変換私道

エリー.ファー

変換私道

 闇のようなジャズピアノの音に耳を澄ませてバーカウンターの後ろに身を隠す。

 黒人たちの叫び声と、白人の鋭い声が、耳の中を反響する。

 二度とこんなところには来ない、と心に誓いながら何もかも忘れようと努める。考えを巡らせても、大事にしてくれない人が多いせいで、寂しさが重層的になってしまう。心の底から不憫だと自分に同情するのには飽きてしまった。

 地下倉庫に向かえば逃げられるかも知れない。

 梯子はいやに細かった。

 体重を支えることなくそのまま落ちてしまうような気がして、なるべく遠くから眺めることにしている。大切にはできない。自分の体を動かすので精一杯なのだ。

 時間が経過している。

 いつものことなのに。

 今になって自分の周りでのことが気になり始める。

 何をしているというのだろう。

 視界に映らないものが大すぎて、できるかぎり遠くから助けに行こうと足を踏み出す。

 それがこの状況を真似ていているのだからこまったものだ。話は続かないし、たぶん、これで終わりだと思う。

 梯子を下りると、目的の地。

 地下倉庫。

 ワインとスナック菓子ばかりがあって、自分以外の人影はない。ここなら隠れるには適切と言えるだろう。

 バーにいる白人と黒人もここに日本人がいるとは到底思えないだろう。なにせ、地下へと続く扉自体がかなり見えにくいものであるし、梯子も細いのだ。身の危険を考えるなら避けて当然である。

 大丈夫ですか。

 と、誰かの声が聞こえたような気がする。

 振り向き、見回し、樽の後ろへと隠れる。

 大丈夫ですか。

 またも声が聞こえる。

 自分の位置を確認しながら、壁に背を向けてなるべく接近される可能性のある角度を潰すように心がける。

 そこで、何をしているのですか。

「何も、していません。」

 そんなことはないでしょう。

「実は、逃げてきました。」

「何故ですか。」

「何故なのかは、自分でも分かりません。」

「本当は、気づいているんでしょう。」

「はい。」

「何故、逃げたのですか。」

「負けるからです。」

 白人も黒人も筋肉隆々であり、情報量も多い。勝っている部分が少ない、ということではなく、そもそも、勝てる要素が一つもない。余すことなく、敗北しか道はない。

 勇気ある撤退などではない、そもそも勇気もくそもなく撤退である。

 お洒落に言葉を吐き出したわけで、何も状況は変化しない。これがこの問題の根源的な部分であるとしか言いようがない。

「逃げられると思っていますか。」

「無理です。」

「無理でしょう。」

「日本としてどうするのですか。」

「もう、遅い。何もかも諸外国と比べて手遅れだ。もっと、先見の明をもって、予算の分配をしっかりと行うべきだった。」

「本当に、そう思っていますか。」

「その分配を決める権限は、結局のところ貴方自身の利益よりも、優先させたいものに流れてしまっただけなのでは。」

「だとしても、それを説明する責任があった。任命責任があった。」

「そうは、思えません。状況は間違いなく、誰でも良かった。」

「どういう意味ですか。」

「誰が選ばれても、所詮は穴の開いた船、そして。」

「既に沈没したはずの幽霊船に穴が空いただけだったと。」

「海水がしみ込むことはないでしょう。しかし、沈没したことにも気づいていない船員は慌てるでしょうね。」

「どうすればいいですか。」

「どうしましょうか。」

 その瞬間、天井から光が漏れる。

 黒人と白人がこちらを見下ろしながら笑っている。

「こちらに渡せるものがあるだろう。ほら、象徴とか。」

 にやにやしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

変換私道 エリー.ファー @eri-far-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