第101話 麗しき 女の影に 悩みあり 前編
サクっと書くつもりが前後編になっちゃった。
D君の昔の学校の友だちの回復令嬢の話です。
口調めちゃくちゃ難しくて、途中で「チョコが一番ですわ」に思えてきて後悔しましたのでございますわ。
…………………………
夫の休みに合わせて久々に戻ってきたトルキイバの街は、すっかり様変わりしていました。
魔導学園の時計塔の上から見渡せば麦畑の果てまで見渡せたこの街も、今では背の高い建物が随分と増えて空が賑やかに。
王都からだって見える気がするトルキイバの巨人も、領主のスノア家のサロンよりも人気だとかいう野球場なる場所も、私がこの街に暮らしていた頃は影も形もなかったもの。
実家の父からそれらを全て作ったのが私の同級生であるあのサワディ・シェンカーだと聞かされてからは、彼に対する考えも少し変わりました。
才能はありながらも大義を見いだせぬ俗な男だと思っていましたが、どんな徒花にも咲くべき場所はあるものですわね。
それにしても、私がそんな彼の作った劇場のお披露目公演に行くことになるだなんて、学生の頃には思いもしませんでしたわ。
「君は今日行く劇場のオーナーとは同級生なんだっけ?」
「そうですわ、シェンカーとは薬学と造魔学で道は違えましたけれど、いつも再生魔法の成績では競い合っていましたの」
劇場へと走る馬車の中、隣へ座る夫が興味深そうに聞くのに答えると、彼は「再生魔法か……そういえば、陸軍の方でそんな噂があったな……」と呟いて窓の外を向いてしまいました。
一体どんな噂なのかしら?
少しだけ疑問に思い、夫へ問いかけようとした私に、向かいの席に座る父から声がかかりました。
「エルファや、サワディ氏は今はシェンカーではなくスレイラ性だよ」
「あら、そういえばそうでしたわね。気をつけませんと」
そういえばシェンカーは王都から来た元軍人の方と結婚したのでしたわね。
芝居狂いの平民三羽烏の一人だった彼も、今や貴族で劇場のオーナー。
そう考えると、彼が薬学でなく造魔学を選んだのは成功だったのかしら?
いえ、彼の才能があれば薬学でも同じように成果を出したはずですわね。
「エルファごらん、あの白い劇場がそうだよ」
「あら、劇場は普通の大きさですのね」
「あの巨人のように歩いたりもしないさ」
大きいものばかり作っているシェンカーだけれど、なぜ一番こだわっていた劇場は普通の大きさで作ったのかしら?
「さあ着いたぞ、さっそく向かおうじゃないか」
「お姫様、お手を拝借」
「あら、ありがとう」
先に馬車から降りた夫のエスコートで外へ出ると、いつの間にか街には少し時期外れの雪がちろちろと振り始めていました。
中が少しは暖かいといいのだけれど、と思いながら白い息を吐き、ふと上を見上げれば、何やら蜘蛛のように足の多いバイコーンの石像がこちらを見下ろしています。
そういえば、昔から少し趣味の悪いところがありましたわね。
「そういえば、お父様はどこでサワディ氏の劇場の幕開け公演に招かれるような仲になったのかしら?」
「お前も知っての通り、我がランツァ伯爵家は野球チームを持っていてな。サワディ氏はかの競技の考案者だろう?」
「単なる球遊びなのでしょう? なぜお父様のような方が夢中になるのかしら」
「これがなかなか奥深いものなのだよ。なぁ
「昨日一日練習と試合に参加させてもらいましたけれど、たしかに楽しいものでした」
「そうだろうそうだろう、君の背番号はずうっと開けておくから、また付き合ってくれたまえよ」
「是非」
「まあっ! お父様、私の旦那様をお父様の趣味に引っ張り込むのはやめてくださいまし」
入婿の夫と父の仲が良いのはこの上ない事なのですけれど、妻を買い物にも連れて行かず放っておくような趣味にのめり込んでしまうのは良くない事ですわ。
そんなことを話しながら開けっ放しの入り口を通ると、暖かい空気が頬を撫でました。
外と同じように白く塗られた劇場内はまるで王都の歴史ある劇場のような古典的な装飾に設えられているのに、その中に夥しいほどの造魔や魔具が設置されているのが不思議な印象。
二階まで吹き抜けのホールを煌々と照らす豪奢な照明も、控えめな音量で心浮き立つような音楽を流している平べったい板も、客席へと続く扉の上に据え付けられた『上演中』と書かれた看板も、全て普通の物ではありませんわ。
なるほど……ここは正真正銘、造魔学者サワディ・シェンカーの城というわけですのね。
「じゃあ、入ろうか。私達は一番上の四階席だよ」
「ええ」
受付を済ませたお父様に続いて、私と夫も受付横にある入場門を通って先へと進みます。
私達が招待されたのは部屋のようになっている特別席ですから、いちいち人数分チケットを見せる手間がなくて煩わしさがなくていいですわね。
入場門から少し進んだ先にある二階へ上がる階段の方では、色とりどりのドレスを着た令嬢達とそれをエスコートする殿方達がキャアキャアと楽しそうに騒いでいました。
何か特別な意匠を凝らした階段なのかしら?
