第1話 運命の分かれ道
トア・マクレイグが生まれて初めて絶望を味わったのは5歳の時だった。
燃え盛る炎の赤。
崩れ落ちる家屋。
呑み込まれそうな夜の闇。
慣れ親しんだ故郷の情景は、一瞬にしてこの世の地獄と化していた。
「はあ、はあ、はあ」
トアは一心不乱に走り続ける。
その横にはトアと同い年の幼馴染――エステル・グレンテスがいた。
エステルもまた、この地獄からなんとか抜け出そうと小さな足を一生懸命に動かし、炎で真っ赤に染まる村の中を駆けていた。
背後には夜の闇にそびえる巨体が月明かりに照らし出されている。
「グオオオオオオオオオオオオ!!!」
耳を劈く咆哮に、トアは顔を歪めた。
恐怖と焦りを煽るその叫びは、まるで逃げ惑うひ弱な人間たちをおもちゃにして遊んでいるようにさえ聞こえた。
魔獣。
人々はその巨大な獣をそう呼んで恐れていた。
振り上げた足を大地に突き立てれば地震を起こせるほどの巨躯。
獰猛さの象徴とも言うべき鋭い爪牙。
心臓が縮み上がるほどの不気味な咆哮。
トアの村を襲った魔獣の特徴はこんなところだ。
「父さん……母さん……」
全力で駆けるトアの頬を涙が伝う。
両親はトアを逃がすため、家屋の下敷きとなった。
実の姉のように慕っていた隣の家のお姉さんは魔獣のエサとなった。
厳しくも優しくトアに剣術を教えてくれた元王国聖騎隊のメンバーである村長は、勇敢にも魔獣へと立ち向かっていったが呆気なく踏みつぶされた。
親しい人たちが命を散らしていく中で、トアは幼い頃からよく一緒に遊んでいたエステルだけは守らなくてはと必死に恐怖を押し殺して前を向いた。はぐれないよう、しっかりと彼女の手を掴み、先の見えない逃げ道をひたすらに走る。
「グオオオオオオオオオオオオ!!」
そんな小さな決意をかき消すように、再び魔獣の雄叫び。
笑顔が溢れていた村は悲鳴に包まれ、夜の闇を引き裂くような魔獣の雄叫びだけが延々と轟く。
これは悪い夢だ――そう言い聞かせながら、トアとエステルは半壊した家屋の陰で互いに寄り添いながら身を隠し、この絶望的な状況が早く過ぎ去っていくことを祈り続けていた。
……………………
…………………………
………………………………
「トア・マクレイグ、早く前へ出ろ」
「っ! は、はい!」
名前を呼ばれたトアは緊張した面持ちで立ち上がった。
魔獣討伐を目的とする精鋭部隊――その名を王国聖騎隊。
その新戦力を育てる養成所の卒業式では、今年で十四歳になる生徒たちが、卒業の証しとして適性検査を行うことになっている。
今日がその卒業式の日で、トアの適性検査が行われる番が回ってきたのだ。
こんな大事な時にボーっとしているなんて、我ながらどうかしていると思ったが、よく考えてみたら、こんな大事な時だからこそ、自分の運命を大きく変えた「あの日」の記憶が鮮明に甦ったのだろうと納得した。
今から十年前。
故郷を魔獣の襲撃によって失ったトアとエステルは、身寄りのなくなった難民の子どもを受け入れているこのフェルネンド王国へ身を寄せ、王国聖騎隊の養成所へと入った。
養成所は神官による面談を通し、優秀なジョブを得られる可能性がある者だけが入ることを許されている。もちろん、だからといって必ず優れたジョブが授けられるというわけではないのだが、大半は国家にとって重要なポストに就き、王国の繁栄を支えている。
そんな数あるポストの中でトアが目指すのはかつて故郷を襲った魔獣を討伐すること――つまり、外交や教育ではなく、防衛分野での貢献を希望していた。少しでもその可能性を高めようと努力を怠らず、養成所での成績は常にトップだった。
「頑張ってね、トア」
トアの隣の席に座り、笑顔で彼を送り出したのは、あの記憶の中で気を失っていた幼馴染のエステルだった。
艶やかなセミロングの赤い髪。
少しだけつり上がった目には宝石のように輝く緑色の瞳。
一点の曇りも見えないその完璧な微笑みは、小さな頃から見慣れているはずなのにいつだってトアをドキッとさせる。
「聖騎隊に入って、私たちのような思いをする人がいなくなるように、魔獣を倒そう」
幼い頃に誓ったエステルとの約束。
そのためにも、魔術か剣術といった戦闘系の適性を得て、晴れて聖騎隊へと本入隊することこそが、二人にとって最大の目標だったのだ。
「贅沢は言わないけど……戦闘系がダメなら補助系でもいいよ」
