35.

 かつての高級住宅地を抜けた途端とたん、アスファルトに舗装されていた道は、元の砂地に戻ってしまった。

(金持ちの住んでいた地区の道だけを綺麗きれいに舗装したのか……露骨なんだな)

 そんな事を思いながら運転をしていたら、サトミが心配そうな顔をこちらに剥けてきた。

「ねぇ、あの黒い天狗、追いかけて来ないかな?」

 サトミにそう言われ、僕は、あらためてバックミラーを確認してみた。

 ミラーには何も映っていなかった。

 もちろん……狭いリアハッチの窓ごしに黒天狗が映っていないからといって、安心できるわけでもなかった。

 鳥のように空高く飛んで追いかけてくる『何か』を見つけるのには、リア・ガラスもバックミラーも小さすぎる。

「サトミ、ちょっと助手席の窓を開けて頭を出して、後方を確認してみてくれよ。後方上空の空をさ」

「ええ? 嫌だよ、そんなの……」サトミが不満げに言った。「顔を出した瞬間、真上に隠れていた怪物が、ガブッ、なんてB級ホラー映画のお約束じゃん」

「お前さっきから、やけにB級ホラーのお約束展開を気にすんのな」

「私、引きこもりだったからさ……世の中を生き抜くための知識は全部、パソコンの画面から得たの。ネット・ニュースに、匿名掲示板、SNS……動画配信サービスでよく観たホラー映画もその一つ」

「そりゃ、情報がかたよるわけだ」

 とりあえず、黒天狗は追いかけて来ないみたいだった。

 やがてジムニーは『ここより六本木村』という看板を通り過ぎ、両側に古びた民家が並ぶエリアに入った。

「ここが〈六本木村〉かぁ……」運転しながら、道の両側の家々を眺める。「予想以上にさびれてんなぁ」

「古いを通り越して、なんか朽ち果ててるとしか言いようのない家も多いね」とサトミが相槌あいづちを打つ。「この村、本当に人が住んでるのかなぁ?」

 さっきのヒルズ地区で見た、打ち捨てられたかつての豪邸が廃屋になって並ぶ様も不気味だったけど、普通の民家が朽ちている様も、それはそれで、見ていて何だかない気持ちにさせられる。

 それでも、家々をよく見ると、人の住んでいる気配のある家も少なからずあった。どこがどう、とハッキリは言えないけれど、パッと見おなじようでも、やはり主人の居る家は、朽ち果てるのを待つばかりの無人の家とは雰囲気が違った。

 集落の中ほどに『トクバ商店』という薄汚れた看板を掲げた、薄汚れた民家があった。

 その家の前に車を寄せて一時停止してみる。

 一階部分の前面が窓の大きなアルミの引き戸になっていて、その窓から薄暗い家の中が見えた。

 食料品店などでよく目にする商品陳列用の棚が二本並んでいた。

 どうやら、民家の一階部分の土間を商品スペースに使った、小さな食料品店か雑貨店のようだった。

「なんか、売れてなさそうなお店だね」とサトミ。「こういう所の商品って、賞味期限切れのことが多いんだよねぇ。ホコリをかぶっていて不潔な場合もあるし」

「そりゃ、偏見ってもんだろ」僕は運転席のドアを開けて外に出た。

「ちょ、ちょっと、こんなお店で買い物?」

「情報が欲しい。ちょっと店の人に聞いてくるよ。ついでに何か飲み物買ってこようか?」

「なら私も行く」サトミが助手席のドアを開け、自分もジムニーから出てきた。

「ケンゴウくん、ひょっとして、ここじゃ現金は使えないってことを忘れてるんじゃない?」そう言いながら、サトミが店の扉を指さす。

 窓ガラスにカード会社のロゴ・シールが何社か貼られていた。

 ……こんな田舎のボロい商店でも、こんなに何種類ものカードが使えるのか。

 その中にマスターのロゴもあった。

「あっ、そうだった……」

 僕はうなづき、車内冷房のためにアイドリングさせていた自動車くるまのエンジンを切った。

「さっきは慌ててたから出しそびれたけど、カードなら僕も持ってるんだ。クリスタルとかいうスペシャルなヤツじゃなくて普通のカードだけど……ここでの買い物は僕が払うよ」リモコン・キーのボタンを押しながら、僕はサトミに言った。「さっきのガソリンスタンドではサトミに払ってもらったし、こんどは僕が、って事で」