「お? おお、あれはどうなっているんだ?」
「階段が動いていますね」
「階段が動く……? ああ、人が沢山いらして見えませんわ」
「エルファ、抱っこして見せてあげようか」
「御冗談! お父様、
「まあまあ、もうちょっと進めば君にも見えるさ」
背の高いお父様と夫には何かが見えているようなのですけれど、私からは人が階段を上がっていく様しか見えませんわ。
でも何かしら?
たしかに足を動かしていないようにも見えますわね。
「階段に乗ったら歩かないでくださーい。降りる時は足元を見て注意して降りてくださーい」
階段の前では仕立てのいい黒い服を着た劇場の従業員がよく通る声でそんな事を言っています。
混雑する階段に近づいて列に並ぶと、どんどん列は前に進んでいきます。
「あらっ、本当に階段が動いていますわ」
近くまで来ると、人が立ち止まったまま上の階に運ばれていくのがわかりました。
音もなくスルスルと人が動いていく様は、なんだか見ていて不思議なものでした。
凄まじいですわねシェンカー、こんなものまで作り出してしまうだなんて。
「さて、どんなものかな……」
こわごわとした足取りで最初に階段へと乗った父に続いて、夫と私も動く階段の上に乗りました。
階段は何の振動もなく、ただ私達を上の階へと連れて行ってくれます。
階段と一緒に動く手すりに身を乗り出し、こわごわと階段の下を見てみると、隣に立っている夫が「危ないよ」と私の肩を引きました。
彼が指差す先には、自動階段と普通の階段を隔てるように作られた壁があって、その壁には身を乗り出さないようにとの注意書きとクッションのようなものが取り付けられています。
誰かが頭を打ったのかしら?
「足元を見ながら降りてくださーい。降りたら立ち止まらず進んでくださーい」
降り口にも従業員がいて、誘導をしてくれているようね。
誘導に従って降り口で降り、もう少し階段の動きを見たいというお父様に付き合って少し離れた所から動く階段を見物します。
「これは実に便利な物だなぁ、うちの家にも欲しいとは思わんかね?」
お父様はそんな事を言いながらニコニコしていますけれど、こんな大掛かりなものを家で使うとお金がかかってしょうがないんじゃないかしら?
