ACT1 死の翼触れるべし

 風の音。……とても激しい。


 いつも思い出すのは父に背負われ灰色の砂漠を行く光景だ。

 空の色も、砂に煙って灰色をしていた。

 少しの間も目を開けられない。服がはためくたびに次々と砂が入り込んでくる。

 砂を噛んで口の中がざらつく。喉がカラカラで、砂を吐き出そうにも唾すら出ない。瞬きしても涙も出ない。

 ルブアルハリだったかアブダビだか場所ははっきりしない。

 疲れ果てた体はもう少しも動かない。


 深くかぶったフードの隙間から僅かにのぞく景色。

 一寸前も分からない強烈な砂嵐、なのにどうして見えたのだろう。……夢か、妄想が入り混じった幻の記憶なのか。切れ間の空にきっと大陸間弾道ミサイルの、いやもしかしたらただの飛行機雲かも知れなかったがその軌跡が白く幾筋も連なって空に流れていた。


 墜落でなければ不時着したのだろう翼の折れた飛行機から煙が、砂丘の向こうまで高く昇っていた。


 夜ではなかったと思うけど明るくはなかった。


 砂を含む風に目をぎゅっと瞑ってただ父の冷たい背中に揺られていた。

 なんでこんな目にあわなくちゃいけないの、と理不尽さに私は泣いていた。

 それから随分と時間が流れたが、……あの頃はそれでも、まだよりはマシだった。



「糞っ垂れめ、こいつもダメか」

「待ってくれ俺がやる」

「急げ」

「いま楽にしてやる」


 銃声と共に、今まで仲間だった筈の男が殺される。

 守人のあらんことを。平安とともにあれ。神の御心のままに。

 口々に言い訳のような呟きを吐いて、彼を軍用ジープの荷台から蹴り落とす。


 そして硝煙の匂い。


 携行品に持たされた間に合わせの血清がやはりハズレだったのだ。彼は車内で例の呻き声を上げ始めた。

 脳に近い場所を噛まれると発症が早い。ゾンビウィルスは時間あたり数センチという驚異的な速度で神経系を侵してゆき、それが脳まで到達したらもう手遅れだ。決して元には戻らない。

 殺伐としたこの対応、それはもう何度も繰り返されたルーティーンワークだからだ。

 情けをかけるつもりで甘い考えを押し通してチームが全滅、それどころか本拠地まで危険に晒すような失態。そんなのはもう誰もみな、いい加減こりごりだった。


 死んだ男、千切ったドッグタグによると名前はハキムといったようだ。彼は敬虔なムスリムでこんな世の中になったというのに毎日五回の礼拝を決して欠かさない律儀な男だった。

 出発直前にも携帯用の敷布を取り出してきたうえに方位磁石でキブラを厳密に測り出して祈っていた。

 RPGというロケットランチャーの優れた使い手で、4割2分のヒット率だと自慢していた……その数字が生涯ヒット率となるとも知らずに。そう、その代わり近接戦は苦手だったらしい。