神官の待つ祭壇へと続く道の途中で、トアは呟いた。
理想としては、自分が戦う役目を担い、エステルには回復系スキルなどで補助役に回ってほしい。そのために、学園に入ってからできた仲間たちと夜間の自主鍛錬を続けてきたのだ。
当然、そううまくなんていかないのだろうけど、あまりエステルには前線に出てもらいたくはなかった。
「では、始めるぞ」
初老の神官が、目の前にある水晶へトアを導く。
「さあ、祈りを」
神官に促されて、トアは両手を組んで目を閉じた。すると、大きな水晶は徐々に青白く発光し始める。その後、水晶には祈りを奉げた者が持つ適性が浮かび上がり、それを神官が読み上げるのだが、
「こ、これは……」
神官の表情が険しくなり、沈黙。
永遠にも感じられる長い間が、たまらなくトアを不安にさせた。エステルも心配そうに壇上のトアを見つめている。あまりにも時間が経過したため、周囲からざわつきが起こり始めていた。
「これ、早く読み上げぬか」
痺れを切らせた王国関係者に催促されたことで、ようやく神官はトアの適性を述べる。
「この者の適性は――《ようさい職人》です」
途端に、それまでのざわつきが嘘だったかのように静まり返った。
「よ、ようさい職人?」
「聞いたことがないぞ、そんなジョブ」
「それってあの洋裁のことか?」
「なんじゃそりゃ」
「あれか、服飾関係ってことか?」
「おいおいマジかよ」
「戦闘じゃただのお荷物じゃねぇか」
次第に漏れ聞こえてくる声。
呆れ。
蔑み。
嘲笑。
周囲の囁きに気づいたトアは、たまらなく恥ずかしくなって、力なく水晶から離れると力なく自分の席へと戻った。気持ちの整理がつかず、頭を抱えて項垂れる。どこからか、「俺じゃなくてよかったぜ」と安堵している者の声も聞こえた。
なぜ?
どうして?
答えのない自問自答を繰り返しているうちに、大歓声が会場を包んだ。
歓声を一身に浴びていたのは幼馴染のエステルだった。
ショックのあまりエステルの適性を聞き逃したトアであったが、隣に座る同期生の言葉で真実を知ることとなる。
「凄ぇな、まさか大魔導士とは」
その言葉を耳にしたトアは大きく目を見開き、壇上で照れ笑いを浮かべているエステルを見つめた。
あらゆる属性の魔法を使いこなせることができるという大魔導士の適正。誰もが喉から手が出るほど欲しがるもので、王国でも同じ適性を持つ者は十といない。
魔獣への復讐と幼馴染を守る。
二つの誓いを果たすため、勇んで適性検査を受けたトアであったが、想定以上の最悪な結末を迎えることになった。
一方、幼馴染のエステルは一躍英雄候補に名乗りをあげた。
「はあ~、緊張した~」
儀式を終えたエステルが席に戻って来る。会場は未だにどよめきに包まれているが、当のエステル本人はサバサバしたものだ。
「よかったね、エステル」
トアは、内心の落胆を感じさせないよう、努めて明るく成功が約束されたエステルを祝ったが、
「トア……ありがとね」
そんなトアを見たエステルは、あっさりと胸の内側を悟る。トアも、自分の内心を見透かされていると理解した。
トアはエステルに惚れていた。
小さな頃からずっと、エステルのことが好きだった。
生まれ故郷のシトナ村は人口が少なく、子どもはトアとエステルだけだったので、二人が親しい間柄になるのは必然のことだと言えた。
だから、好きな子に戦闘とは一切関係のない《洋裁職》の適正ありと診断された瞬間を目撃されたことが、トアにはショックだった。おまけに、エステルがとんでもない有能ジョブ持ちであることが追い打ちをかけ、それから声をかけることさえできなかった。
村がなくなってからは一緒に肩を並べ、お互いを励まし合って生きてきたトアとエステル。
自分の気持ちを伝えようとしたこともある。だが、エステルは可愛くて優しくてなんでもそつなくこなす天才肌で――自分には勿体ないくらい素晴らしい女の子だ。ゆえに、きっと自分よりも相応しい相手がいるはずだと、トアは思っていた。
今のままでいい。
エステルが幸せになれるなら。
恋人でなくても、すぐそばで彼女を守れる存在になれれば。
――でも、その関係でさえ、きっと今日が最後になるだろう。
それほどまでに、トアとエステルの間に生じたジョブの差は大きなものであった。
結局、気まずくなった二人が言葉を交わすことはほとんどなくなった。