私も小さな家とはいえ夫との暮らしの会計を任されたからお父様の乱費ぶりがわかるようになったのだけれど、きっとお母様も苦労なさったのね。
「凄いわよねぇ、動く階段だなんて」
「この劇場のオーナーのサワディ・スレイラだっけ? あの人、あんなおっきな造魔が作れるんだから、きっとこういうものも簡単に作れるのよ」
「これ、うちにも欲しいわぁ」
「ねぇねぇ、もう一回乗りましょうよ」
きゃあきゃあと騒ぐ令嬢達がそんな事を話しながら、一階への階段を小走りで降りて行きました。
あら、ああいう方が何度も乗るから混雑していたのね。
「お父様、早く席に参りましょう」
「まぁ待ちなさい……ああそうだ、あの喫茶店で飲み物でも買ってきてくれないか」
そう言ってお父様が指差した先には、この街では有名な喫茶店がありました。
緑と白の内装が爽やかなアストロバックス、そういえばこの店もシェンカーの経営する店なのでしたわね。
「嬉しいわ。この店、一度入ってみたかったんですの」
「有名な店なのかい?」
不思議そうにそう聞く夫に、なんと返していいかちょっとだけ迷いました。
「……この街では、ですわね。サワディ氏の経営する庶民向けの喫茶店ですの」
「庶民向けの喫茶店? ああ、だから知っているのに入ったことがなかったのか」
「そうなんですの。使用人などから話を聞くばかりで……」
当時は私からの薬学研究室への誘いを断ったシェンカーに対する反感もあった事ですし……
普通にお店に入る貴族の子がいることも知っていましたけれど、私はなんとなく行く気にはなれなかったのです。
「じゃあ今日はここに来て良かったじゃないか」
「そうですわね。噂に聞いていた、白くてふわふわした飲み物を頂いてみる事にいたしましょうか」
私は夫と共に令嬢達の並ぶカウンターへと、思わず弾みそうになる足をことさらゆっくりと踏み出したのでした。
『特別席のお客様は席番号をお教えくださいませ』と書かれた看板に従ってその旨を申告すると、特別席の場合は席まで飲み物を持ってきてくれるそう。
特別席の料金には飲食費も含まれているとの事で、お金を出さずに済んだのも煩わしくなくて良かったですわ。
別にこのような場所で特別扱いされたいというわけではありませんけれど、便利な事は嬉しい事ですし。
階段の近くへ戻ると、お父様はまだ動く階段に夢中のようでした。
「お父様、いい加減にしてくださいまし。席へ参りましょう」
「あ、そうだね。そろそろ行こうか」
四階の席を目指して、二階から三階に上がる動く階段に乗ります。
こちらでも昇っては降りてを繰り返している方々がいらっしゃるようですけど、一階よりはマシですわね。
「ふぅん、この階は絵画の展示をやっているのか」
「この逆だった真っ赤な髪の女性は誰でしょうね、ここの劇団の役者でしょうか?」
「案外、なんでもない人物の絵かもしれませんわよ」
「いやいや、彼女は野球選手さ」
「野球選手? なぜそんな方の絵を……?」
まあ、シェンカーは学生の頃も自分で書いた劇を素人の役者に演じさせていたという噂を聞いたことがありますし……
こういう所に飾る絵画でも、あまり格式とか体裁にこだわりがないのかしら。
一応ざっと見て回りましたが、特別目玉になるような名画や高名な画家の絵があるわけでもなく。
大きな弓を天に向けるケンタウロスの絵画を熱心に見ている方もいらっしゃいましたけれど、正直言って良くも悪くもない普通の絵が沢山あるだけでしたわ。
壁に何もないと寂しいから、とりあえず飾ってあるだけなのかもしれませんわね。
「君、この絵は買い取れるのかね?」
「可能です、よろしければ一階のカウンターで終演までお取り置き致しましょうか?」
「ああ、そうしてくれ。これと、そちらの鳥人族の絵を」
と思っていたら、何やらお父様が従業員とそんな話をしていました。
「お父様、何かいい絵がございまして?」
「ああ、この絵はいいぞ。これまで二度しか登板機会のなかった
「ローラ・スレイラ女史というとサワディ・スレイラ氏の奥方ですわよね? そのボンゴという方は? 鳥人族ですわよね?」
「いやいや、魔術師と言っても魔法を使うわけじゃあなくてね。彼女はマウンド上の魔術師でね、い~い選手なんだ。リーグ戦開始前からの野球ファンはね、みんな彼女の投球を食い入るように見つめたものさ」
よくわからないですけれど、本当にお父様は野球というものに夢中ですのね。
でも、同じような殿方は他にもいらっしゃるようで、お父様の言った絵が壁から外された時は遠くから残念そうな「あぁ……」という声が上がりました。
その声を聞いてか聞かずか、お父様はめったに見ることがないようなご機嫌な足取りで四階への動く階段を一段飛ばしで昇っていきます。
そんなお父様ですから、四階を埋め尽くすように設置された一面の野球の展示には大変にお喜びで、もう飛びつかんばかりに走って行ってしまいましたわ。
