きみに会うための440円

ゆあん

きみに会うための440円 ①

 他人に言えない秘密がある。


 そんなとき、「墓場まで持っていく」なんて言い回しをすることがある。日本にはそういう、あえて回り道してぼかすのを美徳とする文化があるらしい。

 人はそれを「風情がある」とか言うが、俺はそれについて、特段なにも感じたりはしないし、もっというと、そもそも他人に興味が無い。俺は俺だし、他人は他人だ。

 だが、俺に興味があるかないかどうかはともかくとして、俺の身内には「まさにそれを体現した人物」が、実際にいる。


 祖父がなくなったのは随分前のことだが、俺がその秘密を知ったのは最近のことだ。




「隠し子?」


 日常離れしたその言葉に、俺は思わず聞き返した。


「そうなのよ。あんたには言ってなかったけれど」


 その発信源である母は、先程から、タンスの中身を広げては綺麗にたたみ直すという作業を、延々と続けている。


「おいおい、一体なんの冗談だ」

「冗談でこんなことが言えますか。まったく」


 母の手によって旧家の畳に広げられる晴れ着達は、恐らくこの一年の間、一度も出されずにタンスの中で過ごしていただろう。汚れや虫食いがないかどうか、不要なものはないか。そうした確認は毎年こうして行われていて、おっくうだとかなんとか不平を鳴らすのも恒例であるが、今日のそれに限っては、母の不穏を落ち着かせるのに一役かっているようだ。言葉の真意を探るべく観察してみれば、先程から同じ服を開いては閉じている。


「ちょっとまってくれ。隠し子だなんて、突拍子もない。隠し子がいる、っていうのはつまり、ばあちゃん以外の人との子ってことだろ。あのじじいに愛人がいたっていうのかよ。そりゃあ傑作だぜ」


 俺はその話題の時代感にふさわしく、縁側であぐらをかき、茶化すようにして腿を打った。

 愛人? 隠し子? 

 時代は平成を通り越して令和に入ったというのに、いったいこのおっかさんは何を言い出すのか。


「たしかその子、わたしと数個しか歳が違わないのよ」


 しかし、母のため息は深かった。どうやらそれは本当の話らしい。最近目立つようになったシワが、一層際立っている。


「その隠し子が?」

「その愛人が」


 俺は自分の目が丸くなるというのを自覚し、そして次には盛大に吹き出した。


「いやぁ、そうかそうか。それは大したことだ。自分の娘と同い年の愛人って、いやはや、男としては尊敬するよ」

「こら円翔まどか。滅多なことを言うもんじゃありませんよ」


 あまりにも衝撃的な内容に、俺の調子は天まで昇ってしまっていた。カジュアルに言うなら、そのエキサイティングなサプライズに、思わずハイになってしまった、というところだろうか。



 実際、俺にはそれがどういうことなのか、すぐには想像ができなかった。だからこその衝撃だったのだ。


 幼少期、確かに俺はじいちゃん子だった。


 俺たちの住処とこの旧家の間は、子供の足で一時間もかかる、とうてい近所とは言えない距離だったが、それでも俺は暇さえ見つければ旧家に訪れていた。それは休みだったり学校帰りだったり、酷いときには学校をサボってまでそうしていたのだ。理由はもちろん、おじいちゃんに会うためだ。

 祖父の家は、ここら一帯ではそこそこの家柄の、そこそこにでかい土地を持っている、いわゆる農家だった。そこそこの農家と言いはするが、その母屋は嘘みたいに馬鹿でかい訳で、そんな城みたいな家の主というだけで、親父なんかよりも幾分もかっこよく見えた。


 じゃあ祖父がどんな人物だったかと聞かれれば、普通のおじいちゃんだったと言うしかない。


 祖父は子宝に恵まれず、念願の子供は女の子、それも一人っ子だった。つまり俺の母なのだが、その母に恋した男は、都会的で仕事ができる男で、母もそんな姿に憧れた。結婚の話がでたころ、会社の経営に深く入り込んでいた男はいまさら会社を去る訳にもいかず、母もそんな男を支える人生を選んだ。その男というのは、いうまでもなく俺の親父である。

 そんな背景もあり、祖父は継ぎ手を外部から向かい入れるしか無かった。

 幸いにもその人材はすぐに見つかったのだが、俺が物心ついて通うようになった頃には、実質的にその人が切り盛りをしていた。幸か不幸か、その人には農業の才覚があった。


 つまり祖父は、やることが無かったのだ。徹底して、暇だった。

 やることがない。役割がない。これは人を急激に老けさせる。

 そんなところへ、孫の来訪である。それはもう顔をくしゃくしゃにして、とにかくかわいがってくれた。俺はそれが嬉しくて、通っていたのだ。喧嘩っぱやく、友達が少ない俺には、救いの愛情だった。


 祖父はいろいろなことを教えてくれた。中でも魚捕りは俺にとって伝説になっている。魚釣り、ではなくて、魚捕りだ。俺は、人は極めれば素手でも魚を捕まえられるということを、祖父から学んだのだ。そうして確保した川魚を焼いて食べるのは、格別だった。