魔獣との戦闘では役立たずであることが確定しているトアは前線で魔獣と戦う聖騎隊の編制から外され、現場を退いた引退間近の老兵や同じように兵としての役目を果たせないはみ出し者が集まる遺失物管理所――ようは落し物係へと配属が決定した。
聖騎隊は成績優秀者であるトアの能力を最大限に発揮できるよういろいろと可能性を模索してくれたが、すべてが無駄に終わった。
こうして、トアの新生活はなんとも厳しいスタートとなったのだった。
◇◇◇
遺失物管理所での仕事が始まってからも、トアはこれまで通り、一生懸命に取り組んだ。
同期が華々しい活躍をし、自分の願望が叶わなかったからといって腐ることなく仕事に邁進していた。
空いた時間には剣術の自主稽古を積み、腕を磨いた。
いつの日か、エステルと共に戦場を駆けて魔獣を倒す。
幼い頃から抱き続けた夢をあきらめきれず、不安を払拭するようにトアは日々修行に明け暮れた。
一方、大魔導士となったエステルは順調に英雄への道を歩んでいた。
七つある魔法属性のすべてを完璧に使いこなし、多くの使い魔を従え、すでに聖騎隊の中では群を抜いた強さを誇っていた。先日も、単独による魔獣討伐を聖騎隊史上最年少で達成したことで王国中の話題を掻っ攫った。
そんな彼女を「是非とも嫁に!」と近づく貴族たちも後を絶たなかった。
強くて優しくおまけに美少女。
誰もがエステルを放っておくわけがない。
そもそも、養成所時代からとても人気があったのだが、常にエステルの近くにはトアがいたため、誰も彼女を口説こうとはしなかった。それほどトアとエステルが仲睦まじい様子だったと言える。
しかし、トアが《洋裁職人》という無能な適性であったことが発覚し、二人の関係に変化が起こると、これを好機と見た男たちが寄って来たのである。そこへ貴族まで参戦してきたのだから大騒ぎだ。
当然、そのような噂はトアの耳にも入ってきていた。
だが、エステルが特定の人物と交際をしているという噂は耳にしない。
あれだけの男たちが口説いても、エステルは振り向かなかったのだ。
ちょっとだけ安堵していたトアであったが、その安堵も長くは続かなかった。
「エステル・グレンテスがコルナルド家の長男と婚約したぞ!」
出勤してきた同僚が、職場である遺失物管理所へ入ってくるなりそう叫んだ。
「そりゃ本当か?」
「ああ! なんでも、エステル・グレンテスが聖騎隊に入った時からお互い一目惚れだったそうだ! 今、エステル・グレンテスは北方遠征に参加しているので、一ヶ月後に帰還してから正式に国民へ発表する見込みらしい」
「なるほど……道理で誰にも靡かないわけだ」
「あのコルナルド家が相手じゃ鼻から勝ち目はなかったってわけか」
コルナルド家の長男――ディオニス・コルナルド。
次期聖騎隊隊長の呼び声も高く、端正な顔立ちも相まって女性人気が高い。エステルがこれまでどんな男の口説き文句にも振り向かなかったのは、影でこのディオニス・コルナルドと交際をしていたからだと同僚は熱く語った。
その日、トアは早退をしてエステルのもとを訪ねた。
もちろん、真相を聞くためだ。
だが、彼女は北方遠征参加のため不在だった。帰ってくるのは一ヶ月後だという。ここまでの情報は同僚が語っていたものと一致していた。
それでも信じられないトアであったが、帰り道である王都の中央広場付近に人だかりができているのを発見する。そこでは号外の新聞が配られており、その見出しにはハッキリと「エステル・グレンテスとディオニス・コルナルド、婚約へ」という見出しが躍っていた。
トアはすべてを理解する。
聖騎隊へ入ってから一度もエステルに会っていない。
それは、彼女が忙しいからなのだと思っていた。
不思議と「悔しい」という気持ちはなかった。
むしろ、なんだかスッキリしている。
それに、自分なんかよりもコルナルド家の一員となった方が、今後の彼女の幸せになるだろう。
これが決定打であった。
それから先のことを、トアはあまりよく覚えてはいない。
ただ、気がつくと管理所長の前に立ち、
「今までお世話になりました」
と頭を下げていた。
それが、フェルネンド王国でトア・マクレイグが発した最後の言葉となった。
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