33.
高さ十メートルの岩から、ゆっくり足元に気をつけながら降りて、僕らはジムニーに戻った。
「助かった」エンジンを掛け、冷房をフル回転させ、運転席に体を預けて吹き出し口からの涼しい風に体を当てて冷やす。
「燃料切れの心配が無くなった事も、もちろんだけど」助手席で同じように体を冷やしながらサトミが言った。「ガソリンスタンドがあるって事は、人間が居るって事だもんね。ここがアフリカなのかアメリカなのかは知らないけど、少なくとも私たちが知っている地球上の
サトミのその言葉に対し僕は
梅塚は、警察庁の刑事だと自己紹介した。
同時に……彼の所属していた警視庁と、僕らの知っている警察庁とは違う組織の可能性が高い、とも言っていた……梅塚が居た日本と、僕らの居た日本は、似て非なるものだ、と。
(つまり、似ているようで少しずつ異なる別々の世界が無数にあって、僕らはその『似て非なる別の地球』に来てしまった、って可能性も考えるべきなんだ……ファンタジー映画やSF映画に良くある『
とにかく、あのガソリンスタンドへ行ってみようと思い、ジムニーをバックさせ日陰から出てハンドルを切り返し、大岩の反対側へ向かった。
* * *
実際にガソリンスタンドの前に行ってみると、ずいぶん古くてボロい建物だった。
「うわっ、これ廃屋じゃないの? 営業しているのかしら」というサトミに、僕は
確かに、荒れ果てた感が半端ない。
元々は白かったであろう建物と防火壁は、ペンキの半分以上が
コンクリート打ちの狭い敷地内に置かれた二つのポンプも骨董品みたいに古い。
メーターは、液晶でもLED表示でもなく、なんと、数字の書かれた板がパタパタと回転する歯車式だった。
サトミの言う通りだ……とっくの昔に営業を
やっと見えたと思った希望の光が消え、再び絶望の暗闇へ落とされた気分だった。
ええい、ダメで元々だ、と思い、骨董品みたいな二つのポンプのうち近い方の横にジムニーを付けた。
事務所から人の出てくる気配が無い。
クラクションを鳴らしてみる。
「やっぱり、営業してないんじゃない?」とサトミ。
もう一度、今度は長めにクラクションを鳴らした。
……ゆっくりと、事務所の扉が開いた……
奥の暗闇から強い日差しの中に出てきたのは、薄汚いデニム地のオーバーオールを着た、枯れ枝のように
目つきが悪いし、顔つきも悪い。
「なんか、やばいの出てきたよ」サトミが言った。「人里離れた荒野を
「……で、その映画のラストは、どうなったんだ?」
「た、確か……運転していた男の方は、殺人鬼にナイフでメッタ刺しにされて、苦しみながら殺されちゃって、助手席にいた女だけが何とか殺人鬼を撃退して
「まじかよ」
そんなバカな事を
「パッと見、東洋人みたいだけど……でも
「いやいや英語とか全然無理だから」とサトミが答える。「ってか、危ないサイコ殺人鬼かもしれない
「べ、別にそんなつもりじゃねぇよ。わかったよ。俺のド
僕は顔に引きつった作り笑いを浮かべ、恐る恐るパワーウィンドウを下げた。
「ハ、ハロー……」とりあえず、英語で
「レギュラー? ハイオク?」老人が、無愛想に言った。
……ええと……これ、日本語だよな……どちらも外来語だけど、レギュラーはともかく、ハイオクは和製英語っぽいし……
第一、発音がコテコテの日本人だ。
「あ、あの、日本語話せますか?」念のため
「はぁ?」もともと無愛想だった老人の顔が、さらに無愛想になる。「そんなの決まってんだろが。この俺が日本人じゃなかったら、いったい
「あの、じゃあ、レギュラー満タンで」
老人は「チッ」と舌打ちをして「レギュラーは、あっちだ。移動してくれ」と、もう一方のポンプを指さした。
どうやら、レギュラーとハイオクそれぞれ別に専用のポンプがあるらしかった。
(確かに、この骨董品に燃料切り替え装置が内蔵されてるとは思えないからな)
僕は
ジムニーが停車してエンジンが止まったのを確認して、老人が、車体後部の
給油をしている間に、老人がさらに「現金? カード?」と
「現金でお願いします」と答えならが、僕は財布から一万円を出す。
給油が終わり、老人が再び運転席の横に来た。
用意しておいた一万円札を、老人に渡す。
「なんじゃ、これは」老人は、僕から受け取った一万円を
「え?」
自分の表情が『困惑』の形で固まったのが分かった。
正真正銘、紛れもなく本物の日本銀行発行一万円札を、『オモチャ』だって?