 とにかく、俺にとっての祖父とは、そういう人種だ。少なくとも、スーツをばしっとキメていたり、財布には万札とカードがぎっしりとか、そういう都会的な鋭さを微塵も持っていなかったし、かといって、筋骨隆々で男らしいのとも違う。自分から女に話しかけることもなければ、言い寄られるタイプでもない。男とか女とか、そういう性別を超越したところの、いわゆる「おじいちゃん」という生き物が、俺の祖父だった。


 そんな祖父に、隠し子である。

 祖父に愛人がいたという事実は、大人になった今だからこそ驚く程度だが、子供の頃なら天変地異に等しい大事件だ。


 そして祖父は、それを文字通り、墓場まで持っていった。


 母によれば、祖母も含めて、その事実に気がついた人間は皆無だったらしい。葬儀の際、見知らぬ女が子供を連れて参列していたのを、親族の幾人かが目撃しており、数年の後、ひょんなことから、それが祖父の愛人とその子供であるということが判明したそうだ。


「その話、親父は知ってるのか」

「ええ。当然でしょ。わたしが相談しない訳、ないじゃない」

「け、なんだよ。俺だけノケモンってことかよ」


 俺はわかりやすくイジケてみせた。とは言え、答えは聞くまでも無い。どうせ、親父の塩梅とかなんとかなのだろう。母は親父の言ったことに逆らわない。それを知ってて言ったのは、俺なりの嫌味だ。


「簡単な話じゃないのよ」

「わーってるよ、そんなこと。これでも二十歳の大学生だ。それくらいの分別はつくよ」

「あなた、おじいちゃんっ子だったじゃない」

「だから分かってるって。だけど、それが何よ。それでショックを受けるとでもいうのか。って、確かにガキんときの俺ならダメージがでかいかもな」


 庭を見れば、当時の思い出が蘇ってくる。庭は当時とあまり変わらない姿で、そこにある。シーズンごとに母がここを訪れ、手入れしているらしい。おかげで雑草などの被害は最小限だが、行き届いていない盆栽だけが、その思い出との相違点だった。


「じっちゃんの子、か。見てみたいかもな」


 俺は心底、祖父を尊敬していた。俺の最大の後悔を語れと言われれば、その死に際に立ち会えなかったことだ。

 俺はその日、珍しく友達と野球をしていた。誘われたことが嬉しくて、たいして仲良くもない奴と日が沈むまで遊び通していたのだ。

 俺が帰宅した時、家は真っ暗で、鳴り響く受話器を取った時の、親父の言葉が忘れられない。


「円翔か。今すぐタクシーに乗って病院に来い。じっちゃんが死んだ」


 急性心不全という奴だった。正直、どうしようもない。ガキの俺がそばにいたからって、どうかできたとは思えない。

 だが俺は、その場にいなかったことを後悔した。後悔とはこういうことを言うのだと、俺は一番教えられたくない人から教えられたのだ。

 結局それっきり、その友達とも遊んでいない。


「会いたい?」


 回想を打ち破ったのは、母の声だった。


「本当に、会いたい?」


 俺は思わず振り返り、そして言葉を失った。その言葉は明らかに、母らしくない。今日の今日まで、この事実を俺に伏せていた事自体が、恐らく親父からの言いつけだったのだろう。この問は、答えによっては、それを破ることになる。そんな含みを持っていたからだ。俺はそんな母を見たことがないし、傾ぐ日差しがその表情に深みを出していて、迫力があった。俺は唾を飲んだ。


「会いたい、と言ったら?」


 知って、どうなるのか。会って、どうなるのか。今更、どんな顔をすればいいのか。そういったことは、残念ながら返答した後に思い至ったことだった。俺は脊髄反射的に、答えてしまっていた。


「これを言ったら、お父さんに怒られる。けど、そうよね。あなたも大人だもの。どうするかは、わたし達が決めることじゃ、ないものね」


 母はそう言って、ゆっくりと立ち上がり、タンスから一冊の手帳を取り出し、俺の横に正座し、それを差し出し、言った。


「それを開けてみなさい」


 俺の手は吸い込まれるようにしてそれを受け取った。古い、もはやどこで手に入ればいいのかわからない、重厚な一冊。黒ずんだ紅の表紙をめくると、一枚の写真が滑り落ちてくる。俺はそれを慌てて手に取った。可愛らしい少女が、ぎこちない笑顔をこちらに向けている。


「これは……鳴海なるみか?」


 その少女には見覚えがあった。むしろ、よく知っている相手だった。


「おお、そうだ。鳴海だ、鳴海。うん、こうしてみると、あんまり変わらないんだなぁ、あいつも。でも、なんで鳴海の写真がここに」


 その瞬間、俺の体内に電流が流れた。それは、全身を支配している筋肉運動を促す微細なものではない。それは雷だ。俺はこの瞬間、間違いなく雷に打たれた。それほどのなにかが、俺の中で弾けたのを感じたのだ。


「嘘だろ」


 母は何も言わなかった。ただそこに事実があるように、母も、ただそこで、俺に無色の視線を投げ続けるだけだった。



つづく

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