鐘
実未 さき子
鐘
星明かりはまばらに、嵐の後の静かな夜であった。
宿無し老人ジョゼは、古びた教会に忍びこむ。窓から滲む空の明かりが微かにあるだけの、寂しい場所であった。それでも、屋根のある場所には違いない。荷物をおろし、薄汚い毛布を引っ張り出す。
何者かに見つめられているような気がするのは、聖母像のせいなのだろうか。聖壇を見つめる。小さな教会なのに、遥か彼方にあるようだ。
ー神はまだ、私に試練を与えようというのだろうか。早くこんな惨めな日々から解放されたい。
何者かに見つめられていたような気がしたのは、猫のせいであった。ずぶぬれで横たわる黒い猫だ。ぐったりとしているが、こちらを見ていたその目は信じられないほど美しかった。宝石を映したガラス玉のように、透明な光を放っている。
ジョゼは猫を抱きかかえ、ボロきれのような服の裾で、濡れた体を拭いてやった。次に毛布を折りたたみ、猫が丁度よく収まるように包んだ。自分自身はその横に寝そべる。傍らで揺らめく猫の瞳を、ぼうっと眺める。ゆりかごの中で火の玉を見つめているような気分だ。安らぎと混沌とに同時に襲われ、意識がどこか深い所へと引きずり込まれていく…。
目が覚めると、足元で炎が燃えていた。赤色に透き通り、小ぶりだが力強く燃えている。教会を燃やすことなく人を暖めるだけの、魔法の炎であであるようだ。
そばには火の精霊が立っていた。年頃の娘の姿かたちをした、美しい精霊だった。
「雨にうたれ、火を灯す力も奪われて、瀕死の猫の瞳に隠れることしか出来ませんでした。しかしあなたが猫を助けて下さったお陰で、私も回復しました。お礼にあなたのために、炎を燃やしましょう。その痩せ細ったお身体を温もりで包み込み、癒して差し上げましょう。」
宝石色をした火が、覆いかぶさるようにジョゼを包み込む。じわりと、首筋から肩にかけて柔らかくのしかかる炎の心地よさに、思わずうっとりとした。愛する女の胸に抱かれている時の心地とは、このようなものなのであろうか。
「ああ、私が助けたその精霊の名を、私は知りたい。」
目の前の美しい娘に吸い寄せられるように、ジョゼはため息をつく。
「あなたがお助けになったのは、火の精マニュです。」
炎の中から染み出るように、柔らかい声が身体の周りに響いた。
「マニュ、私のためにひとつ、踊りを見せてくれないか。」
「私は踊りなど、生まれてこの方やったことはありません。」
精霊のきっぱりとした口調も、ジョゼの柔らいだ心はやんわりと弾き返す。
「私があの時、猫に手を差し伸べていなかったらどうなっていただろうか。
きっと、不慣れな踊りを拒むその口も、冷たく動かなくなっていたことだろう。」
恍惚の中、これまでの自分の惨めな人生の全てが受け入れられるような、そんな確信がすでにジョゼの中に漲っていた。
「分かりました。恩人のあなたのために、踊ってみましょう。」
マニュは、舞を始めた。透き通った衣が翻る。はじめはぎこちなく、次第にしなやかに動くその身体に合わせて、儚い色をした炎が夢のように爆ぜるのであった。
ジョゼは、この上ない至福に自分の心が輝いていくのを感じた。
「マニュ、お前はなんと美しいのだろう。こっちへおいで。ほら、私の手を取って。恩人の傍にいることはなんとも心安らぐことなんだろうね。想像してごらん。」
マニュに触れようと、そっと手を伸ばす。
「いえ、私はそろそろ仲間を探しに行かねばなりません。」
先程と変わらぬ美しい佇まいのままで、精霊は毅然とした声を響かせる。
「仲間だと。お前にそんなものは必要ないだろう。その仲間は雨に打たれたお前を助け出してくれたのか?いや、お前を助け出したのはこのジョゼだ。お前は私と一緒にいればもう安心だ。」
ジョゼはとうとう立ち上がり、精霊の手を掴んだ。
白くて温かなその手は、ぐにゃりとしなだれている。
「それはいけません。私はじきに、婚礼の儀を上げます。」
「結婚だと?私の救ったその生を、ほかの者に捧げるというのか。」
「あなたには感謝しております。ですが私は火を司る者としての使命を全うしたいのです。そして、それを共に成し遂げる心強い存在もいるのです。」
精霊はジョゼの手を引き離そうと後ずさる。
「お前に使命などあるものか。あるとすれば、このジョゼと永遠に時を共にすること、それだけだ。」
ジョゼも腕に一層の力を込める。
「このまま私を離して下さらないというのであれば、あなたの手を焼き切ってしまわないとならなくなります。恩人を傷つけることなどしたくはありません。お願いですから、その手をお離し下さい。」
「やってみろ。手など構うものか。私の手など焼いてしまえ。できるものであればな。だがそんなこと、はったりに違いない。お前が私を傷つけるなど、あり得ないからな。」
「私の望みを聞き入れて下さるおつもりは無いのですね。」
温もりは一瞬で敵意に代わり、業火となって老人の手を燃やした。
それは無数の針のように皮膚を突き刺さし、ドリルのように肉を抉った。衝撃も痛みも認識を拒まれ、代わりに、裏切りに対する憎しみが全身を支配した。
「なんという非情さだ。このまま野放しにはさせぬ。この命に変えても、この冷徹な心はこの世から絶やさなければならない。それがきっと、神が俺に与えた役目なのだ。」
ジョゼは、精霊を身体ごと抱きかかえた。
精霊は身をよじり、逃れようとする。抵抗の炎はすかさず、ジョゼの全身を覆う。
火だるまのジョゼはもがく精霊を抑えつけ、走った。焼けていく身体などお構いなしに、ひたすら走った。
教会の中庭には、大きな鐘があった。その横に小さな井戸を見つけ、飛び込む。
ジョゼを焼いていた火は、しぶきの中に溶けるようにあっという間に消えた。冷たい井戸水がただれた肉に氷のように張り付く。血が滴り、溜め水に染みていく。精霊の身体は蝋のように固くなった。
その時、強烈な光が井戸の中に差し込んだ。巨大な炎が怒るように燃え、中から何者かが太い腕を伸ばす。それは精霊の身体をすくい上げると、瞬く間にまばらな星の間へと消えていった。
井戸を干からびさせる程の郷烈な熱風。その後に残ったのは、丸焦げになった瀕死の老人の、呆けた顔だけであった。
鐘 実未 さき子 @sami731
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