妻の微笑み

西田 正歩

第1話


私の妻が、認知症になったのは、五十代後半を過ぎた頃であった。


「なんでもありませんよ」


笑って見せたが、不安だった私は近くの病院に連れていくことにした。

検査が終わり、医師からの診断に力が抜けてしまった。その答えを受け入れたくなく、拳を握りしめていたからだ。

私以上に彼女の方が、信じれない顔をしていた。

それからは、認知症の症状をおさえる薬をもらっていたが。

六十を越えた頃には、私の名前さえうろ覚えになっていくんです。

物の場所、書き物、掃除、彼女が愛したらガーデニングは、いつからか荒れ果てていました。

料理でさえ、今では危ないので私が調理をしています。

私自身、料理をしていると思い出します。リビングに新聞持って読んでる間に妻が台所で料理を作っているんです。

皿洗い、洗面台の掃除、全て妻に任せていたのが、今は自分がしなくてはいけなくなりました。夏の日も冬の日も私の前で後ろ姿を見せながら、今日一日の話を私に聞かせてくれる。

それを私は、素っ気なく聞くが、妻は話を止めず笑顔で話していた。

彼女は働き盛りである。定年間近のになると、今まで働かせてもらっていた会社から解雇通知を出された。

戦力にならない者の末路である。

私は、その時ほど泣いたことはなかった。自分の妻を無力だと言われたも同じだからだ。

妻は、家にいるようになった。

始めのうちは、静かに部屋の中で暮らしていた。

しかし、あの日私が家に帰ると、公園でブランコに乗る妻がいた。裸足姿からそのまま外に出て歩いて来たようだ。

施設、頭の中に何度も出てきた文字であったが、私は友達からも進められてはいたが、入れるつもりは無かった。

それは決して(愛)が原因ではない。

では、私は何故に彼女を離したくないのか?

それは、周りの目が原因であった。近所では、優しく言ってくれるのもいるが、時々、心無い言葉をかけられることもあった。

私は、負けたくなかった。自分にも、周りの連中にもだ。


ある日、私は妻の首を絞めようとしていた。妻の首に触れたときだった。

妻は笑って見せた。


「・・・たさん、ありがとう」


かすれた声ではあったが、私の名前を呼んでくれた。感謝もしている。

自分がこれからどうなるか、妻には分かっていないはずなのに、私に微笑みを見せたのだ。

私は、妻の首から手を下げると、妻の手を握り「すまなかった」微笑みながら妻の顔を見て謝るのであった。


「あっ夫を知りませんか?」


「私が、君の夫をだよ」


「そんなことありませんよ、主人はもっと髪が黒かったから、」


「そうだったね、あなたのご主人は、ちょっとコンビニに行っているんですよ」


私は震える唇で嘘を言った。すると妻は納得したのか「あぁ、良かった。」と

また、あの笑顔を見せた。


それから次の月に、プライドを捨てた私は、妻を施設に預けた。


綺麗な老人ホームの廊下を彼女は、自分の居室に進んでいくのであった。


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