「これは凄いぞ! さすがはスレイラ家、よくわかっているものだ」
「もう、お父様ったら……」
絵と字が壁の果までずぅっと続く読み物の展示には殿方達が熱心に張り付いていて、あまり興味のなさそうな奥様方や私のような娘はそれをちょっと遠巻きに見ている状況でした。
全く、今日は観劇に来たってことを忘れてしまったのかしら。
もう先に席に行って座ってようかしら……
そんな事を考えていた私を、楽しげな夫の声が呼びつけました。
「エルファ、ちょっと来てごらん」
「どうされましたの?」
「ほら、これ」
夫が指をさした先には、ガラスケースに陳列された銀の時計がありました。
時計は高級品ですけれども、今や平民でも裕福な者は普通に持っているもの。
夫が気にするようなものとは思えませんでしたが……
なんと彼が指差したその時計は、木で作られた人の腕の手首に巻かれていました。
「まあっ、変な時計」
「これもサワディ氏が考えたのかな? いちいち懐から取り出さなくても見れるなんて、軍人が気に入りそうな実用品だけど」
「時計職人カシオペア作、
「そうでもないんじゃないかな? 僕は一つ買ってみてもいいかと思うんだが……」
「いけません。カシオペアなんて職人は聞いたこともありませんし、きっとすぐに動かなくなりますわ」
「そうかなぁ……」
諦めきれない様子で頭をかく夫ですけれども、変な物とはいえ時計ですから値も張りますし、一家の会計を任された者としてこの出費には首を縦に振ることはできませんわ。
お金遣いの荒いお父様だって、こればかりは駄目と言うはず……
「君、これも一つもらおうか」
「あっ、お義父さん」
「あら」
と思っていたら、いつの間にか私達の隣に来ていたお父様が満面の笑みでそのヘンテコな時計を指差していました。
引き連れていた従業員は蠍の刺繍の入った真っ赤な服や、何に使うのかもわからないような木の棒や革の手袋を両手一杯に抱えています。
ああ、お母様の積年のご苦労が今、身に沁みてわかった気がしますわ……
「君たち、この時計はね、革新的な構造なだけではなく、裏側には蠍、文字盤には貴族リーグ発足記念日の彫金が……」
嬉しそうに解説するお父様を無視して、私は夫の手を引いて自分達の席へと向いました。
お父様は素晴らしいお方ですけれど、夫には真似をしてもらいたくない部分もありますわ。
そういう時は悪影響を受ける前に、きちんと私が引き離しませんと。
「まあ、いい席ですわね」
「本当だ」
夫の手を引いてやってきた私達の特別席は、舞台のほとんど真正面。
普通の席の上に
椅子も座り心地の良さそうなソファですし、真ん中にはテーブルがあって、さっき注文した喫茶店の商品も置かれていましたわ。
「ああ、ここからでもお茶や珈琲の注文ができたのか。用事や注文がある時はこのでっぱりを押すようにって書いてあるよ」
「それは便利ね」
楽しそうに席の説明を読んでいる夫を見ながら、私は昔からずうっと気になっていたアストロバックスの白ふわ珈琲を飲みます。
雪みたいに白くてふわふわしたものが沢山盛り付けられた暖かい珈琲。
白くてふわふわしたものが少し溶け始めたそれに口を付けると、ほんのり甘くまろやかな味がしました。
「意外と珈琲がきちんとした味ですわね、侮れませんわ、シェンカー」
「ふふ……君、口の周りに白いお髭が生えているよ」
そう言われてハッと口に手をやると、苦笑した夫がハンカチで口元を拭ってくれました。
可愛い見た目ですけれど、飲む時は気をつけないといけないわね。
「あら、どうしましたの?」
私がまた珈琲を飲もうとすると、ハンカチを手にしたまま、いたずらっぽい目で私を見つめている夫に気が付きました。
「だめだめ、まだ口についてるよ」
小声でそう言いながら私の顎に手を寄せ、彼はゆっくりと顔を近づけてきます。
「だめよ、人に見られてしまうわ」
「見えないよ、特別席だもの」
あら、そういえばそうでしたわね。
隣の特別席との間には壁がありますし、下の普通席からはこちらは見えませんし、上は……あらっ!?
三階に飾ってあった絵に描かれていた、真っ赤な髪の女性が今上から覗いていたような……見間違いかしら?
「可愛いエルファ、僕だけのお姫様」
見間違いよね、四階が最上階なのだもの。
私は夫の首元に手を回して、ぎゅっと引き寄せました。
開演までの少しの時間ですけれど、こっちに来てから久しぶりの夫婦水入らずですもの。
お父様……今少し野球に夢中でいてらしてね。
上演のベルが鳴って部屋にお父様が駆け込んでくるまで、私達は束の間の戯れを楽しんだのでした。
…………………………
欲しいスマホが色々出たんですけど、iPhone13 ProもGalaxy Z Fold 3も高すぎワロタでした。
次回、演劇本編。
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