いきなり、老人が、着ていた薄汚いオーバーオールの腹の部分に手を突っ込み、黒光りする拳銃をチャッと出して、僕の額に至近距離から銃口を突きつけた。
たしか、リ、リボルバーって言うんだよな、これ……ほ、本物なのか?
「兄ちゃん、年上をおちょくるのも良い加減にしろよ」と老人が言った。言いながら、親指で撃鉄をカチリと起こした。「脳みそに鉛玉でも食らうか? ああん?」
目が座ってる。やっぱり、この爺さん、サイコ殺人鬼なの? なんで拳銃なんか持ってんの? ここってやっぱりアメリカなの?
「あ、あの、これ使えますか?」サトミが、慌てて自分の財布だかカード入れだかから、クレジットカードを出して見せた。
「おお! そりゃ、ひょっとしてマスターの無制限クリスタル・カードか? 世界最高の大富豪百人しか持てないっていう」いきなり老人の両目が円マークだかドル・マークだかに変わり、無愛想だった顔に強欲商人ばりの愛想笑いが浮かび上がった。
「へへへ、こりゃ、どうも……それじゃ、ここにサインを一つ……へへへ」
何なんだよ……正真正銘本物の一万円札が突き返されて、マスターのカードが使えるってのは、どういう事だよ。
何にせよ、この無愛想爺さんの機嫌が良くなったのは確かなようだ。
この
「あのぅ……この近くにホテルありませんか? 旅館とか民宿でも良いです」
「ああ? ホテルだぁ?」この爺さん、サトミに対しては上機嫌でヘコヘコする癖に、僕に対しては相変わらず無愛想な態度で接してくる。
まあ、ここは我慢だ。
「今夜、泊まる場所があれば嬉しいな、と思って……」
「見ての通り、ここは旅人も
「キャンプ場のバンガロー? 本当ですか? それで充分ですよ。どこです?」
「この道を
そう言って爺さんが指差した方向に道なんて影も形も……いや、よく見ると地面に
(こ、これが『道』か……ただの
爺さんが説明を続けた。
「この道を真まっ直ぐ行くと、あそこに見える小高い丘へ続く坂道に
「ろ……六本木、ですか?」
「ああ。昔はあの辺に金の鉱脈があってな。ゴールドラッシュ全盛期には、ずいぶん村も栄えたもんだが……一攫千金を当てた成金どもが、競うように
「はぁ、そうなんですか……どうも、ありがとうございました」
僕らは情報をもらった礼を言って、古びたガソリンスタンドを後にした。
* * *
ジムニーを二輪駆動モードにして、赤い砂の上に車輪の跡が付いているだけの道とも呼べない道を、なだらかな丘へ向かった。
砂漠の地面は思った以上に固く締まっていて、これなら、なんとか二輪駆動でも走れそうだと思った。
メカニズム内の駆動部品が増える四輪駆動モードは、必然的に駆動抵抗が増えて燃費が落ちる。センターデフを持たないプロペラシャフト直結型のジムニーの場合、比較的グリップの高い路面での四輪駆動はハンドリングの悪化、タイヤの磨耗、駆動系への余分な負荷などのデメリットもある。
この先、どこで給油できるかも分からない。
「サトミのそのカード……マスターのクリスタル、だっけ? あの爺さん、世界でも持てるのは百人の富豪だけとかって言ってたけど、何で、そんなの持ってるの?」
運転しながら、助手席のサトミに
「……パパが、ね……私のために作ってくれたの」サトミが小さな声で言った。「もう〈消滅〉しちゃったけどね」
なんとなく、このことには触れられて欲しくないような感じだった。
少しだけ、冷房の効いた車内に気まずい空気が流れた。
僕は、話題を変えることにした。
「丘の上にある村の名前が『六本木』だなんて奇妙だよな……しかも過疎の村だなんて」
サトミが
「寂れた
「さぁ……分かんないよ……子供の頃に見た映画で『遭難した宇宙飛行士が
「つまり、ここが遥か未来の日本だってこと? 例えば、地球温暖化の影響で日本全体が砂漠化していて、実は、ここが東京の
「うん」
「確かに、そう考えれば、ナビの表示にも納得が行く。砂漠化が進行して文明が衰退した遥か未来でも、太陽電池で動く軌道上のGPS衛星だけは生き残って
「ケンゴウくんは、どう思うのさ?」
「僕らとは別の歴史を
「ふぅん……私たちの世界とは似ているけど似ていない別の世界、か」
そんな事を話しているうちに、僕らは、なだらかな丘の
少しだけアクセルを踏み増した。
僕らのジムニーは、〈六本木〉という名前の寂れた
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