視線

三角海域

視線

 私は彼を見つめている。

 私は彼のすべてを知りたい。知って、触れて、愛してほしい。

 彼が向けてくれた優しさ。たった一つのその優しさが、私に光をくれた。

 闇だけだった。

 春も夏も秋も冬も朝も昼も夜もいつだって私には闇だけだった。

 光なんて縁がないと思ってた。

 親に殴られるときの痛み。その痛みが走る時に目にちらつくものが、私の中の光だった。

 だから、私にとって光は、痛いものだった。

 痛覚と直結したものが、光だった。

 でも、知った。光があたたかいものだってことを。

 光が、愛おしいものだということを。

 あの、巨大な学校という箱の中で、私はもがいてた。

 あの、小さな家という豚小屋の中で、私は震えてた。

 あなただけが、私の光。

 あなただけが、私の生きる意味。

 あなただけが、私の……。



 部屋をひたすらに訪ね歩く。

 そんなことをここ最近二人の少女は続けている。

「そこもうまわったよ」

「そうでしたっけ」

「不審者だって通報されないかな。ここ最近毎日うろついてるし」

「学生は怪しまれにくいですよ。授業の一環でっていえば大体は納得してもらえますし」

 確かに、それでなんとかなってはいる。だが、目的も聞かされず少女に付き合わされている友人からしてみれば、ここ数日の行動は十分不可解である。

「あと、女子だってことも強みですね」

「なんで?」

「変態なのではという疑いがかけられにくいです」

「まあ、そうかもだけど」

「学生と女子という二つの強みがある。これって最強ですよね」

 何に対してなんだということは訊かない。

 友人が最初に彼女と出会った時は、もっとこう、不思議な魅力を持った女の子という感じだった。

 しかし、いざ友人となり関わってみると、なかなかにエキセントリックというか、面白い子だということがわかった。

 時々、こういう風に謎の行動をとることがある。その理由を問うても、大体はごまかされて終わる。

 じゃあついていかなければいいではないか。彼女もそう思うのだが、なぜだかいつもついてきてしまう。

 だだっ広い団地だ。同じような建物がずらっと並んでいる。

 横長の四角が、四方を囲んでいる。なんだか息苦しいなと友人は思う。

 まるで、巨大な壁に閉じ込められている気分だった。

「ここも違いますね。じゃあ、次の棟行きましょうか」

 少女はそう言って、また歩き出す。

「まだ続けるの?」

「気になりますから」

「何が?」

「なんでしょう?」

 またごまかされた。友人は溜息を吐き、少女に続いて歩き出した。

 次の棟で同じように部屋をまわっていると、ある部屋の前で少女は立ち止まった。

 じっと扉を見つめている。

「ここですね」

 なにが? という友人の言葉が口から発せられるより早く、少女はその部屋の呼び鈴を押した。

「ちょ、ちょっとさすがにやばいって」

 少女は平然としている。そうしている間に、部屋の扉が開かれた。

 出てきたのは、若い男性だった。

「……何か?」

 突然訪ねてきた女子高生。不審がられても仕方がないだろう。

「視線を感じませんか?」

 いきなり少女が言う。もう駄目だ。完全に不審者だ。友人は言い訳をするべく前に踏み出す。

 だが。

「……なんで知ってるんだ」

 男性は青い顔をして、そう言った。

「あ、大丈夫ですよ、悪意はないので。ただ、ちょっと愛が重いんですね多分」

「なんのことだ」

「視線の正体のことです」

 男が息をのむ。友人はただ二人の会話を見ていることしかできないでいた。少女が言っていることがなにひとつわからない。

「こう、ものすごく強い愛情を向けられる覚えありませんか? 主に学生時代」

「学生時代って、そんな昔の事……」

「解決できるかもですよ」

 少女の一言に、男の表情が変わる。真面目に考え出したようだ。

「……ひとつだけ思い当たることがある」

 少女は無言だ。男が続きを話すのを待っているのだろう。

「いじめられてる女の子がいた。後輩の子だ」

「接点は?」

「ない。ただ、たまたまその子がいじめられているのを見かけたんだ。それを注意した」

「その後は、何も?」

「ああ。ただ、その、なんて言ったらいいのか。助けたあと、付きまとわれていたようには思う。遠くから見られているというか。それが卒業するまで続いた」

「なるほど。その後、その子に付きまとわれたりはしました?」

「いや。というか、無理だ」

「なぜです?」

 少女はそう訊くが、友人はなぜだか少女が理由を知っていて、あえて訊いているように感じた。どうしてと訊かれても、友人にもわからない。ただ、そう「感じた」のだ。

「死んだんだ」

「彼女がですか?」

「ああ。自殺したらしい。いじめや、家庭の問題が原因らしい」

「なるほど。そういうことですか。わかりました」

 何が分かったというのだろう。友人は少女を見る。少女も友人の方をちらりと見て、微笑んだ。

「今日でここにくるのも最後になると思います」

 そう言うと、男に妙なお願いをした。

「一度扉を閉めて、郵便受けからこっちをのぞいてもらえますか?」

「何のために?」

「解決のためにです」

 男は納得しかねる様子だったが、渋々少女の言葉に従った。

 扉を閉め、言われた通り男は郵便受けをのぞいた。

 少女は外から郵便受けを開けている。男の側からは、外が見えていることになる。

 少女が小声で何かを言った。そして、続けて扉に向かい言う。

「ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」

 男が扉を開け、外に出てくる。

「何の意味があったんだ」

 男の質問には答えず少女は言う。

「中原中也さんの月夜の浜辺という詩を知ってますか? 月夜の晩に、波打ち際に落ちていたボタンを拾うんです。なぜかそのボタンを捨てることができないっていう内容なんですよ。指先に沁み、心に沁みたと書かれてます。どうしてそれが、捨てられようかという締めくくりです」

「それとこれになんの関係があるんだ」

 少女は微笑む。

「他の人にとってはただのボタンでも、当人からしてみれば特別ってことです。あなたが向けた優しさが、彼女にとっては月夜のボタンだったんですよ」



 日が落ちてきていた。夕暮れの橙色が、白い団地の壁を薄く染め上げている。道の上に、細く長い影が出来ていた。その上を、二人は歩いている。結局、あのまま二人は男と別れた。あの行動の理由は話さないままだった。

「ボタンってそういうことだったんだ。というか、なんで知ってたの? あの人が、その、視線に困ってるってこと」

「たまたまです。この先に小さい本屋さんがあるんですよ。古書専門なんですけど、ときどきのぞきに行くんですよね。その帰りに、ここら辺からなんか嫌な感じがしたんですよ。でも、その嫌な感じがどこから出てるかわからなくて」

 だから、地道にまわっていたのか。

「あの時扉の前で何か言ってたよね。小声だったからよく聞こえなかったけど」

「目が合ってよかったですねって言ったんです」

 誰に。と訊こうと思った友人は、言葉を詰まらせた。

 視線。誰かが、あの男性を見つめている。

 閉ざされた郵便受けから向けられた視線。扉に張り付いている姿を思い浮かべる。

 では、あの時。少女が郵便受けを外から開けた時も。

 いた?

 あの距離で、目が、合った。

 友人の背中に冷たいものが走る。

「ほとんど本能ですよ。強い思いだけがとどまっていたんでしょう。悪意はない。ただ重い愛が故にってことです。ああして目が合って、彼女も満足してくれたようでよかったです」

 日は、どんどん傾いていく。

 夜の気配が、強く感じられた気がした。

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