陽が沈むまで

実未 さき子

陽が沈むまで

顔に差し込む太陽の光で目を覚ます。

ーいけない。学校に行かなくちゃ。

慌てて身を起こし、少女は、自分が学校に行かなかったことを思い出した。心がずん、と重くなった。

いつの間にか、夕方になっていた。

何か特別な出来事があった訳ではない。朝、いつも通りに家を出て、学校への道を途中まで進んだ。しかし、果物屋につやつやと並ぶオレンジを見たとき、急に足が向かなくなり、真っすぐに進むべき角を左に曲がったのであった。あてもなく街をさまよい、この海岸にたどり着いた。砂浜に打ち上げられた、真っ二つに折れたボートの陰、そこが今日の居場所だった。

傍らには、一匹の子猫がいる。生まれて2週間といったところの、本当に小さな子猫であった。街の中を色々と歩き回るうちに見つけ、連れて行くことにしたのだ。


ちょうど陽が沈みはじめたようだ。天上から落ちていく太陽が、この日一番の激しさで燃えている。

目の前に広がる海では、群れを成すカモメが水面から餌を獲ろうと奮闘している。向こう側の海岸では賑わいはじめた市場の活気が、さらにその先からは灯りがともりはじめた家々の温もりが漂ってくる。全てがいつもと同じ、当たり前の光景であった。しかし少女にとっては、自分が入り込む資格を永遠に失ってしまった別世界であった。

学校へ向かう道を、逸れてしまった。このことが朝の自分と今ここにいる自分を全くの別の人間へと隔ててしまったように思えた。

自分はなんて大変なことをしてしまったのだろう。病気になった訳でもなく、ただ何となく行きたくないって理由で休むなんて。そんなこと、クラスの皆が聞いたら軽蔑するに違いない。それに、学校に来ていないことはもう両親にも知られているはずだ。心配しているに違いない。私はもう、両親の元にも友人の元にも帰れない。こうして身を隠して、嬉しいことや幸せなことを求める心を押さえつけて生きていかなければならないのだ。

向こうから少年が3人、浜辺を駆けてくるのが見えた。それぞれの顔に見覚えは無かったが、少女と同じくらいの年頃のようだ。見つからないよう身を小さくしてボートの陰に隠れ、彼らの声が遠ざかるのを待った。


太陽はさらに重さを増し、地上を染めている。取り残された空は、寂しげな色をしていた。

餌をついばむのを止めたカモメたちが、市場の方へと飛び去って行く。しばらく見ているとその中から一羽が群れを抜け、こちら側をめがけて飛んできた。少女はぼうっとそれを眺めた。子猫は大人しく、横でじっと座っている。

カモメは器用に旋回し、少女と子猫のちょうど真ん中に降り立った。そして左右を交互に回し、おもむろに口を開いた。

「僕は芸術のことなんてこれっぽっちも分からないけどね、毎日誰よりも近いところで見る夕陽はとても綺麗だと思うんだ。美しいものって僕、これしか知らないよ。でも、これだけで十分さ。」

カモメが喋りだすなんて。少女はとうとう自分の頭がおかしくなったのだと思って、さらに絶望的な気分になった。そんなことはお構いなしにカモメは続ける。

「今だってそうさ。いつも通り、夕食の後に群れを抜け出して、太陽に近づこうとしていたところだったんだ。ぴちぴちと跳ねる喉越しの良い魚をたらふく食べた後の、きれいな夕焼け。毎日やってくるこの時間が大好きなんだよ。」

「あら、この空が寂しくなる時間が?私は嫌いだわ。ひとりぼっちでいるといつも心細くて泣いてしまうの。でも少しの辛抱よ。お星さまが出てきてくれるまでのね。」

子猫が応えた。

「その人間の子もきっと私と同じだわ。だってお昼寝から目を覚ましてからずっと浮かない顔をしているんだもの。ねぇ。」

そう言って、丸い瞳をこちらに向ける。

いっそのこと頭がおかしくなった方が楽になれるのかもしれない。それに、今子猫が言ったことは正確ではなかった。

少女は思い切って反論してみることにした。

「違うわ。寂しいからじゃないの。私、今日悪いことをしたの。学校をサボって、勉強もしないで一日中歩き回って時間を無駄にした。立派な大人になるために両親が学校にやってくれるのに、そんなみんなの思いを踏みにじって、好き勝手やって、おまけに急に姿を消して心配をかけているの。」

