第600話 桜に込めた願い

 今日も早朝から要塞村の市場に人が詰めかけ、賑わっていた。

 その様子を眺めつつ、人々と交流を深めていくトア。

 今回はフォルとジャネットのふたりも同行していたのだが、


「あら?」


 途中、ジャネットが何かに気づいて足を止める。


「どうかしたのか、ジャネット」

「いえ、あそこに人が……」

「人?」


 ジャネットが指さした方向には確かに人がいる――が、そこは市場から遠く離れており、人の数もまばらだ。

 ただ、その場所にはヒノモト王国から贈られた桜の木がある。

 とはいえ、まだ開花時期ではないので、今は普通のどこにでもありそうな木にしか映らなかった。

 しかし、そんな桜の木のすぐ近くに立つ青年はジッとそれを見つめたまま動かない。おまけに市場の常連客でもなく、初めて見る顔だった。


「花の咲いていない桜を見る趣味があるのでしょうか?」

「さすがにそれはないんじゃないかなぁ……」


 フォルの予想に対して疑問を抱くトア。

 なんとなく彼が気になった三人は、近づいて声をかけることにした。


「おはようございます」

「えっ!? あっ!? ト、トア村長!?」


 どうやら青年はトアのことを知っているようだったが、トア自身は彼と会った記憶がなかった。


「どうして俺の名を?」

「それはもう有名ですから! それより……桜はいつ頃になったら咲くのでしょうか?」

「まだ先ですが、桜に何か思い入れが?」

「実は――」


 ネロスと名乗った青年は、今年セリウス王都の大臣補佐職の採用試験を受けるために田舎から魔導鉄道を利用してやってきたという。本来は王都駅で下車する予定だったが、終点である要塞村駅近くに桜があると聞いて足を運んだのだ。

 ――で、なぜ桜かというと、


「私の母親がヒノモト王国の出身で、あそこでは何か大事なことがある前に桜を見るとそれがうまくいくという言い伝えがあるそうです」

「それは初めて聞きましたね」

「あ、ああ」


 ジャネットの言うように、桜にまつわるそのエピソードはトアにとって初耳だった。

 まだ開花していない桜だが、遠路遥々やってきた青年のため、トアは神樹ヴェキラへ心の中から語りかけ、そして――


「あっ、ちょうど桜が咲いたようですよ」

「えっ? ――なっ!?」


 神樹の力によって、あっという間に桜は満開となった。

 

「これは……凄い……」


 青年は美しい桜に感動し、そして試験合格の願いを込めるのだった。



 ――その後、ネロスは無事に補佐職の採用試験に合格。

 のちにバーノン王の右腕と呼ばれるまでに成長し、要塞村の繁栄に尽力したのだが、それはまた別のお話。

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