだ。彼女の中で、世界はこの部屋で、そこには彼女とあの子しかいなかったのだ。そこで世界は完結していた、それだけだ。

「早くあの子に戻ってきてほしくて、あの子の好きな物ばかり作っちゃう」

 照れたように笑うその笑顔が、あまりにもすっきりしているものだから、これでめでたしめでたしだったのでは、と思いかけてしまった。全然めでたしじゃないのに。

「戻って来るって、約束したんですよね?」

「そう。あの学校の友達と同じ。手首を切ったのはびっくりしたけど、あんなふうに約束してくれるんだから。リセットボタンは押したけど、生きてるんだし」

 あの子たちと同じように、彼女は自分の母親にも血液を飲ませたのか。それを甘んじて受け入れる、この親子が心底気持ち悪い。いや、この親が気持ち悪いのだ。冷えてしまっただろうコーヒーを見遣る。飲む気にはなれなかった。

「最後に、お部屋を見せてもらえますか?」

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「いいですよ。何もかもそのままだから、後で恥ずかしいって怒られるかもしれないけど」

 六畳の部屋には、使い込まれた勉強机と、ベッドと、本棚でいっぱいになっていた。机の上には教科書と漫画とが乱雑に積み上げられていて、とても勉強できるような状態ではなかった。ただ、その中にルーズリーフがちらちらと挟まっている。私はそれを手に取った。走り書きのメモのようなもので、とても読みづらい。

「何? 何か書いてあるの?」

 友人が覗き込んだタイミングで、私はそこに何が書かれているのかを知ってしまった。

「くりかえして、私はもっと高いところへ行くことにした。前の時は、もっと下手くそで失敗しちゃったけど、今回はうまくいってる。このままもう一度くりかえしたら、今度は最高の結果になると思う。早く次をためしたい。マーキングしてやるしかない」

 日記だ。日付も何もないけれど、これは日記だ。その下にはまた違うことが書いてあるけれど、それは担任に対しての愚痴だった。書き殴られた日記は、思いついたことを吐き出すためのものだったらしい。この内容も何も考えなければただの中二病だ。けれど、これまでの話と合わせると、何か薄気味悪い内容になっているとしか思えない。

「すみません、このメモ、写真撮ってもいいですか?」

「いいけど……恥ずかしがると思うから、内緒にしておいて」

「もちろんです」

 私はスマホを取り出して、その日記を撮った。

「ねえ、なんで撮るの?」

「今は内緒」

 お姉さんに挨拶をして、あの子の家を出た。

「収穫、あったんだ」

「あったよ。ちょっと調べたいこともできたし」

「そっか。……来てよかったね」

「うん」

 友人と顔を寄せて画像を眺めていると、玄関が開いて、お姉さんがこれ、と袋を差し出した。

「箱で買ったんだけど、飲む人間がいなくなっちゃったから、ちょっと持って行ってよ」

 中には五百ミリのペットボトルが入っていて、よく買うお茶のラベルが並んでいた。

「ありがとうございます、助かります」

「お姉ちゃん、これ重いよ」

 友人は苦笑いして受け取った。私も少し荷物になるなとは思ったけれど、帰りにコンビニに寄るよりはいいかと思うことにした。

 友人とはマンションを出たところで別れた。マーキングというのは、多分だけれど、あの血を飲ませる行為のことだと思う。じゃあ、くりかえすっていうのは何だ? 前があって、次があるって、何? まるでなぞなぞみたいだ。あの子は何をくりかえしているのだろう。前は失敗したって? 何を? うまくいってるって何。

 家には真っすぐ帰らずに、わたしは図書館に寄っていた。何を調べたらいいのかは分からないけれど、目についた本を片っ端から借りていった。自叙伝、犯罪心理学、戦後歴史、エトセトラ。それらを持ち帰って、ソファに沈みながら流し読む。

「あった」

 そう、見たことがあったのだ。同じような話を。そこには死刑囚の手記が載っていて、そこにはこれからやってくる死への恐怖だとか、贖罪だとか、ご飯の話だとか、そういった内容の中で埋もれずに際立っていたのだ。

「裁かれて死ぬことになりましたけれど、それを恐れてはいないのです。私が恐ろしいのは、失敗することなのです。今回は多くの失敗を犯してしまいました。これは大変よろしくないことです。前回も失敗をしてしまいましたので、私には学びが足りません。次は、次こそはこの失敗を活かして生きたいと思います。今回は上手く印を残すことができなかったので、少々不安ではありますが。それでも逝かなければなりません。逝かなければ試すことができません。私は今生を教訓として、次へ行きます。どうも有難う。左様なら」

 やっぱり。やっぱり、同じことを言っている。印というのはマーキングということだろう。そのマーキングは一体何? と思ったところで、思いつくことがひとつだけあった。血液を飲ませることがマーキングだと確信した。罪を犯してそれをする隙もなかったから、印を残せなかったのだとしたら? もしこの死刑囚を前世にあの子が生まれたとしたら? そんなことありえないけれど。でもこれを読むとどうしてもそんな稚拙な考えに思い当たってしまう。そんな、まさか。そんなファンタジーなんてその辺を転がってる訳ない。

 本を慎重に投げ出して、大きく伸びをした。床に転がっている、お姉さんから貰ったお茶を拾い上げて、蓋を捻った。明日はまたあの中学生にあたってみよう。お茶に口を付けた。少し錆びくさいと感じたのは、多分気にしすぎているからだ。

 まだ生きてて戻って来るなんて、そんなことを信じて飛び降りるなんて。なんて浅はかで愚かなことだろう。死ぬだなんて、死ぬなんて。

 そんなこと、神様だってしないはずだ。神様だから、しない。……じゃあ、神様じゃなかったら?

 そこまで考えて、もう寝てしまうことにした。泥のように疲れてしまったのだ。

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泥まみれの指先 ユリ子 @bon2noir

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