 発射管のトリガーに指をかける暇もなく取り囲まれ、即座に抜きはなったシャムシールという曲刀で彼が切りつけたゾンビは首だけになりながら彼の肩に噛み付いた。


 市内、市場スークや商店街その近辺に武器弾薬食料その他もろもろ残されたものを調達、回収する為に組織された遊撃隊だ。

 ジープの後部座席は荷台の左右に粗末なシートがあるだけで、そこに4人、いやたった今一名減ったので3人が詰めている。

 行きは満席、8人もいたというのに。


「まだもう少し、医療地区までは持つと思ったんだがな」

「仕方ないよ、ここは暑いから進行も早い」

「ハキムは友達だった」

「そう。私はよく知らない」

「いい奴だった」


 天井のアシストグリップからぶら下げられたごついトランジスタラジオが雑音からやっと音声を拾い出す。聞こえて来るのはアラビア語、午後のアザーンだ。

 今日のムアジンはなかなかいい声をしている。アザーンとは礼拝の呼びかけを言い、毎日5回の決まった時間にモスクから流される。ムアジンはその呼びかけ人の事だ。

 音楽が禁忌の一つである教義なのだが実際この声にはふとした拍子に聞き惚れてしまうような魅力がある。

 輸出先が滅亡し、腐ってゾンビ化するほど溢れ余る石油で無理繰り電力を復旧させた後、最初に放送されたのがこのアザーンだった。

 レイコは改宗などしていなかったがこの響きに残された人類のかすかな希望のようなものを感じて決して嫌いではなかった。


 いざ礼拝の為集い来たれ。

 いざ礼拝の為集い来たれ。


 同志ハキムがモスクにたどり着く事はもうない。


「とても残念ね」


 振り分けられたチームは参加者全員が仲良しという訳ではない。

 むしろ、こんな別れをしたくない為に、レイコは積極的に友達を作る事を避けていた。


「今日の探索でランクが上がってインセンティブ増えるぞって、喜んでたんだけどな」

「彼は運がなかったのよ」

「弾詰まりさせやがったジャクソンが全部いけねえのさ。NATO弾使えるなんてガセをよ」


 チームのリーダーで口の悪い男が、死人に責任を被せる。


「上が旧式のファマスなんか寄越すからでしょ。倉庫にはCAR816-スルタンの新品だって余ってるでしょうに」


 ジャクソンというのはこの探索で最初に捕食された男だ。

 面制圧を仕掛ける小銃フルオートの援護射撃、それが初手からつまずき連携もバラバラ。次から次へと湧き出し襲い来るゾンビ達から命からがら逃げ帰る羽目になった元凶である。

 レイコは後方から十数匹を倒して援護したものの、とてもその数に追いつかなかった。ジャクソンを筆頭に半数の4人が餌食になった。乏しい弾薬のハンドガンや装飾品じみた剣ではいくら果敢に挑もうとも多勢に無勢であった。


 照りつける太陽。人気のなくなった広い舗装路は砂に半分以上侵略されている。

 遠くに天を突く巨大なタワーと、そしてその周りの超高速ビル群が見える。

 ふらふらと道を歩くのはただ屍のみ。

 車にはカンガルーバー改めゾンビバーを付けてある、とはいえ車体のダメージを鑑みるといちいち轢き殺してなどいられない。


 運転席でハンドルを握るインド人、ナッシュは避けるたびに急ハンドルを切る。

 人口過密のうえ交通マナー皆無だったムンバイでかつてドライバーをしていたという彼は、その腕を買われて任命された。

 縦横無尽に歩き回るゾンビをギリギリで回避するテクニックは確かに目を見張るものがある。

 当然のことながら乗り心地は最悪だ。


 身長近い長さのライフルを抱えてシートに座る、レイコは車酔いの吐き気を堪えていた。

 鳴らし続けるクラクションはごくたまにだけ止む。

 ゾンビを呼び寄せると分かっている筈なのに、遺伝子に組み込まれてでもいるのだろうインド人のクラクション好きに治療薬はない。

 死体や銃撃戦にはもうとっくに慣れた。

 クソインド人のカス運転に比べればよほどマシだ。

 奥歯を噛みしめながら、今もまた華麗にハンドルを回転させるナッシュの後頭部を睨みつける。


 16歳。

 世が世なら女子高生として青春を謳歌している筈の年齢だ。

 恋やおしゃれや噂話に花を咲かせる、そんな当たり前の未来があった筈だ。

 それが今では真っ黒なニカブに体を包み、砂まみれになりながら重たいライフルを抱えている。

 幼い頃、この地へ来てからは泣いてばかりだった事を覚えている。

 6年の歳月は彼女を歴戦の兵士に変えていた。


「なあ、君は聖戦ジハード、モール奪還作戦についてもう聞いてるか?」

「噂だけはね」


 ピラーにまた頭を打ち付け、舌打ちしながら男が言う。

 さっき死んだハキムと友達だったらしい奴だ。


「きっとまた俺たちにお鉢が回ってくるんだぜ、あいつらは上から指図するだけでさ」

「あいつら?」


 リーダーが話に割り込んできて毒付く。


「そりゃ決まってンだろ、国民エマラティ様だよ。こんなになってもう国体の維持だなんて笑い話にもならねえっつーのに未だにあいつら偉そうによォ、死の翼に触れられちまえ」


