恋 was lie .

トドロキ

たとえ、届かなくても

窓の外の雨だれの音に耳を傾ける。

季節は春。桜の開花時期にはもちこたえていた青空が、とうとう耐えかねたように穏やかな雨を降らせ始めた。


アキラは、雨が好きだ。

傘をさしていると、露先つゆさきと地面を結ぶ雫がカーテンのように、猥雑な外界を遮ってくれる。傘の内側で、一人きりになれるのだ。それがアキラには心地よかった。


「ちょっと、聞いてる?」


空想から呼び戻され、眼前の人物に焦点を合わせる。意識を外側に向けた途端、瞬く間に雑音の渦に飲み込まれる。アキラは息継ぎするように口を開いた。


「ごめん、なんだっけ」


彼女は小さくため息をついた。それは呆れているのではなく、諦めているようだった。こうしてアキラが不注意になることに慣れているのだろう。

彼女は、喫茶店で向かい合う幼馴染に、同じ問いを繰り返した。


「高校の同窓会だよ、行く?」


その言葉で、直前の話題がなんだったのかを思い出した。彼女は話を続ける。


「正直、面倒くさいんだけど、ケイタが来いってうるさいんだよ。幹事任せれたらしくてさあ、助っ人が欲しいんだって」


わずかに、胸の内が波立つ。そうして波立った自分自身に唇を噛んだ。彼女がファーストネームで呼ぶ相手は、異性では限られている。それに大学に入ってからは他に知人もいないので、アキラだけを名前で呼んでいた。

そんな些細な根拠によりすがって、自分は特別だと思い込んでいたことが忌々しかった。


動揺を押し殺し、持ち前の合理的な洞察で論理を展開する。

彼女は自分に、「助っ人になるべきか否か」を訊いたのではない。「行くか行かないか」を尋ねているのだ。その文脈に鑑みれば、アキラの選択如何によって自身も出欠を決めようという意思がある。

自分の存在が彼女の決定を左右しうるという事実が、わずかにアキラの心を和ませた。


しかし同時に、彼女を頼る異性の存在、そして彼の頼みを無下にできないという関係性が、アキラを苛む。


「どれぐらい、集まるって?」


なるべく結論を迂回しようと質問する。


「んーと、確か、うちのクラスが半分と、あと仲の良かった他組も来るらしいから、20人前後かな?」


とすると、かなりの大所帯だ。赤の他人ならまだしも、見知った人々の集まりに参加するのは、高校3年間を内向的に過ごしたアキラにとって、あまりにも気の重いイベントだ。


「あんまり、行きたくないかな」

「だよねー」


あっさり同意されたことで、アキラは肩が軽くなった。しかし彼女はまだ悩ましそうに、頬杖をついたまま横に傾いだ。


「たださあ、ケイタがどうしてもってうるさいんだよねー」


その時はっきりと、心が軋んだのをアキラは感じた。

一体、いつから声をかけられているのか、どれぐらい頻繁にやり取りを交わしているのか。湧きおこる疑問が口をついて出る。


「…そんなに、前から言われてたの?」

「そうなんだよ。最初にメンドいからやだって言ったんだけど、どうしてもって言われちゃってさ」


彼女は肘をついたまま、グラスを大きく傾けてストローをすすっている。普段は礼儀正しい彼女だが、アキラと1対1の時だけは、多少だらしない振る舞いをする。それをたしなめるのも自分のささやかな特権だと思っていた。

しかし今のアキラに、彼女の粗忽を指摘する余裕はなかった。


「田中も、けっこうしつこいな」

「そうなんだよ。ほら、私、同じ陸上部だったじゃん? 他に女子で仲いい子もいないから、どうしても女子をまとめる人手が欲しいんだって」


軋んだ心にさらに歪な力が加わって、不可逆なヒビを入れる。

認めがたい結論が、アキラの思考を冒していく。既に彼女の中で、彼の手伝いをすることは決定していること。そしてなにより、普段は自分の意見をはっきりと言う彼女が食い下がられたら断れないほど、田中ケイタと親しい間柄であること。その事実だけで、肉を爪で抉られるようだった。


しかし、そうとわかっていて彼女の決断を能動的に阻止するような気力もなかった。彼女に近しい異性の存在は怖い。しかしそれ以上に、彼女に露見してしまうことの方が、ずっとずっと怖かった。


アキラは暗澹として黙り込む。すると、彼女は大きく右に傾けていた体を勢いよく正し、手を合わせた。


「だからお願い! アキラも一緒に来て!」


アキラはその瞬間、彼女の真意を理解した。彼女はおそらく同窓会に欠席するであろうアキラの意思を確かめたうえで、それでも気兼ねの要らない存在が欲しかったのだ。

だとすれば、元同じ部の男子と幼馴染、彼女により必要とされているのは、アキラの方ということになる。


それでも不安だったので、アキラは尋ねた。


「田中は、お前だけの方がいいんじゃない」

「えっ? なんで? やだよ」


彼女は露骨に顔をしかめた。その表情が、彼女は田中ケイタに対して旧友以上の心証をもっていないことを証明している。

アキラは今度こそ安堵のため息をついた。


「仕方ないなあ。そこまで言うなら行くよ」

「ほんと? ありがとう! 私もああいう場所好きじゃないからさー」


彼女も安心したのか笑った。


その後は、取り留めもない会話をして、席を立つ。会計をすませて店を出ると、雨はまだ降り続いていた。

アキラは軒先で傘立てから自分の傘を取り出そうとした。ところが傘立てには、彼女の赤い傘の他には、見覚えのないビニール傘しか残っていなかった。


「あ」


二人同時に声を上げる。アキラが何か言おうとするより先に、彼女は大げさに顔をしかめた。


「ひっどーい! 傘泥棒?」

「間違えただけかもしれないし」

「間違えないでしょ? 残ってるの透明なのだけじゃん。アキラの黒でしょ?」


アキラ自身も仕方ないと諦めてることに対し、彼女は大きく憤慨した。


「もー! 持ち主が困るって思わないわけ?」


彼女は小さい頃と変わらず、実直な正義感を臆面もなく主張する。それはアキラが何より尊いと思っている彼女の性質だった。

彼女は、真っ赤な傘を広げた。


「じゃあ、私のに入ってきなよ」

「いいよ。もう止みかけてるし」


そう言って、軒下から一歩踏み出すと、彼女が手を引いた。


「だーめ! 風邪ひいたらどうするの」


瞬間掴まれた左手首に、彼女の柔い肌と冷えた体温を意識してしまう。

そんな一瞬の出来事に、体が震えた。


彼女はアキラを傘の内側に引き込むと、なるべく二人の肩が濡れないようにアキラに寄り添った。

彼女は大きく息を吸い込んだ。


「あー、好き」

「えっ」


不意な言葉に、アキラは思いがけず声を上ずらせた。


「この匂い。雨の匂いっていうか、土の匂いっていうか」

「ああ、匂いか」


アキラはほっと息をついた。


「昔からね。雨は嫌いだけど、匂いは好きなんだよ。アキラは?」


彼女は幼馴染に尋ねた。


「うん。そうだね」


そして一拍ためらってから、小声で言い添える。


「私も、好き、かな」

「ねー!」


そして穏やかな雨の降る中、彼女たちは駅に向かって歩き出した。

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