自分のしでかしたことを話ながら、どんどん気が重たくなるのを感じた。自分はなんと罪深い人間なのだろう。

「学校ってとこのこと、私は良く知らないけど、両親がいるっていうのは羨ましいわ。」

子猫が言った。

「ふむ。どうして君は学校に行かなかったんだい?」

訳知り顔なカモメが、人間が腕を組む時みたいに翼を胸の前で交差させて訪ねた。

「さぁ。自分でもよく分からないの。魔が差した、としか言いようがないわ。その時は何となく、学校に行くことって絶対的にに大事なことではないような気がしたの。学校に行かない、私の別の生き方があるんじゃないかって。でも違ったの。今こんなに罪悪感に駆られている。結局私は嫌なことから逃げていただけなのよ。」

カモメは「ふむふむ」と頷いた。子猫はお喋りに飽きたのか、口を挟むのを止めて小さくうずくまっている。


太陽は海に浸かりはじめている。向こう岸の市場が、群青色の空間に光を灯している。

「君は、なぜ今こうやって僕たちと言葉を交わすことが出来ているのか分かるかい?」

カモメは少女の言ったことには触れずに、質問をした。

「それは、私がもうまっとうな人間じゃないからよ。」

少女はうなだれて答えた。

「違うな。」

カモメは、チッチッと嘴を鳴らした。

「海と混ざり合う太陽っていうのはね、この世界の裏側とつながっている、いわば世界の秘密への入り口なんだ。だから陽が昇ったり沈んだりする間ってのは色々と不思議なことが起こるんだよ。こんな風に違う生き物同士で話ができたりね。でも誰だって世界の秘密を垣間見れる訳じゃないんだ。今自分が見ているものが全てだと思っているような奴には何も起こらない。目の前にある当たり前に「もしかして」とあれこれ想像を巡らせることが出来る奴、そしてその「ちょっと違う」世界に飛び込む勇気を持った奴にしか秘密に触れることはできないんだ。」

「じゃあ私は今、世界の秘密を知ることができたということなの?」

少女は半信半疑だった。自分は学校をずる休みした上に、世界の秘密まで見ることができているというのだろうか。

「そうだよ。」

これ以上詳しく説明する気は無いらしい。

自分がこうしてここにいることが本当に正しいのかは分からない。でも、カモメの言うことは本当のことなのかも知れない。

「あなたはどうやってこの秘密に触れたの?」

少女は心から知りたいと思ったことを、カモメに質問してみた。

「沈む太陽に追いついてみたいと思った時さ。周りのカモメ連中は『鷹や鷲ならともかくカモメのちっぽけな体じゃ無理さ。』と笑ったけれど、僕は少しでも近くで見たいと思って、群れを抜けて飛ぶことにしているんだ。飛んでも飛んでもまだ届きそうにないけれど、一人きりになって飛ぶのって自由な気持ちになれてすごく楽しいんだ。群れから外れるなんて恐ろしいことだと思っていたけれど、全然違うってことが分かったよ。」

水平線の方を見つめながら、カモメは答えた。少女も同じ方向を見つめた。

太陽はかけらほどの大きさだった。頭上では、うっすらと光る星が姿を現し始めている。

「あ、お星さま。」

子猫が飛び起き、少女の肩に掴まるようにして空を見上げた。

カモメはフッと微笑み、偉そうな口調で子猫に向かって言った。

「ひとりぼっちの子猫ちゃん。夕暮れをあまり怖がっちゃいけないよ。寂しさを感じることってそんなに悪くないんだ。新しい世界を見つける時は、誰だって孤独なんだからね。」

言いたいことを全部言い終えて満足したのか、カモメは群れに戻るつもりらしく離陸態勢を取った。

「今日は楽しかったよ。またね。」

シンプルでありきたりな別れの挨拶の言葉を残し、飛び立った。超音波のような、少女にも子猫にも出せない声を空に響かせながら。

家に戻ろう。少女はそう決意して立ち上がった。明日からまた学校にも行こう。自分が触れた世界の秘密と、これから生きていく世界の境界線を自分で見つけるために。

「一緒に来る?」

少女は子猫に問いかけた。

―ニャァ

子猫は少女の目を見て応え、やがてくるっと回れ右をして防波堤を飛び越えていった。

あたりは暗くなり、空と海の境界線は薄闇の中に消えていた。

市場の賑わいをを目指し、少女は歩き出した。

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