 リーダーはエジプト出身なのだろう、死の翼とは王家の呪いの文言だ。

 ありし日のこの国は労働力をほぼ外国人に頼っていた。

 労働者はフィリピンやインド、パキスタン、アフリカなど世界各地から集められ、人口の8割を超える程。

 そして2割しかいない正統な国民はその殆どが高給取りの公務員という、率直に言って非常にナメた立場にあった。

 出稼ぎの外国人と違い、彼らは常にカンドゥーラという伝統的な民族衣装を着、赤白チェックの頭巾、ゴトラを頭に巻きオカールという黒紐を重しに止めている。

 ラクダで遊牧をしていた頃から変わらない、そしてゾンビが発生して世界が崩壊しかかっていてもそれを変えようとはしなかった。

 その支配構造も。


「でもこの国はもう奴らのものじゃない。俺たちのものでもないけどな。強いて言うならゾンビの国だな。いや世界中か」

「難しい話は勘弁して。私もう脳が腐りかけてんだから」

「そういうジョークはやめろよな」

「あのねムハンマド、私はあいつらの頭を吹っ飛ばせたらそれでいいの」


 ムハンマドという名前はこの半島ではありふれていて、いやむしろ殆ど全員がムハンマドMHMMD君なのでレイコは当てずっぽうで言った。

 正解だったのかは知らないが彼はもう無言で肩をすくめるのみだ。


「私はこんな世界にした奴らを、絶対に許さない。一匹でも多く殺す、出来れば最後の一匹までね。ただそれだけよ」


 彼女の瞳の奥に隠れた黒い炎には彼は気付いただろうか。


「糞、今回の収支も腐るほどマイナスだ。やっちまったなァ」


 リーダーが絶望的な表情で嘆く。


「誰か、報告すンの変わってくれよ畜生」


 アラビア語を喋りたがらないインド人だけがただ黙々とハンドルを操作している。


※※


 オーストラリアまでは、小型ボートを使って移動する。

 と言っても沖合4.5キロにある人工島の名前だ、有袋類が生息している訳ではない。

 オイルマネーだけではなく西洋資本の流入さえ使って作り上げた群島、3億立米リューベイの砂と4億トンの岩で埋め立たてられた300以上ある小島の中の一つだ。

 島々の並びは世界地図を模してあり、各国の名前も付けられている。オーストラリアは大きい方で、約4万平米、東京ドーム一個分弱の広さを持つ。

 世界中の富豪に販売された島々、ホテルやビーチ、ショッピングモールで繁盛していた島々もあったが、今やバカンスにうつつを抜かしている奴はほとんどいない。

 きっと今や本来の所有者も、生ける屍となって世界のどこかを彷徨っているのだろうこの場所は現在、生き残った人々の最後の砦となっていた。

 海を泳いで渡れないゾンビを水際で防衛する最前線がこの島であり、物資補給やゾンビ駆除の為に遠征する部隊の窓口にもなっている。


 ほとんどいない、というのは少数の例外もあるからだ。純粋国民様達はヨーロッパあたり:一番安全な海側の島に住み、陸地側のオーストラリア付近には滅多に顔も見せない。彼らがビーチで呑気に海水浴をする姿が遠くからよく目撃されていた。

 指令や必要な物資の指定はするものの、人材や物資の管理すら外国人の労働者に任せて未だ贅沢の暮らしを謳歌しているからだ。

 純粋国民のみで作られた正規軍の近衛兵団が彼らを守護している。

 彼らは装備も待遇も桁違いだ。労働者たちは羨望と嫉妬を感じつつも手出しは出来ない。



 管理局。

 高級ホテルのレセプションがミッションの受付を兼ねている。


 装備を下ろし、メンバーは気の進まないながらも報告に向かう。

 不機嫌なリーダーの代わりにレイコが支配人に対応する。インド人は勝手に帰ってしまったのであとはムハンマドと三人だけだ。


「5人死んだ。でもみんなで26匹殺したわ」

「あのね、それでも弾薬やら人員やら減っちゃったら意味ないでしょ。雑魚ゾンなんてどれだけ減らしてもキリないんだから。街の鉄砲屋さんももうほとんど行き尽くしちゃったんだし、君たちはもう剣でも習った方がいいんじゃないの?」


 カマっぽい支配人、男の癖に髭も生やしていない彼がネチネチと嫌味を言う。

 顔付きはペルシャ系の、おそらくトルコ人だろう。


「もっとまともな弾薬さえあれば、こんな事にはならなかったわ。

 配給の質も制度も悪すぎるのよ」


 レイコは毅然と抗議するもターキー野郎は取りつく島もない。


「ならもっと稼いできたら?

 じゃなきゃ無駄に使わない事だね。

 働かざる者食うべからずだからね、今回のミッションは失敗。報酬もなし。残念だったな、次は頑張ってくれ。

 それからお前とお前、3回連続で間抜けやらかしてるみたいだな」


 分厚い手書きの書類を照会しながら支配人は言う。


「だから待ってくれってそれは俺のせいじゃない、そもそもジャクソンの馬鹿野郎がだな……」


 リーダーの男はそれから数十分に渡ってひたすら言い訳を続け、ようやく通じないと知ると不貞腐れたようにそっぽを向く。

 ムハンマドはただしょぼくれている。

 レイコだけはつんと上を向いて支配人を睨んでいる。


「降格。ドッグタグ出しな」



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