「別に、いいのに……」

「まあまあ……僕が払うって」

 商店の前へまわって、アルミサッシの引き戸を開けた。

「ごめんください」言いながら、店内に足を踏み入れる。

 サトミも僕の背中にピッタリ貼りつくようにして店内に入り、後ろ手に戸を閉めた。

 通りから見て想像していたより店内は明るかった。

 外を照らす太陽の反射光が、引き戸のガラス窓ごしに家の中まで入ってくるからだろう。

 天井を見上げた。

 昔の白黒映画に出てきそうな傘をかぶった白熱電球が、天井から吊られていた。店内の照明はそれ一つのようだ。

 空調のたぐいは見当たらなかったけど、空気はヒンヤリと冷たい。

(ちょっとカビくさいな)

 そんな事を思いながら、もう一度、こんどは少し声を大きくして「すいませーん」と店の奥の暗がりに向かって言った。

「やっぱり、誰も居ないんじゃない?」

 サトミがそう言った直後、奥の暗がりに人の気配がして、腰の曲がった老婆が出てきた。

「いらっしゃい」腰の曲がった老婆が、僕らを見て、陰気な顔と陰気な声で言った。

「あ……あの」僕は急いで店内を見回した。

 スナック菓子に、味噌・醤油などの調味料、乾物……確かにサトミの言った通り、どの商品の包装容器にも薄っすらとホコリが乗っている。

 どれを見ても食欲をそそられないし、買おうという気にならない。

 ふと、奥にコカ・コーラの赤い色に塗られた小さな冷蔵ケースがあるのに気づいた。

 急いでその冷蔵ケースの所まで行き、中からコーラの500MLペットボトルを二本出して、老婆の待つレジカウンターまで持って行く。

 老婆が古臭いレジスターを叩いて金額を言い、僕はカードを出して伝票にサインを書いた。

 サインをしながら老婆にたずねてみる。

「あの……この近くにキャンプ場があるって聞いたんですが……」

「ああ? 何だって?」老婆が右側の耳を僕の方へ突き出した。

「えっと、キャンプ場までの場所を教えてもらえますか?」

「ああ? 何だって?」

 ……この婆さん、耳が悪いのか……

「だ、か、ら……キャ・ン・プ・じょ・う!」僕の声のボリュームも、だんだん上がっていく。

「ああ……」やっと理解したような顔で、老婆が言った。「溜池ためいけにあるキャンプ場ね……」

溜池ためいけ? 湖って聞いたんですけど」と僕。

「だから、溜池だろ?」と老婆。

「いや、溜池じゃなくて湖です」

「だから、溜池のことだろ?」

「溜池じゃなくて湖に行きたいんです」

「そりゃ溜池のことじゃよ」

 何回、僕が『湖』と言っても、老婆は『溜池ためいけのことだろ』と返してくる。

 ……この婆さん、耳が悪いだけじゃなくて、頭のほうの老化も進んでいるんじゃないのか?

 こんな所で問答を繰り返しいても仕方がない。

 いちおう念のため、その『溜池』とやらへの道順を教えてもらうことにした。

 聞いてみると、今まで走って来た道をさらに真っ直ぐ進んで行けば、看板が見えてくるはずだ……という事だった。

 僕らが礼を言って店を出ようとしたとき、猟銃を持った老人が店に入って来た。

 狭い店内で、出て行こうとする僕らと入ってくる老人がちがう。

 老人は、いかにも他所者よそものを見るような胡散臭うさんくさそうな目で僕らをジロジロと見た後、カウンターの老婆に向かって「婆さん、30サンマル06マルロクを一箱くれ」と言った。

「何だい、また〈ヒルズ〉へ猟しにお出かけかい?」老婆が小さなボール箱を出しながら客の老人に言った。「松吉まつきちさんも物好きだね。獲物は、例の化け物からすかい?」

 ボール箱の表面には、ライフル弾らしきイラストがプリントされていた。

「ああ。そうだ」と猟銃を持った老人(松吉さん)が言った。「さっき〈ヒルズ〉の方から銃声が聞こえたんだ……例のちげぇねぇ。今度こそ仕留めて、オレの剥製はくせい部屋の真ん中に飾ってやる……ヒェッ、ヒェッ、ヒェッ」

 銃を持った老人の気味の悪い笑い声を聞きながら、僕らは『トクバ商店』を後にした。

 店の前には、僕らのジムニーの後ろにピタリと付ける格好で、白い軽トラックが縦列駐車していた。

 ジムニーの鍵を開けて運転席に乗り込みエンジンを掛け、僕はコカ・コーラ500MLペットのキャップを回した。

「ちょっと、ケンゴウくん、賞味期限を確かめてから飲みなよ」サトミが言った。

「大丈夫だって。平気、平気。コーラなんて、そうそう腐るもんじゃないよ」

 僕は、良く冷えたコーラをゴクゴクと喉に流し込んだ。

 サトミが賞味期限を見て安心したのか、自分もペットボトルの封を切って口を付けた。

 僕らが冷房の効いた車内でコーラを飲んでいると、さっきの猟銃を持った老人が店から出てきて、いきなりジムニーの助手席側の窓をコンッ、コンッとノックした。

 車内の僕ら二人とも驚き、助手席の窓を開けようかどうしようかと迷った。

 この老人、目つきといい話し方といい、どこか『危ない』感じを漂わせている。

 不用心に窓を開けたら、僕らに危害を加えてくるかも知れない……そんな風に思わせるものが、老人には有った。

 ……無視して自動車を発進させるか?

 いや、しかし下手に老人を刺激して、ヤツが手にしている銃をブッ放してきたら、どうする?

 数秒だけ迷ったあと、僕は助手席の窓を五センチだけ下げた。

 五センチ程度の隙間なら、そこから手を入れて妙な事をされる心配もないだろう、と思った。

「何か?」

「おぇさん達、旅の人だろ?」老人がいて来た。

「はぁ、そうですが」

「あっちの方から来たんだろ?」老人が〈ヒルズ〉地区の方を指さす。

「ええ。高級住宅街の廃墟みたいな場所を通過して来ましたけど」

「全身真っ黒の……犬とからすと人のあいの子みてぇな化物バケモンを見なかったか?」

「ええ。見ましたよ……なんか、十九世紀のイギリスを真似したみたいな屋敷に入って行きました」

「そうかっ! よしっ!」

 いきなり叫んで、老人は大喜びで自分の軽トラックに乗り込み、Uターンして〈ヒルズ〉地区の方へ走って行った。

 老人が去ると同時に、僕は五センチだけ下げてあった助手席側の窓を閉めた。

「な、なんか、ちょっと危なそうなお爺さんだったね」サトミが言った。

「うん……あんなヤツが猟銃を持ってるなんて、どうなってんだ? よくもまあ銃の所有許可が下りたものだ……それともでは、銃を持つのに許可なんて必要ないのか? さっきのガソリンスタンドのジジイも拳銃持ってたし……」

「だとしたら、油断のできない危ない世界だね」

「うん。気をつけないと」

 僕は自分のジムニーのギヤを入れ、老人の軽トラとは逆の方へ自動車くるまを走らせた。

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